世界は一人@東京芸術劇場プレイハウス 2019/03/13 14:00

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「音楽劇」と称しているが、日本のオリジナル・ミュージカルの、ひとつの在り方だと思う。作り手がミュージカルと思ってるかどうかは別として。

音楽と芝居の関係としては丸本歌舞伎(義太夫狂言)に近い。
舞台上に4人組のバンドがいて、演奏はもちろん、歌や語りを担当している。舞台の進行役でもある。役者は、バンドによる歌が流れている時には、それに応じて演技をするが、時折、自ら歌いもする。バンドと歌を分け合うようにして歌うこともある。
ほぼ、バンド=義太夫(竹本連中)と考えていい役割。その音楽と芝居の一体感も含め、そうした表現自体が、まず面白い。

物語は、日本のとある地方都市で育った3人の男女をめぐって展開する。小学生の頃から中年になるまで。それぞれの私的な話だが、印象は、高度経済成長から今日に到る日本社会の縮図を思わせる。
冒頭、バンドの語りによるその都市の説明がある。大きな工場ができて発展するが、廃液が川に流され、海に沈殿して「汚泥(おでい)」になる。その「汚泥」は浚渫によって取り除かれるが、取り除かれた「汚泥」がどこに行ったかは誰も知らない。学校の先生に尋ねても曖昧な答えしか返ってこない。曖昧な「汚泥」のイメージが後々まで舞台全体を覆う。まるで日本全体が「汚泥」で覆われているかのように。
平均的で幸せそうに見える家庭の子供、松尾スズキ。金持ちだが親の愛情を受けられない、松たか子。貧乏であることに過敏で攻撃的な態度に出る、瑛太。この3人が、小学校の林間学校(臨海学校?)で担任から夜中にそっと起こされてトイレに行かされる。にもかかわらず、松尾スズキが漏らしてしまい……という不思議なエピソードから始まるのだが、この場面に仕掛けがあって、物語をミステリー仕立てにする伏線になると同時に、この何気ない出来事が3人の人生にも影響を及ぼす。小さな落とし穴。
それとは別に、抗えない日本社会の大きな流れがあり、それぞれの家庭/家族は崩壊し、友情らしきものも歪み、一瞬幸福になりそうに思える3人の人生は、「汚泥」に足をとられるように闇に沈んでいく。
そうした、ひりひりするような「破滅」への流れもまた近松の狂言のようで……。現実の映し鏡感が強烈な印象を残す舞台だった。
ミュージカル好きとしては、役者の歌に不満を覚えないでもなかったが、それはまた別の話なのだろう。

脚本・演出/岩井秀人。音楽/前野健太。演奏/前野健太(ヴォーカル/ギター)、種石幸也(ベース)、佐山こうた(キーボード)、小宮山純平(ドラムス)。出演は上記3人の他に、平田敦子、菅原永二、平原テツ、古川琴音。

 

On The Town@東京国際フォーラム/ホールC 2019/01/17

img_1024『On The Town』のブロードウェイ初演でミス・サブウェイのアイヴィ・スミスに扮したソノ・オーサトが昨年暮れに亡くなった。彼女の自伝は薄井憲二訳で「踊る大紐育~ある日系人ダンサーの生涯」として晶文社から出ている。ディアギレフとも関わったバレエ・ダンサーの人生としてはもちろんだが、サブタイトルにあるように、ある日系アメリカ人の生き方の記録としても、とても興味深い。

そんなタイミングで登場した宝塚歌劇月組の『On The Town』。これが、ほぼ初演の通りの上演という、なかなかに冒険的な試みで、面白く観た。
プログラムに載っている、潤色・演出の野口幸作の挨拶文によれば、「版権の都合上、アダプテーションは許されず、原作通りとなっております」とのこと。なるほど。

『On The Town』という演目は、「ブロードウェイ・ミュージカルの名作」(上記プログラムより)と言われるが、興業的にはそれほどのヒット作ではない。最も長く続いたのが初演で、13か月強。次が2014年版の(プレヴュー込みで)11か月半。1971年版の11月終わりから元旦までの2か月強ってのはホリデイ・シーズン狙いの期間限定かもしれないが、1998年版がやはりホリデイ・シーズンの3か月弱(プレヴュー込み)で終わったのは明らかに入りが悪かったから。
その1998年版の感想に次のような分析を書いている。少し長いが引用する。

<1944年暮れにブロードウェイに登場した『On The Town』は、ジェローム・ロビンズ(振付)が、その年の初めにレナード・バーンスタイン(作曲)と組んで作ったバレエ組曲『Fancy Free』を元に、ベティ・カムデン&アドルフ・グリーン(作詞・脚本)の参加を得て完成させたミュージカル。というのはよく知られた話だが、ポイントになるのは 1944年という上演年。
アメリカの勝ちが見えてきてはいるが、第二次大戦まっただ中。主人公の3人の水兵という設定はタイムリーなもので、 24時間の外出許可を与えられた彼らが憧れのマンハッタン(+コニー・アイランド)でつかの間の自由を味わうという物語に、観客も大いに共感を覚えたはずだ。
しかし、ストーリーは必ずしも緊密に作られているわけではなく、むしろ、“ニューヨーク観光名所巡り”というコンセプトのスケッチ集という印象。登場人物のキャラクターもそれほど深くは描かれていない。それを、優れたダンス・ナンバーが支える……と言うより、ダンス・ナンバーをスケッチでつないでいくという発想か。とにかく、話としては他愛ないし、理屈っぽく考えればご都合主義でさえある。
それでも、1944年という時代の空気の中では、ロビンズの振付やバーンスタインの音楽の斬新さもあって、 OK だったのだ。と思う。
それから50余年。風俗部分が古びて目新しさがなくなった分、今回の舞台では、そうした脚本の弱さが露わになった。>

続いて、2014年版の感想から。

<ブロードウェイでは、1971年、1998年に次いで3度目のリヴァイヴァル。もちろん1971年版は観ていないが、1998年版に加え、2008年のシティ・センター“アンコールズ!”版、2009年のペイパーミル・プレイハウス版を観ている。そして、いつも思うのは、ストーリーが緊密ではないということ。(中略)どこまで行っても“モダン・バレエ・ミュージカルの古典”の域を出ない(ちなみに、映画版は、おそらく、舞台版の弱みを解消する意味もあるのだろう、新たな楽曲を多数加え脚本も変更、ロビンズ+バーンスタインの世界とは違った仕上がりになっている)。
とはいえ、毎回、色合いの違いはある。今回のプロダクション(演出ジョン・ランドー、振付ジョシュア・バーガス)は、例えば1998年版のように大掛かりなセットを使って何らかの現代性を出そうとする方向とは逆に、初演が持っていたであろうシンプルな空気感を再現しようとしているように見えた。その分、物足りなくはあるが、ある種の爽やかさがあった。>

「物足りなくはあるが、ある種の爽やかさがあった」というのは、今回の月組版を観ての感想でもある。1998年版で物足りなかったのは脚本の弱さから来るドラマ部分だが、宝塚版では、加えてダンス部分が物足りない。群舞を含め、かなりがんばってはいるのだが、その道の本格派を集めたブロードウェイ版には、さすがに及ばない。まあ当然の話なのだが。
「冒険的な試み」と最初に書いたのは、そうしたモダン・バレエ的なダンスがメインになる作品であると同時に、トップ男役を中心にドラマを作り上げていく宝塚歌劇の手法に必ずしも向いていない題材であるにも関わらず、あえて選んだところ。しかも、それを国際フォーラムという小さくない劇場で上演してしまうというのは、なかなかの冒険だろう。
しかし、そうした困難を乗り越えて、なにはともあれ楽しげな舞台に仕上げてしまうのが宝塚歌劇の“生徒”たち。そこに爽やかさを感じるし、その辺りが人気の秘密だろう。
オーケストラが生だったのも大きい(編曲・指揮/甲斐正人)。あまり予算をかけられなかったようだが、映像(九頭竜ちあき)もアイディアを駆使して効果的だった。
宝塚歌劇のブロードウェイ作品への挑戦を積極的に望む者ではないが、この舞台に関しては結果オーライな印象。それにしても、今の月組には不思議な勢いがある。全員集合の次作が楽しみ。

The Chronicle of Broadway and me #065

19941月@ニューヨーク(その4

Cyrano: The Musical(1月6日20:00@Neil Simon Theatre)は、近年しばしば日本で上演されているフランク・ワイルドホーン(作曲)×レズリー・ブリッカス(作詞・脚本)版ではなく、2000年に市村正親主演で翻訳上演されたアト・ヴァン・ダイク(作曲)×クーン・ヴァン・ダイク(作詞・脚本)のオランダ版。前年の10月にプレヴューが始まり、この年の3月20日にクローズしている。以下、当時の感想。

<一際高い鼻で有名なシラノ・ド・ベルジュラック(原作はフランスのエドモン・ロスタンが19世紀末に発表した戯曲)のミュージカル。
珍しいオランダ産で、主演、演出、製作、セット、衣装、照明、音響等の人たちはオランダから直接やって来て、ニューヨークのスタッフとの協力で作っている。そのせいかどうか、スタイルはオペラ的だが、同じくオペラ的なロンドン産の『The Phantom Of The Opera』やフランス産ロンドン経由の『Les Miserables』と比べると、あざとさと言うか、はったりの要素が少なく、展開もゆったりとした印象。
驚いたのが照明の精妙さ。微妙なタイミングで微妙に変化していく照明が、歌に深みを与え、ドラマにアクセントを加える。光の色のバランスも、ある瞬間の絵として絶妙であると同時に、時間的流れの中で観ても見事。決して派手ではないが、渋く、美しい。セットや衣装も費用をかけた凝った作りで、照明とあいまって視覚的な部分は申し分ない(余談だが、戦闘最前線のテントの群れのセットが『香港ラプソディー』冒頭の天安門のシーンとよく似ていて驚いた)。
オペラ的と書いたが、楽曲には親しみやすさもあり、時折ユーモラスな部分(道化的に描かれる驕慢なオペラ歌手や、お茶目な尼僧)があって、納まり返った舞台になっているわけではないし、イギリスの”fight director”が担当した、時間をたっぷり取った剣戟場面も迫力満点で飽きさせない。
こうした素晴らしい部分が数多くある、ある意味、完成度の高い舞台であるにもかかわらず、最後までどうしても入り込めなかった。なぜか。
それは、愛する女のために別の男との間を取り持ってやり、さらにそこから悲劇が生まれるという、古めかしく不合理な話を、ロマンティックで感動的なものに転化してしまうだけの”ノリ”が欠けているからだ。そして、その原因は、やはり演出(エディ・ハベマ)にあるのだろう。もったいない。>

照明、装置、衣装の担当は、それぞれ、Reinier Tweebeeke、Paul Gallis、Yan Tax。レイニアー・トゥイービーク、ポール・ギャリス、ヤン・タックスという英語的な読みでいいのかどうか。イギリス人”fight director”はマルコム・ランソン。
結局、この作品のオランダ人スタッフは、これ以降、少なくともブロードウェイには登場していない。ただし、プロデューサーのヨープ・ファン・デン・エンデだけは別で、おそらく、この時に人脈とアメリカ国内の口座を作ったのだろう、直近の『Pretty Woman: The Musical』に到るまで、数多くのブロードウェイ作品に出資を続けている。

ちなみに、『香港ラプソディー』は、1993年の3月1日から4月11日まで東京・アートスフィアで、4月16日から30日まで大阪・シアタードラマシティで上演された日本のオリジナル・ミュージカル。作曲/ディック・リー、作詞/竜真知子、脚本/永沢慶樹(原作/西木正明『スネークヘッド』)、演出・振付/宮本亜門、プロデューサー/池田道彦。劇中で宮本裕子の歌った「チャイナ・レイン」は名曲。

蘭陵王~美しすぎる武将~@KAAT神奈川芸術劇場 2018/12/04 13:00

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自覚のないまま強い者から虐待を受けていた孤独な少年と孤独な少女が、成人の後に運命のいたずらで巡り会い、最後の最後に手を組んで強大な権力にしっぺ返しを食わせる。要約すると、そんな話。設定は1500年前の中国だが、まっすぐ現代に通じる内容。
舞台の全てがうまくいっているわけではないが、木村信司らしい意欲作として興味深く観た(てか、予備知識なしで観に行って、幕開けの凪七瑠海のアナウンスで、作・演出が木村信司と知ったのだが)。

木村信司作品の特徴は、時事問題を孕んだテーマの設定と、それに対する理屈っぽく辛辣なアプローチ、そして、工夫を凝らした語り口(演出)、か。自然、寓話的感触になることが多い。ハマると、おーっ!と感動するが、ぎくしゃくすることもないではない。
今回の演出は、ストーリーの大半を「語り部」に語らせる、という一見安易な手法。初めは、1500年前の中国の状況をわかりやすくするための方策かと思ったが、途中から、別の意図がわかってくる。主人公の受ける性的な虐待を遠回しに表現すること。加えて、それによる主人公の内面の変化を表現すること。そうしたナーヴァスな案件の説明を「語り部」に託したわけだ。それは、ある程度、功を奏したと言っていいだろう。ちなみに、「語り部」は2人いるが、最初に出てくるメインの「語り部」の正体が最後に明かされる。驚くほど意外ではないが、全体が腑に落ちて幕を閉じる感じになって、うまいと思う。

蘭陵王(らんりょうおう)とは、中国・北斉の皇族、高長恭の諸侯王としての称号。というわけで、6世紀に実在した人物。
皇帝(実際には死後に追尊)高澄の四男として生まれるが、兄弟で一人だけ母親の姓名が不詳であることから、その出生について想像をふくらませることが可能になっている。さらに、敵軍に包囲された洛陽城の解放に向かった際、籠城中の兵に自分が味方であることを知らせるために防具である面を外してみせたことから、その美貌ゆえに味方の士気を削ぐことを恐れて常に面を被って戦った、という伝説が生まれた。この2点を軸に物語が作られている。
が、後者については、伝説誕生の瞬間として劇中ハイライト的に盛り上げてみせはするものの、作者自身の関心は、そこにはない印象を受ける。もっぱら前者、それも“美貌”伝説を踏まえての出生から成長過程の想像に、作者の軸足は置かれているようだ。
容貌の美しさゆえに幾たびか死地を逃れ、尋常ならざる庇護の下、強くなければ生きていかれないという人生観を育んできた孤児が、背中の入れ墨から亡き皇帝の息子であることがわかり、武術の訓練を積んで強力な武将となる。これが物語の土台。やや無理のある、この流れを強引に通してしまうのが、演出を凝らした語り部の妙技。
ここに、敵の間者であるヒロインを登場させることで、ドラマの根幹はほぼ出揃う。後にわかることだが、初めに書いたように、このヒロインも幼い頃から虐待を受けて育ってきた孤独な人間だったのだ。
そうした似た境遇から生まれた似た人生観が、敵対する立場でありながら、最後に2人を結びつけるのだが、この2人の出会いの設定が優れている。ストイックな主人公に時の皇帝が各地から選りすぐった女性を与えようとする。全くと言っていいほど関心を示さない主人公が唯一選んだのが、どこと言って特徴のない洛妃という娘。なぜ選んだのか。2人きりになって主人公は言う。敵の間者だと見抜いたからだ、と。
そこで死のうとする娘を説得する歌が、この作品の肝。全てを捨てて生きろ、という内容を、木村信司らしい回りくどい言い回しで歌うのだが、今回はその回りくどさが、いい方に出た。メロディもいい。同じ歌を、終盤、死罪を受け入れようとする主人公に向かって洛妃が歌う。その時、2人の関係の円環が見事に閉じられる(プログラムを買わなかったので作曲者不明のままです。ご教示いただければ幸いです)。

……と、根幹はうまくいっているのだが、肉付けがイマイチ。作品の質を上げていくべき余剰部分の豊かさが足りなかったのは残念。ことに、歌詞の練りが足りていない気がした。

専科に移って後の凪七瑠海の初主演作。ヒロイン洛妃が音くり寿。蘭陵王の異母兄弟で皇帝になる高緯がゲイという設定で、演じるのが瀬戸かずや。その寵愛の相手、逍遥君をクールに演じるのが帆純まひろ。全体を支えたメインの語り部は専科の京三紗。もう1人の語り部が花組副組長の花野じゅりあ。無骨な将軍をいい味で演じるのが専科の悠真倫。

カーテンコールの挨拶で花野じゅりあが言っていたが、花組はこの時点で4つに分かれて公演中とか。手薄な中での健闘が光った。

MESSIAH(メサイア)~異聞・天草四郎/BEAUTIFUL GARDEN~百花繚乱~@東京宝塚劇場 2018/09/19 13:30

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役者に固執することが少ないせいか、注意散漫なせいか、その両方かは不明だが(笑)、宝塚歌劇をわりと長く観てきていながら、男役三番手ぐらいまでしか生徒の顔と名前を覚えられない。なので、ときどきオッと思う生徒がいるとプログラムを買って調べることになる。この花組公演もそうだった。

水美舞斗(みなみまいと)。
『MESSIAH』では徳川幕府の要人、松平信綱を演じていた。この役、物語の上でかなり重要。
MESSIAH』は、倭寇(海賊)の首領だった男が難破の末に天草に流れ着き、土地の人に受け入れられて天草四郎になる、という話で、四郎はもちろん明日海りお。四郎の指揮した島原の乱の後、反乱軍側で唯一生き残るのが、実在の人物、山田右衛門作(えもさく)、またの名を山田祐庵(ゆうあん)。演じるのは柚香光。父家光の将軍時代に起こった島原の乱の真相を知りたいという徳川家綱に召された南蛮絵師・祐庵の回想として、話は語られる。

物語の大きな構図は、キリシタン弾圧及び過酷な年貢の取り立てを行なう肥前島原藩主・松倉勝家と、それに耐えきれず反乱を起こすことになる天草・島原の人々との対立。それを背景に、新参者で怪しげな四郎、元からの住人でキリシタンである右衛門作=祐庵、その恋人の娘・流雨(仙名彩世)、の三角関係が揺れ動く。……と、これだけなら、言っちゃなんだが宝塚歌劇ではわりとよくあるドラマ。そこに幕府の思惑、対応が加わることで厚みが増した。
その幕府の動きの中心になるのが、老中・松平信綱。
もとより反乱は鎮めねばならない。が、幕府に隠れて悪政を行なう松倉勝家にもそれなりの処罰を与える必要がある。そういう微妙な仕事を将軍家光に代わって現地に出向いて行なう信綱。立場上、冷徹であらねばならぬ。が、反乱の真意は実は痛いほどわかる。そんな風に見える演技を、完璧にとは言わないが、水美舞斗は熱を込めてやり遂げていた。この信綱の動きが、結果として四郎と祐庵との和解のきっかけとなることを思えば、やはり、この役の意味は大きい。
もっとも、この「異聞」は、あくまで宝塚歌劇的「異聞」であって、幕府にこうした「良心」があったとは思えないが、ここではドラマとして面白く収まった。作・演出/原田諒。

水美舞斗は、ショウ『BEAUTIFUL GARDEN~百花繚乱~』でも目に留まった。
明日海りお登場シーン(が華やかなのは当然なので、それ)以外でいちばん印象的だったのは、柚香光が傘を持って登場する「Rainy Day Garden~パリの花々~」と題された第3章だったが、その前の章の蜂に扮した場面を筆頭に、様々なところでキレのいい動きを見せたのが水美舞斗。まあ、『MESSIAH』で気になったからというのはあるが、それでも、ダンスが得意な人でもあったのかと改めて感心したしだい。作・演出/野口幸作。
見どころの多い花組公演だった。

SMOKE@浅草九劇 2018/10/25/14:00 Renacsence@Abrons Arts Center(466 Grand St.) 2018/11/04/15:00

2週間と間をおかずに観たこの2作、いずれも実在した詩人についての、トンガリ具合が刺激的なミュージカルだった。
『SMOKE』の詩人が朝鮮のイ・サン(李箱)で、『Renacsence』の詩人がアメリカのエドナ・セイント・ヴィンセント・ミレイ。

『SMOKE』は、イ・サンの連作詩「烏瞰図(うかんず)第15号」からインスピレーションを得て生まれた、と公式サイトに書いてある。ことに楽曲の詞には、それがかなり反映されているのだろうと想像する。
日本版ウィキペディアによれば……イ・サンは1910年9月14日(陰暦8月20日)生まれ、1937年4月17日没。難解で過度に自己中心的な作風は「天才」と「自己欺瞞」の両極端な評価を受け、独特の世界を描いている。27歳という若さで世を去ったことが、更に李箱の評価を難しくしている。亡くなる前年に東京に渡りホームレス的な生活をしていたが、思想不穏の嫌疑で西神田警察署に拘禁され、1か月後に健康悪化のため釈放。
……といった情報をまるで知らないまま観始めたのだが、冒頭のシーンはこの釈放の場面だった、と後でわかる。
倒れている男がいる。そして暗転。若者2人が誘拐計画を実行しようとしている。1人はさっき倒れていた男で、これが強気な詩人。もう1人は意志薄弱そうな画家。誘拐は成功し、金持ちの娘が2人の部屋に連れてこられるが、詩人が身代金のことで外出している間に画家は娘に懐柔され……。と、ここまでを読んで想像するいくつかの展開の、いずれでもない方向に話は進んでいく。登場人物が3人しかいないのに、その3人の正体すらわからなくなってくる。謎が謎を呼ぶ、というやつ。
緊迫感に満ちたドラマの行き着く先は、今後の再演をご覧になる方がいないとも限らないので伏せたままにするが、3人の役者の鬼気迫る演技もあって最後までハラハラ。見応え充分だった。
この作品、元は韓国産で、脚本・演出チュ・ジョンファ(추정화)、作曲・音楽監督ホ・スヒョン(허수현)。それを、あなたの初恋探します同様、菅野こうめいが日本版に仕立てたようで、クレジットには、上演台本・作詞・演出:菅野こうめい、とある。脚本・作詞にどれだけ手が入っているのか不明な上に、韓国版を観たことがないので比較はできないが、日本版単体で評価するなら、日本語詞の楽曲の質も含めて充分に成果は上がっている。
それと同時に、この日本版に意味があるのは、最初に書いた、イ・サンが東京で思想不穏の嫌疑で拘禁されていたことを描いていること。最後に再び釈放シーンがあるのだが、そこで彼に投げつけられる言葉が「不逞鮮人」。今の日本の空気を抉る瞬間だ。
役者は、大山真志、木暮真一郎、池田有希子。後者2人はダブル・キャスト。音楽・演奏には伊藤靖浩のクレジットがあった。

『Renacsence』は、エドナ・セイント・ヴィンセント・ミレイの若き日の断片×ポエトリー・リーディングといった趣向の舞台。
ミレイは1892年2月22日メイン州生まれ、1950年10月19日没。20歳の時にコンテストに応募した「ルネッサンス」という詩が評判となって頭角を現し、25の年にグリニッチ・ヴィレッジに移り住んでいる。その後、1923年に「竪琴をつくる者」(The Ballad of the Harp-Weaver)でピューリッツァー賞受賞。と、まあ、そういった経緯が、家族や友人や編集者との葛藤を交えたドラマとして描かれる。と同時に、ミレイの詩が楽曲となって歌われる。
作曲のカーメル・ディーンは、これが作曲家デビューだが、これまでブロードウェイで『If/Then』『American Idiot』『Hands On A Hardbody』『The 25th Annual Putnan County Spelling Bee』の音楽監督/編曲の仕事をしてきている。さらに、グリーン・デイやフィッシュ(Phish)とも仕事をしている。どちらかと言えば、エッジの立った音楽寄りの人。それが、ここでは生きている。
面白いのは、最後に観客を舞台に上げ、壁際にセットした椅子に座らせて、キャスト全員によるポエトリー・シンギング&ダンシングを間近で体験させること。100年前の詩人エドナ・ミレイならやったかもしれないと思わせる、小さな劇場ならではのアイディアだった。
ついでに書いておくと、上演されたアブロンズ・アーツ・センターは初めて訪れたが、マンハッタンには珍しい、のどかな雰囲気の中に佇む落ち着いた劇場だった。

 

Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀/Killer Rouge 星秀☆煌紅@梅田芸術劇場メインホール 2018/09/03 13:00

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前公演(ANOTHER WORLD/Killer Rouge@東京宝塚劇場)の好調さをそのまま維持して、再び、紅ゆずる率いる星組ならではの破天荒な演目で楽しませてくれた。

『Thunderbolt Fantasy(サンダーボルト ファンタジー)東離劍遊紀(とうりけんゆうき)』の元は、日本×台湾共同制作によるテレビ人形劇とのこと。10月に控えた台湾公演を想定しての演目のようだ。原案・脚本・総監修の虚淵玄(うろぶちげん)が、その人形劇の発案者。宝塚歌劇側の脚本・演出が小柳奈穂子。
サブタイトルは「異次元武侠ミュージカル」。古代中国を思わせる架空の世界を舞台に、最強の武器「天刑劍」をめぐって繰り広げられる策謀と戦いのドラマで、二転三転する謎解きめいた展開も面白い。

紅ゆずるの役どころは、超然とした態度で剣客や秘術使いを巧みに操る鬼鳥(きちょう)という謎の人物。しかしてその実体は、大盗賊、凜雪鴉(りんせつあ)。
この、とらえどころのない口先三寸の一見ペテン師のような人物を、紅は、ほぼ声の表情の変化だけで演じてしまう。その声だが、もはや宝塚歌劇の男役らしさにこだわることを超越したかのような、作った気配のない自然な発声。トップとしての確信に満ちた演技が魅力的。
鬼鳥=凜雪鴉に次いで重要な存在となるのが、流浪の剣客、殤不患(ショウフカン)で、演じるは七海ひろき。
礼真琴演じる捲殘雲(ケンサンウン)は、劇の構造としては観客視点の代行者で、超人的英雄に憧れる一般人的存在。とはいえ、かなり強い。
捲殘雲の憧れる対象が弓の名手、狩雲霄(シュウンショウ)で、演じるのが輝咲玲央。
……と、この辺りの配役は、序列よりも役者の個性に合わせて柔軟。それが功を奏している。
その他、善悪入り乱れてかなり数のキャラクターが登場するので、やや忙しくはあるが、多くの生徒たちに活躍の場面が与えられていて、それも楽しい。

『Killer Rouge/星秀☆煌紅(アメイジングスター☆キラールージュ)』は、前回公演のショウ『Killer Rouge』の新ヴァージョン。作・演出/齋藤吉正。
よくできた勢いのあるショウだっただけに、こうしたブラッシュアップによる再演はうれしい。特別ゲストで紅子が登場。アクが強くなっている気がしたのは久しぶりに観たせいか(笑)。

ところで、梅田芸術劇場は初めてだったが、音響にやや難アリ、ですか?