20世紀号に乗って@東急シアター・オーブ 2019/03/27 14:00

OnTheTwentiethCentury

宝塚歌劇雪組による『On The Twentieth Century』の翻訳上演。潤色・演出は原田諒。潤色と言いながら、ほぼ真正面からぶつかる正攻法での上演だった。
このところの雪組は、専科・轟悠主演の再演物『凱旋門』、翻訳物『ファントム』と来て、再び、この翻訳物『20世紀号に乗って』。なんか、変則な演目が続いているトップ・スター望海風斗だが、安定感抜群であるがゆえに歌劇団はこうした演目を彼女に振ってくるのか。それに応えるように、今回もまた文句のつけようのないパフォーマンス。狂騒的なコメディを見事にこなしてみせた。

初演は1978年。元は1932年初演のプレイ『Twentieth Century』(脚本/ベン・ヘクト、チャールズ・マッカーサー、ブルース・ミルホランド)で、1934年にはハワード・ホークス監督で映画化もされている。なので、設定は1930年代。落ち目の舞台プロデューサーと大映画女優となった元教え子との、次作出演を巡る駆け引きの話。>

……と、これは2015年ブロードウェイ・リヴァイヴァル版の感想からの引用。そこから、もう少し引くと。

<映画女優役クリスティン・チェナウェスが大活躍。野暮ったい姿で出てきて、一瞬にして華やかに生まれ変わるシーンから、彼女の独擅場。プロデューサー役にピーター・ギャラガー(ブロードウェイ・ミュージカルは1992年の『Guys And Dolls』以来)、コメディ・リリーフにマーク・リン=ベイカーとマイケル・マッグラスの2人を据えて、これだけでも万全の布陣だが、脇のおかしな老女役にメアリー・ルイーズ・ウィルソンとなると贅沢とすら言える。大コケした『Rocky』のアンディ・カールも、一転して体を張ったコメディ演技で気を吐いて……。役者の顔ぶれだけでも楽しい舞台だ。>

ベティ・コムデン&アドルフ・グリーン脚本による、速いテンポの、話が二転三転するコメディを役者の力で見せていく。要するに、そういう舞台。
今回、コメディ・リリーフとなるプロデューサーの部下役が真那春人&朝美絢、アンディ・カールの演じた女優の現恋人役が彩風咲奈、おかしな老女役が専科の京三紗。それぞれに全力で挑んでいるが、なんと言ってもポイントは主演の男女。
望海風斗については前述した通りだが、驚いたのは女優役、真彩希帆のよさ。クリスティン・チェナウェスが演じたことからもわかるように、ある意味、プロデューサー役以上に目立つ役。出番も多い。リハーサル・ピアニストから女優に変身してすぐのショウ場面では、小柄な感じが弱いかな、とも思ったが、たちまち輝き始めて、後はグイグイと舞台を引っ張っていく。もちろん、望海風斗の確かな受けの演技があっての活躍だが、安定した発声も含めて素晴らしかった。愛希れいかを髣髴させる気がしたが、真彩希帆も最初は男役を目指していたのだとか。共通点がないわけではなかったのか。

最後に、やはり2015年版の感想から、楽曲についての記述を引いて幕にしたい。

<サイ・コールマン(作曲)とベティ・コムデン&アドルフ・グリーン(作詞)という、今は亡き手練れたちによる楽曲は、初演時がノスタルジー・ブームの渦中であったこともあるのだろう、懐古趣味満点で本領発揮の感が強く、今聴いても生き生きしている。>

The Chronicle of Broadway and me #091(How To Succeed In Business Without Really Trying)

19953月@ニューヨーク(その2)

『How To Succeed In Business Without Really Trying』(3月22日20:00@Richard Rodgers Theatre)は、翌年、宝塚歌劇団花組が真矢みき主演で『ハウ・トゥー・サクシード~努力しないで出世する方法~』として上演するヴァージョンの元。看板に掲げられた「H2$」という略称が印象的だった。以下、当時の感想。

<“How”の「H」、“To”が「2」、「$」は“Succeed”の「S」と“BUSINESS”の象徴「ドル」を掛けたもの。ロゴの色は「H」がピンク、「2」が白、「$」が黄。背景の緑は恐らくドル紙幣のイメージだろう。
3月8日にプレヴュー開始、23日にオープンしたばかりのリヴァイヴァル・ミュージカル。1961年の初演は1,417回上演の大ヒット。劇場は当時46th Street Theatreという名だった今のこのリチャード・ロジャーズ劇場。フランク・レッサー(作曲・作詞)最後の作品で、脚本エイブ・バローズとのコンビは『Guys And Dolls』(1950年初演)と同じだ。

窓拭きの青年が、作品タイトルと同名のハウ・トゥ本に則って大会社に入社、トントン拍子に出世してついには社長になってしまうという、’60年代前半ならではのサラリーマン無責任男ミュージカルだが、これが不景気風吹き抜ける’90年代半ばのニューヨークに見事に甦った。しかも、’90年代半ばならではの装いを凝らして。
幕の代わりに舞台前に下りているのは、ビルの壁面を思わせる幾何学的デザインの(実は半透明の)ボード。序曲が始まると、そのボードの窓に当たる部分の色が様々に変わり始める。序曲後ボードが上がると、舞台奥にも同様のデザインのセットがある。そのセットの中央寄りの部分は上から下まで全て窓になっていて、摩天楼を思わせる外景が見える。ちょうど舞台が高層ビルの上層階にあるオフィスの中になるわけだ。窓部分の左右は両サイドとも光の上下動によってエレヴェーターに見えるようになっていて、一番下にある乗降口は実際に開閉する。そのエレヴェーターが一斉に下降を始めると、驚いたことに窓の景色が同調して下がって(相対的には上がって)いき、ついには1階に到着。舞台はビルのエントランス・ロビーになり、窓の外には前庭の水が出ている噴水が見える。そして、いきなりビルの外に雨が降り始める。
この楽しくも驚くべき窓の外の景色はC.G.(コンピュータ・グラフィックス)で作られていて、この後、窓景という枠を超えてさらに大胆な動きを見せる場面もある。よく観ると、外景の摩天楼の上空を雲だけがゆっくり流れている、という細かい芸を見せていたりもする。が、何より感嘆するのは、このC.G.と、照明、装置、音楽、キャストの、ドンピシャとしか言い様のない同調ぶりだ。
それも、演出デス・マカナフ、振付ウェイン・シレントのトニー賞受賞コンビをはじめとする『The Who’s Tommy』のスタッフが作ったと聞けばうなずける。大がかりな装置、ヴィデオ、精妙な照明、キャストの複雑な動き等を見事にコントロールしてみせた『The Who’s Tommy』のスタッフにしてみれば、今回の舞台づくりは、“努力しないで”とは言わないものの、ほんの一歩踏み出すぐらいの感じだったのではないだろうか。
デス・マカナフの演出は、出入りの激しい舞台を澱みなく鮮やかに捌いていく。舞台転換はミュージカル演出の見せ場の一つだが、この作品の大胆かつ繊細な舞台転換は、それがやって来るのを心待ちにしてしまうほど楽しい。
そしてウェイン・シレントの振付は、『The Who’s Tommy』を上回る切れの良さを見せる。見せ場は4曲。オフィスのコーヒー・ブレイクの時間にコーヒーがなくて仕事をサボれないと嘆く神経症的な「Coffee Break」、女性蔑視&セクシャル・ハラスメントに秘書たちがセクシャルに抗議する「A Secretary Is Not A Toy」、TVのクイズ番組のオープニング・ショウ「The Pirate Dance」、そして大詰め、副社長にまで昇りつめたもののライヴァルの策略で絶体絶命の窮地に追い込まれた主人公が会社首脳陣を情緒的に説得する、あきれるほどに楽天的かつ笑っちゃうほどに感動的な「Brotherhood Of Man」。
特に「Brotherhood Of Man」は、同じ作者による『Guys And Dolls』の「Sit Down, You’re Rockin’ The Boat」に似たナンバーで、ここでもショウストッパーになる。次第に盛り上がっていくゴスペル調の歌(社長秘書役リリアス・ホワイトの圧倒的熱唱)に乗って踊り始めるダークスーツの男たちの神憑り的ダンスは、コミカルさと力強さが見事に合わさってワクワクさせられる。
マシュー・ブロデリック演じる主人公は、彼が映画Ferris Bueller’s Day Off(邦題:フェリスはある朝突然に)で演じた、イノセントでちゃっかりしたキャラクターに近く、不思議な魅力がある。ブロードウェイではミュージカル初出演だが、歌も踊りも破綻はない 。
他のキャストも、誇張され類型化されたキャラクターをコミカルに演じきっている。中でも、社長(ロン・キャロル=『Crazy For You』の初代ポリーの父役)の甥で出世欲は強いが無能のマザコン男バドを演じるジェフ・ブラメンクランツ(『Damn Yankees』の選手役)の怪演が光った。>

舞台でのCG表現がまだまだ珍しかった時代。デス・マカナフは先駆的に最新技術を採り入れていく人で、その点でも大いに楽しませてくれた。が、この作品辺りを境に、観る側としては、そうした技術の駆使を、しだいにうるさいと感じるようになってくる。分水嶺は、その技術が舞台表現全体にとって必要最小限かどうかの判断なのだと思う。肝心なのは、あくまで生身の演者。それが演劇の魅力だということを、最新技術ってやつが逆説的に再認識させてくれる。そういう歴史の流れ。『Dear Evan Hansen』『Be More Chill』のCG使いが効果的かつ自然に感じられる背景には、そうした試行錯誤の積み重ねがあるってことだ。
役者について一つ付け加えると、翌1996年3月、いったん降りていたマシュー・ブロデリックが復帰するのに合わせて、主人公の恋人ローズマリー役でサラ・ジェシカ・パーカーが登場。クローズまで夫婦共演となった。ちなみに、マシューの「歌も踊りも破綻はない」と書いているが、特別うまいわけじゃない、と遠回しに言っていると理解してください。味で勝負って感じでしょうか。

ところで、宝塚歌劇版『ハウ・トゥー・サクシード~努力しないで出世する方法~』だが、社長秘書役が黒塗りで出てきたのには当時ですら違和感があった。契約内容に指示があったがゆえの措置だったのだろうか。

On The Town@東京国際フォーラム/ホールC 2019/01/17

img_1024『On The Town』のブロードウェイ初演でミス・サブウェイのアイヴィ・スミスに扮したソノ・オーサトが昨年暮れに亡くなった。彼女の自伝は薄井憲二訳で「踊る大紐育~ある日系人ダンサーの生涯」として晶文社から出ている。ディアギレフとも関わったバレエ・ダンサーの人生としてはもちろんだが、サブタイトルにあるように、ある日系アメリカ人の生き方の記録としても、とても興味深い。

そんなタイミングで登場した宝塚歌劇月組の『On The Town』。これが、ほぼ初演の通りの上演という、なかなかに冒険的な試みで、面白く観た。
プログラムに載っている、潤色・演出の野口幸作の挨拶文によれば、「版権の都合上、アダプテーションは許されず、原作通りとなっております」とのこと。なるほど。

『On The Town』という演目は、「ブロードウェイ・ミュージカルの名作」(上記プログラムより)と言われるが、興業的にはそれほどのヒット作ではない。最も長く続いたのが初演で、13か月強。次が2014年版の(プレヴュー込みで)11か月半。1971年版の11月終わりから元旦までの2か月強ってのはホリデイ・シーズン狙いの期間限定かもしれないが、1998年版がやはりホリデイ・シーズンの3か月弱(プレヴュー込み)で終わったのは明らかに入りが悪かったから。
その1998年版の感想に次のような分析を書いている。少し長いが引用する。

<1944年暮れにブロードウェイに登場した『On The Town』は、ジェローム・ロビンズ(振付)が、その年の初めにレナード・バーンスタイン(作曲)と組んで作ったバレエ組曲『Fancy Free』を元に、ベティ・カムデン&アドルフ・グリーン(作詞・脚本)の参加を得て完成させたミュージカル。というのはよく知られた話だが、ポイントになるのは 1944年という上演年。
アメリカの勝ちが見えてきてはいるが、第二次大戦まっただ中。主人公の3人の水兵という設定はタイムリーなもので、 24時間の外出許可を与えられた彼らが憧れのマンハッタン(+コニー・アイランド)でつかの間の自由を味わうという物語に、観客も大いに共感を覚えたはずだ。
しかし、ストーリーは必ずしも緊密に作られているわけではなく、むしろ、“ニューヨーク観光名所巡り”というコンセプトのスケッチ集という印象。登場人物のキャラクターもそれほど深くは描かれていない。それを、優れたダンス・ナンバーが支える……と言うより、ダンス・ナンバーをスケッチでつないでいくという発想か。とにかく、話としては他愛ないし、理屈っぽく考えればご都合主義でさえある。
それでも、1944年という時代の空気の中では、ロビンズの振付やバーンスタインの音楽の斬新さもあって、 OK だったのだ。と思う。
それから50余年。風俗部分が古びて目新しさがなくなった分、今回の舞台では、そうした脚本の弱さが露わになった。>

続いて、2014年版の感想から。

<ブロードウェイでは、1971年、1998年に次いで3度目のリヴァイヴァル。もちろん1971年版は観ていないが、1998年版に加え、2008年のシティ・センター“アンコールズ!”版、2009年のペイパーミル・プレイハウス版を観ている。そして、いつも思うのは、ストーリーが緊密ではないということ。(中略)どこまで行っても“モダン・バレエ・ミュージカルの古典”の域を出ない(ちなみに、映画版は、おそらく、舞台版の弱みを解消する意味もあるのだろう、新たな楽曲を多数加え脚本も変更、ロビンズ+バーンスタインの世界とは違った仕上がりになっている)。
とはいえ、毎回、色合いの違いはある。今回のプロダクション(演出ジョン・ランドー、振付ジョシュア・バーガス)は、例えば1998年版のように大掛かりなセットを使って何らかの現代性を出そうとする方向とは逆に、初演が持っていたであろうシンプルな空気感を再現しようとしているように見えた。その分、物足りなくはあるが、ある種の爽やかさがあった。>

「物足りなくはあるが、ある種の爽やかさがあった」というのは、今回の月組版を観ての感想でもある。1998年版で物足りなかったのは脚本の弱さから来るドラマ部分だが、宝塚版では、加えてダンス部分が物足りない。群舞を含め、かなりがんばってはいるのだが、その道の本格派を集めたブロードウェイ版には、さすがに及ばない。まあ当然の話なのだが。
「冒険的な試み」と最初に書いたのは、そうしたモダン・バレエ的なダンスがメインになる作品であると同時に、トップ男役を中心にドラマを作り上げていく宝塚歌劇の手法に必ずしも向いていない題材であるにも関わらず、あえて選んだところ。しかも、それを国際フォーラムという小さくない劇場で上演してしまうというのは、なかなかの冒険だろう。
しかし、そうした困難を乗り越えて、なにはともあれ楽しげな舞台に仕上げてしまうのが宝塚歌劇の“生徒”たち。そこに爽やかさを感じるし、その辺りが人気の秘密だろう。
オーケストラが生だったのも大きい(編曲・指揮/甲斐正人)。あまり予算をかけられなかったようだが、映像(九頭竜ちあき)もアイディアを駆使して効果的だった。
宝塚歌劇のブロードウェイ作品への挑戦を積極的に望む者ではないが、この舞台に関しては結果オーライな印象。それにしても、今の月組には不思議な勢いがある。全員集合の次作が楽しみ。

蘭陵王~美しすぎる武将~@KAAT神奈川芸術劇場 2018/12/04 13:00

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自覚のないまま強い者から虐待を受けていた孤独な少年と孤独な少女が、成人の後に運命のいたずらで巡り会い、最後の最後に手を組んで強大な権力にしっぺ返しを食わせる。要約すると、そんな話。設定は1500年前の中国だが、まっすぐ現代に通じる内容。
舞台の全てがうまくいっているわけではないが、木村信司らしい意欲作として興味深く観た(てか、予備知識なしで観に行って、幕開けの凪七瑠海のアナウンスで、作・演出が木村信司と知ったのだが)。

木村信司作品の特徴は、時事問題を孕んだテーマの設定と、それに対する理屈っぽく辛辣なアプローチ、そして、工夫を凝らした語り口(演出)、か。自然、寓話的感触になることが多い。ハマると、おーっ!と感動するが、ぎくしゃくすることもないではない。
今回の演出は、ストーリーの大半を「語り部」に語らせる、という一見安易な手法。初めは、1500年前の中国の状況をわかりやすくするための方策かと思ったが、途中から、別の意図がわかってくる。主人公の受ける性的な虐待を遠回しに表現すること。加えて、それによる主人公の内面の変化を表現すること。そうしたナーヴァスな案件の説明を「語り部」に託したわけだ。それは、ある程度、功を奏したと言っていいだろう。ちなみに、「語り部」は2人いるが、最初に出てくるメインの「語り部」の正体が最後に明かされる。驚くほど意外ではないが、全体が腑に落ちて幕を閉じる感じになって、うまいと思う。

蘭陵王(らんりょうおう)とは、中国・北斉の皇族、高長恭の諸侯王としての称号。というわけで、6世紀に実在した人物。
皇帝(実際には死後に追尊)高澄の四男として生まれるが、兄弟で一人だけ母親の姓名が不詳であることから、その出生について想像をふくらませることが可能になっている。さらに、敵軍に包囲された洛陽城の解放に向かった際、籠城中の兵に自分が味方であることを知らせるために防具である面を外してみせたことから、その美貌ゆえに味方の士気を削ぐことを恐れて常に面を被って戦った、という伝説が生まれた。この2点を軸に物語が作られている。
が、後者については、伝説誕生の瞬間として劇中ハイライト的に盛り上げてみせはするものの、作者自身の関心は、そこにはない印象を受ける。もっぱら前者、それも“美貌”伝説を踏まえての出生から成長過程の想像に、作者の軸足は置かれているようだ。
容貌の美しさゆえに幾たびか死地を逃れ、尋常ならざる庇護の下、強くなければ生きていかれないという人生観を育んできた孤児が、背中の入れ墨から亡き皇帝の息子であることがわかり、武術の訓練を積んで強力な武将となる。これが物語の土台。やや無理のある、この流れを強引に通してしまうのが、演出を凝らした語り部の妙技。
ここに、敵の間者であるヒロインを登場させることで、ドラマの根幹はほぼ出揃う。後にわかることだが、初めに書いたように、このヒロインも幼い頃から虐待を受けて育ってきた孤独な人間だったのだ。
そうした似た境遇から生まれた似た人生観が、敵対する立場でありながら、最後に2人を結びつけるのだが、この2人の出会いの設定が優れている。ストイックな主人公に時の皇帝が各地から選りすぐった女性を与えようとする。全くと言っていいほど関心を示さない主人公が唯一選んだのが、どこと言って特徴のない洛妃という娘。なぜ選んだのか。2人きりになって主人公は言う。敵の間者だと見抜いたからだ、と。
そこで死のうとする娘を説得する歌が、この作品の肝。全てを捨てて生きろ、という内容を、木村信司らしい回りくどい言い回しで歌うのだが、今回はその回りくどさが、いい方に出た。メロディもいい。同じ歌を、終盤、死罪を受け入れようとする主人公に向かって洛妃が歌う。その時、2人の関係の円環が見事に閉じられる(プログラムを買わなかったので作曲者不明のままです。ご教示いただければ幸いです)。

……と、根幹はうまくいっているのだが、肉付けがイマイチ。作品の質を上げていくべき余剰部分の豊かさが足りなかったのは残念。ことに、歌詞の練りが足りていない気がした。

専科に移って後の凪七瑠海の初主演作。ヒロイン洛妃が音くり寿。蘭陵王の異母兄弟で皇帝になる高緯がゲイという設定で、演じるのが瀬戸かずや。その寵愛の相手、逍遥君をクールに演じるのが帆純まひろ。全体を支えたメインの語り部は専科の京三紗。もう1人の語り部が花組副組長の花野じゅりあ。無骨な将軍をいい味で演じるのが専科の悠真倫。

カーテンコールの挨拶で花野じゅりあが言っていたが、花組はこの時点で4つに分かれて公演中とか。手薄な中での健闘が光った。

MESSIAH(メサイア)~異聞・天草四郎/BEAUTIFUL GARDEN~百花繚乱~@東京宝塚劇場 2018/09/19 13:30

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役者に固執することが少ないせいか、注意散漫なせいか、その両方かは不明だが(笑)、宝塚歌劇をわりと長く観てきていながら、男役三番手ぐらいまでしか生徒の顔と名前を覚えられない。なので、ときどきオッと思う生徒がいるとプログラムを買って調べることになる。この花組公演もそうだった。

水美舞斗(みなみまいと)。
『MESSIAH』では徳川幕府の要人、松平信綱を演じていた。この役、物語の上でかなり重要。
MESSIAH』は、倭寇(海賊)の首領だった男が難破の末に天草に流れ着き、土地の人に受け入れられて天草四郎になる、という話で、四郎はもちろん明日海りお。四郎の指揮した島原の乱の後、反乱軍側で唯一生き残るのが、実在の人物、山田右衛門作(えもさく)、またの名を山田祐庵(ゆうあん)。演じるのは柚香光。父家光の将軍時代に起こった島原の乱の真相を知りたいという徳川家綱に召された南蛮絵師・祐庵の回想として、話は語られる。

物語の大きな構図は、キリシタン弾圧及び過酷な年貢の取り立てを行なう肥前島原藩主・松倉勝家と、それに耐えきれず反乱を起こすことになる天草・島原の人々との対立。それを背景に、新参者で怪しげな四郎、元からの住人でキリシタンである右衛門作=祐庵、その恋人の娘・流雨(仙名彩世)、の三角関係が揺れ動く。……と、これだけなら、言っちゃなんだが宝塚歌劇ではわりとよくあるドラマ。そこに幕府の思惑、対応が加わることで厚みが増した。
その幕府の動きの中心になるのが、老中・松平信綱。
もとより反乱は鎮めねばならない。が、幕府に隠れて悪政を行なう松倉勝家にもそれなりの処罰を与える必要がある。そういう微妙な仕事を将軍家光に代わって現地に出向いて行なう信綱。立場上、冷徹であらねばならぬ。が、反乱の真意は実は痛いほどわかる。そんな風に見える演技を、完璧にとは言わないが、水美舞斗は熱を込めてやり遂げていた。この信綱の動きが、結果として四郎と祐庵との和解のきっかけとなることを思えば、やはり、この役の意味は大きい。
もっとも、この「異聞」は、あくまで宝塚歌劇的「異聞」であって、幕府にこうした「良心」があったとは思えないが、ここではドラマとして面白く収まった。作・演出/原田諒。

水美舞斗は、ショウ『BEAUTIFUL GARDEN~百花繚乱~』でも目に留まった。
明日海りお登場シーン(が華やかなのは当然なので、それ)以外でいちばん印象的だったのは、柚香光が傘を持って登場する「Rainy Day Garden~パリの花々~」と題された第3章だったが、その前の章の蜂に扮した場面を筆頭に、様々なところでキレのいい動きを見せたのが水美舞斗。まあ、『MESSIAH』で気になったからというのはあるが、それでも、ダンスが得意な人でもあったのかと改めて感心したしだい。作・演出/野口幸作。
見どころの多い花組公演だった。

Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀/Killer Rouge 星秀☆煌紅@梅田芸術劇場メインホール 2018/09/03 13:00

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前公演(ANOTHER WORLD/Killer Rouge@東京宝塚劇場)の好調さをそのまま維持して、再び、紅ゆずる率いる星組ならではの破天荒な演目で楽しませてくれた。

『Thunderbolt Fantasy(サンダーボルト ファンタジー)東離劍遊紀(とうりけんゆうき)』の元は、日本×台湾共同制作によるテレビ人形劇とのこと。10月に控えた台湾公演を想定しての演目のようだ。原案・脚本・総監修の虚淵玄(うろぶちげん)が、その人形劇の発案者。宝塚歌劇側の脚本・演出が小柳奈穂子。
サブタイトルは「異次元武侠ミュージカル」。古代中国を思わせる架空の世界を舞台に、最強の武器「天刑劍」をめぐって繰り広げられる策謀と戦いのドラマで、二転三転する謎解きめいた展開も面白い。

紅ゆずるの役どころは、超然とした態度で剣客や秘術使いを巧みに操る鬼鳥(きちょう)という謎の人物。しかしてその実体は、大盗賊、凜雪鴉(りんせつあ)。
この、とらえどころのない口先三寸の一見ペテン師のような人物を、紅は、ほぼ声の表情の変化だけで演じてしまう。その声だが、もはや宝塚歌劇の男役らしさにこだわることを超越したかのような、作った気配のない自然な発声。トップとしての確信に満ちた演技が魅力的。
鬼鳥=凜雪鴉に次いで重要な存在となるのが、流浪の剣客、殤不患(ショウフカン)で、演じるは七海ひろき。
礼真琴演じる捲殘雲(ケンサンウン)は、劇の構造としては観客視点の代行者で、超人的英雄に憧れる一般人的存在。とはいえ、かなり強い。
捲殘雲の憧れる対象が弓の名手、狩雲霄(シュウンショウ)で、演じるのが輝咲玲央。
……と、この辺りの配役は、序列よりも役者の個性に合わせて柔軟。それが功を奏している。
その他、善悪入り乱れてかなり数のキャラクターが登場するので、やや忙しくはあるが、多くの生徒たちに活躍の場面が与えられていて、それも楽しい。

『Killer Rouge/星秀☆煌紅(アメイジングスター☆キラールージュ)』は、前回公演のショウ『Killer Rouge』の新ヴァージョン。作・演出/齋藤吉正。
よくできた勢いのあるショウだっただけに、こうしたブラッシュアップによる再演はうれしい。特別ゲストで紅子が登場。アクが強くなっている気がしたのは久しぶりに観たせいか(笑)。

ところで、梅田芸術劇場は初めてだったが、音響にやや難アリ、ですか?

エリザベート~愛と死の輪舞(ロンド)~@宝塚大劇場 2018/09/04 11:00

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太陽王(『ALL FOR ONE~ダルタニアンと太陽王~』)→トゥーランドット(『鳳凰伝~カラフとトゥーランドット~』)→ジャンヌ・ダルク(愛聖女(サントダムール)~Sainted’Amour)という流れがあった上でのエリザベート。この愛希れいかの宝塚歌劇キャリア終盤のイメージが、今回の公演の色合いを決定づけて成功している(途中、『カンパニー~努力、情熱、そして仲間たち~』が入るが、そちらは箸休めということで)。
台風来襲のさなか(15時公演は中止になり、終演後は帰宅不能になりましたが)大劇場まで遠征してよかったと思わせてくれる、いい公演だった。

実のところ、『エリザベート』という作品をそれほど高くは評価していない……と書き始めるつもりだったが、1997年の星組公演の段階でけっこう誉めていることが自分のサイトを確認してわかった(笑)。1997年3月24日@東京宝塚劇場の公演について、「エヴィータを借りてエヴィータを超えたエリザベート」というタイトルで次のように書いている(1997年3月26日記述)。長いが、ほぼ全文引用。

elisabethhoshi

<ウィーン産ミュージカル『エリザベート』の宝塚ヴァージョンが、一路真輝サヨナラ公演として雪組によって東京で演じられたのが昨年6月(宝塚大劇場同年2月)。
それから1年待たずに、今度は星組による再演が東京にお目見えした(宝塚大劇場昨年11~12月)。

時の権力者の妻となり、政治的にもなにがしかの影響を及ぼした実在の女性の半生を、その死から語り始める、という点で、このミュージカルは『エヴィータ』(Evita)に実によく似ている。テロリストを狂言回しとして登場させるに至っては、『エヴィータ』から借りたと言う他ない。
が、『エヴィータ』における起死回生の1曲「Don’t Cry for Me Argentina」のような屈指の名曲こそ持たないものの、『エリザベート』は、完成度において『エヴィータ』の上を行っている。
充分に満足できる仕上がりだ。

第1幕。
オーストリア・ハンガリー皇妃エリザベートを刺殺したイタリア人アナーキスト、ルキーニは、事件から100年経った今も、エリザベート殺害の動機を巡って煉獄の法廷で尋問を受けている。彼は言う、皇妃は“死”を愛していたのだ、と。
その言葉を裏付けるために死者たちが呼び出され、エリザベートの半生が再現される。
エリザベートが初めて“死”と出会うのは少女の時だ。
自由闊達な彼女は綱渡りに挑んで失敗し、意識不明となる。エリザベートをそのまま黄泉の国へ連れ去ろうとした“死”=トートは、その生命力にあふれた美しさに魅せられ、命を助ける。そして、いつの日か彼女の愛を得ようと決意する。
一方、ハプスブルク家では、皇太后ゾフィが若き皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚を画策していた。その相手がエリザベートの姉だったのだが、見合いの席でフランツはエリザベートを見初めてしまう。
そして、周囲の危惧をよそに二人の結婚式が行われる。
ハプスブルク家に入ったエリザベートは、伝統と格式を笠に着た姑ゾフィの執拗な干渉に悩まされる。しかも夫のフランツは母に対して優柔不断。
産んだ子供すら自分で育てられない境遇に悲嘆したエリザベートの前にトートが現れ、誘惑するが、彼女は自分の道を強く生きる覚悟を固める。
その頃、オーストリア支配下にあったハンガリーでは独立の気運が高まっていた。エリザベートは、自らの美貌によって大衆の心をつかみ、ハンガリー宥和に成功。存在を誇示する。
しかし、ハンガリーの革命勢力はオーストリア国内に潜入し、相次ぐ戦争で疲弊した市民の不満を煽って、反ハプスブルク感情を高めていく。その中にはなぜかトートの姿も混じっていた。
宮廷内では、ゾフィとエリザベートとの緊張関係が限界にまで達していた。エリザベートに最後通牒を突きつけられたフランツは、エリザベートに子供の教育権を与えることで、彼女の愛を取り戻そうとするのだった。

第2幕。
ハンガリーの自治を認めると同時に自らがハンガリー皇帝として即位するという苦肉の策で独立問題に対処したフランツは、ハンガリーで絶大な人気を得ているエリザベートと共に戴冠式に赴く。
その頃オーストリアでは、多忙な両親に取り残された息子のルドルフが、孤独な日々を送っていた。そこにトートが現れ、呼んでくれれば“友達”としていつでも来てあげる、と約束する。
一方、力を失いつつあるゾフィは、エリザベートへの意趣返しに、娼館の女たちを宮殿に引き入れ、フランツを誘惑させる。美貌を保つための過度の運動と節食で倒れたエリザベートに主治医として近づいたトートは、娼婦と共にいるフランツの写真を見せ、彼女に死を迫る。
しかし、またしてもその誘惑を拒絶したエリザベートは、従者たちを連れて長い旅に出る。
成長したルドルフは、フランツにハンガリーの真の独立を説くが聞き入れられない。独立勢力と関わっていたルドルフは彼らの後押しでクーデターを謀るが、事前に発覚。フランツの信頼を失ったルドルフは、旅から帰ってきたエリザベートに理解を求めるが、心を閉ざしているエリザベートは彼を受け入れてやることができない。
絶望したルドルフは、トートに誘われるまま、拳銃で自分の頭を撃ち抜く。
ルドルフの葬儀の夜、悔やんでも悔やみきれない自分の過ちに、ただ慟哭するエリザベート。現れたトートに、死にたいと言うが、トートは、お前はまだ俺を愛していないと言って去っていく。
さらに月日は流れ、変わらず旅を続けるエリザベートを、年老いたフランツが訪ねる。戻ってくれと言うフランツに、二人はすれ違うだけだと答えるエリザベート。
さて、煉獄の法廷も閉廷が間近い。結論を迫る裁判官にルキーニは言う。最後の証人、トート閣下の登場だ、と。
そして、トートからナイフを受け取るルキーニ。
レマン湖畔、船に乗るために急ぐエリザベートをルキーニが刺す。すべての苦悩から解き放たれたエリザベートは、自らトートの胸に抱かれ、黄泉へと旅立っていく。『キャッツ』(Cats)のラストシーンのように。

まず、被害者は死にたがっていたんだ、と犯人が主張する。その真偽を確かめるために被害者の半生を追う、という設定がミステリー仕立てで面白い。
さらに、その黒幕に“死”がいるとなると、被害者がいつ、どうやって“死”に導かれるのか、というサスペンスフルな興味もわく。
おまけに、家庭内の嫁姑の確執話と、帝国内の独立運動の話が絡み合い、次々に苦難が訪れる果てに息子の死という悲劇が待っている。
要素としては『風と共に去りぬ』(Gone With The Wind)に似ていなくもない筋立て。これだけで軽く『エヴィータ』を超えている。

演出もうまい。
冒頭、マイケル・ジャクソンの「Thriller」に出てくるゾンビのように不気味だった死者たちと、生前の華麗な宮廷人との印象の落差。クライマックス前にも同じ演出が繰り返されるが、この変わり具合が、客席と舞台との時間差を実に巧みに埋めている。
と言うより、観客を一気に舞台の世界へ引き込んで、実に効果的。
黒子のように漂う黒天使たちの扱いも、生と死の境界線を自由に行き来するトートを見事に表現していて、うまい。 特に、彼らのダンスは、目立つわけではないが、ミュージカルとしてのこの作品に奥行きを与えている。
他にも細かいが、結婚式で、この結婚はすべて汝の意志かと聞かれたエリザベートが、はい、と答えると続けて様々な声がこだまのように、はい、はい、はい……と答えたり、ハンガリー皇帝戴冠式で式を司る司祭が実はトートだったりするような、小さくハッとさせるアイディアがいくつかあって、これもうれしい。

シンプルだが象徴的なセットは必要十分にこの世界を表現しているし、暗い調子のライティングも効果的だ。

楽曲は、前述したように超名曲はないが、印象に残る曲は多く、水準は高い。まあ、曲調の配分などは、アンドリュー・ロイド・ウェバーの影響下ではあると思うが。

さて、役者だ。
これに関しては、どうしても雪組 (1996年6月12日13:00@東京宝塚劇場)との比較で語らざるを得ない。

まず、白城あやか。彼女によって、このミュージカルの主役がエリザベートであることが鮮明になった。
奔放な精神と皇妃という立場の板挟みになりながら自我を貫き通そうとする。考えようによってはかなりエキセントリックな女性を、15歳から62歳までくっきりと演じ通して観客の共感を呼ぶ。エリザベートの物語として一本筋が通った。
雪組の時は、一路真輝の演じるトートの存在がより大きく、同じストーリーながら、印象としては、エリザベート(花總まり)がトートの手で操られているように見えた。

そのトートは、麻路さきによって、より人間臭く演じられた。
一路のトートはまさに魔王のごとく超然としていたが、麻路はエリザベートに魅せられ苦悶する様が生々しく、その結果、白城が浮かび上がったということもある。

この2役の比重の違いによって、雪と星の『エリザベート』は違う色彩を帯びることになった。
どちらがどうということはない。トート絶対の従来の宝塚らしい雪組版もよかったし、ウィーン版に近づいたのかとも思えるエリザベート主体の星組版も面白かった。

elisabethyuki

これ以上の雪と星の比較は宝塚ファンのみなさんにお任せしたいが、1人だけ、出づっぱりで難しくはあるが儲け役でもあるルキーニを演じた紫吹淳。
時に過剰ではあるが、その陰影のある陽気さとでもいうような個性が印象に残った。>

後に、東宝版、ウィーン版来日公演を観るに到って、『エリザベート』は宝塚版こそが面白いのだと認識(ざっくり言うと、東宝版は男優の演じるトートが生々し過ぎてバランスが悪く、ウィーン版はトートの存在が軽過ぎてスリルに欠ける)。中でも、最初の一路真輝=トート版が最高だった。宝塚版初演×トップの退団公演ということもあって雪組全員の集中力と熱量がハンパなかったし、生徒の層も厚かった。そして、一路真輝自身の役者としての力量の大きさも素晴らしかった。
とはいえ、この感想はちょっと誉め過ぎ、と今では思う(苦笑)。『エヴィータ』より面白いってことを強調したかったあまり、盛り気味の表現になった気がする。

それはそれとして、今回の月組版は、トートとエリザベートとの関係については上の感想に書いた星組版に近い。
「奔放な精神と皇妃という立場の板挟みになりながら自我を貫き通そうとする」エリザベート(愛希)と、「エリザベートに魅せられ苦悶する」トート(珠城りょう)。エリザベート主導と言うと言い過ぎだが、ほぼ対等。
そのイメージの源泉は、冒頭に書いた愛希れいかの、このところの役柄にある。そして、それは、愛希れいかの個性を元に、退団に向けて計算されたものではないだろうか。もし偶然なら、彼女が引き寄せた強運だ。娘役として、これほど輝かしい退団公演までの道のりは、そうそう実現できるものではないと思う。
それを可能にした最大の要因は、珠城りょうと美弥るりか(フランツ)の存在。組の頂点でトライアングルを組むのが、発展途上の若々しいトップと、成熟した個性の二番手という、望んでも容易には得られない絶妙のバランスの男役二人だという幸運。逆に言うと、そのトライアングルの中で、珠城りょうも美弥るりかも、愛希れいかを媒介にして、それぞれの個性を遺憾なく発揮している。今の月組は面白い。

専科からの客演がないせいもあってか、若干、層が薄い気がしないでもないが、物足りない感はない。あるいは全体にすっきりした方向で演出されているのかもしれない。
例えば、儲け役ルキーニの月城かなと。過剰になりがちなこの役を、気持ち抑え気味に演じているように見えるのは、そのためか。好演。
ゾフィ役の組長・憧花ゆりのも、この公演で退団らしい。

ちなみに、『エヴィータ』『エリザベート』説は、その後、『エヴィータ』『オペラ座の怪人』(The Phantom Of The Opera)『エリザベート』説に自分の中で発展している。つまり、神出鬼没のトートがファントムというわけ。どうでしょう?