The Sound Of Music@日生劇場 1998/03/06 13:00

1998年3月18日にブロードウェイで観た『The Sound Of Music』に関連して、その直前に国内で観た山田和也演出版の感想を、旧サイトから再掲載。タイトルは「新演出で見えた歌の力」。それ以前に観た宮本亜門版との比較でいろいろと語っています。

<宮本亜門版(演出・振付)の『The Sound Of Music』を観たのは1995年4月8日。その3年前の青山劇場公演が宮本=大地真央(主演)コンビにとっての初演で、当時国内のミュージカル(特に翻訳もの)をほとんど観ていなかったが、いい評判が伝わってきていた。
その再演は、帝国劇場という最悪の条件だっただけに不安半分期待半分で出かけたが、悪くなかった。
鳥がさえずる中、舞台中央に伏せていたマリア(大地)が、(シャレじゃなく)大地から萌え出ずるようにゆっくりと踊りながら立ち上がるオープニングから、ケレン味たっぷりにアルプスが現れるエンディングまで、鮮やかな演出が光った。

今回の演出は山田和也。古典に映画版のイメージを加味してリフレッシュしてみせた宮本版との最大の違いは、オリジナル舞台の台本に(ということは楽曲も)忠実なことだ。
その結果わかったことは、オリジナルが実によくできたミュージカルらしいミュージカルであるということ。
プログラムには「今回はブロードウェイの原作に戻して、ドラマ部分の充実をはかる」(安達英一)なんていう記述も見られたが、そんなことはない。むしろ、余計な演技は抑えて、新演出がくっきりと浮き彫りにしたのは、オリジナル舞台が、なにより歌の力を十二分に生かすべく構成され、書かれているという、当たり前と言えば当たり前の事実だった(脚本ハワード・リンゼイ&ラッセル・クルーズ)。

オーストリアのザルツブルク。修道女になるべく修行中の無垢で奔放な娘マリアは、社会勉強のために家庭教師として派遣されたトラップ家で、まずは7人の子供たちと、そして妻に先立たれた退役軍人トラップ大佐とも心を通わせ、紆余曲折を経て大佐と結婚。が、迫り来るナチス・ドイツの支配を逃れて、一家で故国オーストリアを脱出することになる。
史上最短のストーリー紹介。たぶん(笑)。

改めて考えると、それほど凝った話ではない。
マリアの前にハードルが次々に現れ、それを彼女が持ち前の明るさと行動力で乗り越えていく、という話。基本的な構造としては。それだけ。
それも、あまり苦労をするわけではない(ナチスからの逃亡を除けば)。観ている側の印象で言えば、歌ったり踊ったりしている内に、子供たちと仲良くなり、トラップ大佐と結婚することになる。
実はそこに、このミュージカルが名作であるゆえんがある。

余計なセリフや芝居ではなく、歌が(そして少ないが踊りが)物語の展開を観客に納得させていく。これぞミュージカルの醍醐味。
しかも、その歌詞は、例えば『Les Miserables』『Miss Sigon』などのように状況や歌う人間の心理を直接説明するものではない。
典型が「Do-Re-Mi」だ。
「ドはドラム。レはレモンシャーベット……」(意訳/宮本亜門)と音階の呼び名が頭につく言葉を羅列していくだけのこの歌、マリアとトラップ家の子供たちとが巧みな掛け合いで歌うと、彼らが心の壁を取り払って互いに理解し合っていくことを、どんなエピソードよりも雄弁に物語る力を持つ。
30年も前から何度となく聴いてきた耳タコの歌が、これほどドラマティックだったとは。
同じことは、修道院長がマリアを理解していることが言外にわかる「My Favorite Things」、大佐がマリアや子供たちに心を開く「The Sound of Music」、大佐と婚約者エルザの別れが明らかになる「No Way to Stop It」、静かに故国への愛情を吐露する「Edelweiss」など様々な場面でも言える。いずれも、歌の持つ力を生かしきった、『The Sound Of Music』と呼ぶにふさわしい見事なショウ場面だ。
もうひとつ、数少ないダンス場面だが印象的なのが、大佐が、フォーク・ダンスを教わっていたクルト(下の息子)に代わってマリアと踊るところ。2人の大人の情感が無言の内に伝わる、いいシーン。
ソング&ダンスによって観客の心を揺さぶることをミュージカルの至上の命題とするなら、この作品はまさに名作と呼ぶにふさわしい。

こうしたミュージカルとしてのよさがはっきりと見えたポイントは、オリジナル舞台の脚本にのっとっての、「Do-Re-Mi」の位置だ。
修道院からトラップ家に到着したマリアが、大佐の“笛”によって子供たちを紹介された後、すぐに子供たちに向かって「Do-Re-Mi」を歌い始めるのが山田和也版。
構成も楽曲も映画版寄りの宮本亜門版では、マリアは映画同様「I Have Confidence(in Me)」を歌いながらトラップ家にやって来るので、子供たちと出会ってすぐ「Do-Re-Mi」というわけにはいかないと考えたのだろう。結局、雷の夜のベッドで「Do-Re-Mi」が歌われることになる(だから歌詞が、「ドはドラム、雷はドラム」だったわけで、今回はそこの整合性がなくなっている)。ちなみに、映画版では雷の夜のベッドで歌われた「My Favorite Things」は、宮本版でもオリジナル舞台同様に修道院で院長とマリアが歌う。
で、ですね。「Do-Re-Mi」によってマリアと子供たちが打ち解けるのはどちらの版でも同じなのだけれど、山田版の方が唐突。よく考えれば。出会ったばかりで、しかも子供たちは家庭教師という存在に懐疑的。それが歌1つで仲よくなれるはずない。よく考えれば。
これが大事な点。
“よく考えれば”唐突なんだけど、よく考える前に我々観客は、歌っている彼らを観てうれしくなって納得してしまう。ミュージカルのマジックだ。
山田演出は、オリジナル舞台のこうした大胆さをそのまま現代の観客にぶつけてみせた。逆に言えば、宮本演出は、不自然にならないように繊細に、周到に展開してみせたということになる。
そして、個人的には、芝居はむしろ抑え気味にして、歌の力で見せていった今回の演出の方が、『The Sound Of Music』というミュージカルの本来的な魅力をよみがえらせてくれたという意味で、刺激的だった。

ただ、こうした演出には別のむずかしさもあって、場面によっては説明不足だと感じた人もいるようだが、それはもっぱら役者の力量の問題だと思う。役者の歌の表現力、あるいはもっと単純に歌唱力が、楽曲が要求するレヴェルに及ばない場合があるのは、残念ながら日本のミュージカル舞台では日常茶飯事だ。

しかし、大地真央は素晴らしい。
はっきり言って、音程や発声という点では問題ありの歌でさえ、彼女の強く明るいキャラクターと一体になればOK だ。パーフェクトと言うわけにはいかないが、客を呼べるというだけでなく、舞台を引っぱることのできる数少ないミュージカル女優の1人であることは間違いない(だからって、1年に何本もやらせるのはどうかと思いますよ)。
時として彼女だけが突出して見えるのは、彼女の責任ではなく、彼女に追いついていかれない周りの力不足。そういう風に考えないと、日本の舞台は結局つまんないところでバランスのとれた面白味のない舞台ばかりになってしまう恐れあり。

トラップ大佐役、古谷一行は、1995年の若林豪には首を傾げただけに、安定して見えた。歌もうまい部類でしょう。ギターもちゃんと弾いてたし。
エルザ役の今陽子と、大佐の友人マックス役の尾藤イサオは共に達者。でも、尾藤イサオはもったいないなあ。この人の主演でオリジナルを作ってほしい。
修道院長役、妻鳥純子のオペラ的歌唱は立派だが、周りがそういう発声の訓練をしていないので、どうしても浮いてしまう。
マリアを見守るシスターの1人に扮した毬藻えりは、あまり目立たず。
長女リーズル役、松下恵は『Peter Pan』に出ていた時にも思ったが、もう少し訓練を積んでほしい。

とまあ、いろいろと書きましたが、今回の『The Sound Of Music』から学ぶべきは、ミュージカルの肝はソング&ダンスにあり、という根元的な真実につきると思う。
そして、それに応え得るオリジナル楽曲を書けるかどうか。日本のロジャーズ&ハマースタインが出てくるかどうかだ。>

20世紀号に乗って@東急シアター・オーブ 2019/03/27 14:00

OnTheTwentiethCentury

宝塚歌劇雪組による『On The Twentieth Century』の翻訳上演。潤色・演出は原田諒。潤色と言いながら、ほぼ真正面からぶつかる正攻法での上演だった。
このところの雪組は、専科・轟悠主演の再演物『凱旋門』、翻訳物『ファントム』と来て、再び、この翻訳物『20世紀号に乗って』。なんか、変則な演目が続いているトップ・スター望海風斗だが、安定感抜群であるがゆえに歌劇団はこうした演目を彼女に振ってくるのか。それに応えるように、今回もまた文句のつけようのないパフォーマンス。狂騒的なコメディを見事にこなしてみせた。

初演は1978年。元は1932年初演のプレイ『Twentieth Century』(脚本/ベン・ヘクト、チャールズ・マッカーサー、ブルース・ミルホランド)で、1934年にはハワード・ホークス監督で映画化もされている。なので、設定は1930年代。落ち目の舞台プロデューサーと大映画女優となった元教え子との、次作出演を巡る駆け引きの話。>

……と、これは2015年ブロードウェイ・リヴァイヴァル版の感想からの引用。そこから、もう少し引くと。

<映画女優役クリスティン・チェナウェスが大活躍。野暮ったい姿で出てきて、一瞬にして華やかに生まれ変わるシーンから、彼女の独擅場。プロデューサー役にピーター・ギャラガー(ブロードウェイ・ミュージカルは1992年の『Guys And Dolls』以来)、コメディ・リリーフにマーク・リン=ベイカーとマイケル・マッグラスの2人を据えて、これだけでも万全の布陣だが、脇のおかしな老女役にメアリー・ルイーズ・ウィルソンとなると贅沢とすら言える。大コケした『Rocky』のアンディ・カールも、一転して体を張ったコメディ演技で気を吐いて……。役者の顔ぶれだけでも楽しい舞台だ。>

ベティ・コムデン&アドルフ・グリーン脚本による、速いテンポの、話が二転三転するコメディを役者の力で見せていく。要するに、そういう舞台。
今回、コメディ・リリーフとなるプロデューサーの部下役が真那春人&朝美絢、アンディ・カールの演じた女優の現恋人役が彩風咲奈、おかしな老女役が専科の京三紗。それぞれに全力で挑んでいるが、なんと言ってもポイントは主演の男女。
望海風斗については前述した通りだが、驚いたのは女優役、真彩希帆のよさ。クリスティン・チェナウェスが演じたことからもわかるように、ある意味、プロデューサー役以上に目立つ役。出番も多い。リハーサル・ピアニストから女優に変身してすぐのショウ場面では、小柄な感じが弱いかな、とも思ったが、たちまち輝き始めて、後はグイグイと舞台を引っ張っていく。もちろん、望海風斗の確かな受けの演技があっての活躍だが、安定した発声も含めて素晴らしかった。愛希れいかを髣髴させる気がしたが、真彩希帆も最初は男役を目指していたのだとか。共通点がないわけではなかったのか。

最後に、やはり2015年版の感想から、楽曲についての記述を引いて幕にしたい。

<サイ・コールマン(作曲)とベティ・コムデン&アドルフ・グリーン(作詞)という、今は亡き手練れたちによる楽曲は、初演時がノスタルジー・ブームの渦中であったこともあるのだろう、懐古趣味満点で本領発揮の感が強く、今聴いても生き生きしている。>

世界は一人@東京芸術劇場プレイハウス 2019/03/13 14:00

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「音楽劇」と称しているが、日本のオリジナル・ミュージカルの、ひとつの在り方だと思う。作り手がミュージカルと思ってるかどうかは別として。

音楽と芝居の関係としては丸本歌舞伎(義太夫狂言)に近い。
舞台上に4人組のバンドがいて、演奏はもちろん、歌や語りを担当している。舞台の進行役でもある。役者は、バンドによる歌が流れている時には、それに応じて演技をするが、時折、自ら歌いもする。バンドと歌を分け合うようにして歌うこともある。
ほぼ、バンド=義太夫(竹本連中)と考えていい役割。その音楽と芝居の一体感も含め、そうした表現自体が、まず面白い。

物語は、日本のとある地方都市で育った3人の男女をめぐって展開する。小学生の頃から中年になるまで。それぞれの私的な話だが、印象は、高度経済成長から今日に到る日本社会の縮図を思わせる。
冒頭、バンドの語りによるその都市の説明がある。大きな工場ができて発展するが、廃液が川に流され、海に沈殿して「汚泥(おでい)」になる。その「汚泥」は浚渫によって取り除かれるが、取り除かれた「汚泥」がどこに行ったかは誰も知らない。学校の先生に尋ねても曖昧な答えしか返ってこない。曖昧な「汚泥」のイメージが後々まで舞台全体を覆う。まるで日本全体が「汚泥」で覆われているかのように。
平均的で幸せそうに見える家庭の子供、松尾スズキ。金持ちだが親の愛情を受けられない、松たか子。貧乏であることに過敏で攻撃的な態度に出る、瑛太。この3人が、小学校の林間学校(臨海学校?)で担任から夜中にそっと起こされてトイレに行かされる。にもかかわらず、松尾スズキが漏らしてしまい……という不思議なエピソードから始まるのだが、この場面に仕掛けがあって、物語をミステリー仕立てにする伏線になると同時に、この何気ない出来事が3人の人生にも影響を及ぼす。小さな落とし穴。
それとは別に、抗えない日本社会の大きな流れがあり、それぞれの家庭/家族は崩壊し、友情らしきものも歪み、一瞬幸福になりそうに思える3人の人生は、「汚泥」に足をとられるように闇に沈んでいく。
そうした、ひりひりするような「破滅」への流れもまた近松の狂言のようで……。現実の映し鏡感が強烈な印象を残す舞台だった。
ミュージカル好きとしては、役者の歌に不満を覚えないでもなかったが、それはまた別の話なのだろう。

脚本・演出/岩井秀人。音楽/前野健太。演奏/前野健太(ヴォーカル/ギター)、種石幸也(ベース)、佐山こうた(キーボード)、小宮山純平(ドラムス)。出演は上記3人の他に、平田敦子、菅原永二、平原テツ、古川琴音。

 

On The Town@東京国際フォーラム/ホールC 2019/01/17

img_1024『On The Town』のブロードウェイ初演でミス・サブウェイのアイヴィ・スミスに扮したソノ・オーサトが昨年暮れに亡くなった。彼女の自伝は薄井憲二訳で「踊る大紐育~ある日系人ダンサーの生涯」として晶文社から出ている。ディアギレフとも関わったバレエ・ダンサーの人生としてはもちろんだが、サブタイトルにあるように、ある日系アメリカ人の生き方の記録としても、とても興味深い。

そんなタイミングで登場した宝塚歌劇月組の『On The Town』。これが、ほぼ初演の通りの上演という、なかなかに冒険的な試みで、面白く観た。
プログラムに載っている、潤色・演出の野口幸作の挨拶文によれば、「版権の都合上、アダプテーションは許されず、原作通りとなっております」とのこと。なるほど。

『On The Town』という演目は、「ブロードウェイ・ミュージカルの名作」(上記プログラムより)と言われるが、興業的にはそれほどのヒット作ではない。最も長く続いたのが初演で、13か月強。次が2014年版の(プレヴュー込みで)11か月半。1971年版の11月終わりから元旦までの2か月強ってのはホリデイ・シーズン狙いの期間限定かもしれないが、1998年版がやはりホリデイ・シーズンの3か月弱(プレヴュー込み)で終わったのは明らかに入りが悪かったから。
その1998年版の感想に次のような分析を書いている。少し長いが引用する。

<1944年暮れにブロードウェイに登場した『On The Town』は、ジェローム・ロビンズ(振付)が、その年の初めにレナード・バーンスタイン(作曲)と組んで作ったバレエ組曲『Fancy Free』を元に、ベティ・カムデン&アドルフ・グリーン(作詞・脚本)の参加を得て完成させたミュージカル。というのはよく知られた話だが、ポイントになるのは 1944年という上演年。
アメリカの勝ちが見えてきてはいるが、第二次大戦まっただ中。主人公の3人の水兵という設定はタイムリーなもので、 24時間の外出許可を与えられた彼らが憧れのマンハッタン(+コニー・アイランド)でつかの間の自由を味わうという物語に、観客も大いに共感を覚えたはずだ。
しかし、ストーリーは必ずしも緊密に作られているわけではなく、むしろ、“ニューヨーク観光名所巡り”というコンセプトのスケッチ集という印象。登場人物のキャラクターもそれほど深くは描かれていない。それを、優れたダンス・ナンバーが支える……と言うより、ダンス・ナンバーをスケッチでつないでいくという発想か。とにかく、話としては他愛ないし、理屈っぽく考えればご都合主義でさえある。
それでも、1944年という時代の空気の中では、ロビンズの振付やバーンスタインの音楽の斬新さもあって、 OK だったのだ。と思う。
それから50余年。風俗部分が古びて目新しさがなくなった分、今回の舞台では、そうした脚本の弱さが露わになった。>

続いて、2014年版の感想から。

<ブロードウェイでは、1971年、1998年に次いで3度目のリヴァイヴァル。もちろん1971年版は観ていないが、1998年版に加え、2008年のシティ・センター“アンコールズ!”版、2009年のペイパーミル・プレイハウス版を観ている。そして、いつも思うのは、ストーリーが緊密ではないということ。(中略)どこまで行っても“モダン・バレエ・ミュージカルの古典”の域を出ない(ちなみに、映画版は、おそらく、舞台版の弱みを解消する意味もあるのだろう、新たな楽曲を多数加え脚本も変更、ロビンズ+バーンスタインの世界とは違った仕上がりになっている)。
とはいえ、毎回、色合いの違いはある。今回のプロダクション(演出ジョン・ランドー、振付ジョシュア・バーガス)は、例えば1998年版のように大掛かりなセットを使って何らかの現代性を出そうとする方向とは逆に、初演が持っていたであろうシンプルな空気感を再現しようとしているように見えた。その分、物足りなくはあるが、ある種の爽やかさがあった。>

「物足りなくはあるが、ある種の爽やかさがあった」というのは、今回の月組版を観ての感想でもある。1998年版で物足りなかったのは脚本の弱さから来るドラマ部分だが、宝塚版では、加えてダンス部分が物足りない。群舞を含め、かなりがんばってはいるのだが、その道の本格派を集めたブロードウェイ版には、さすがに及ばない。まあ当然の話なのだが。
「冒険的な試み」と最初に書いたのは、そうしたモダン・バレエ的なダンスがメインになる作品であると同時に、トップ男役を中心にドラマを作り上げていく宝塚歌劇の手法に必ずしも向いていない題材であるにも関わらず、あえて選んだところ。しかも、それを国際フォーラムという小さくない劇場で上演してしまうというのは、なかなかの冒険だろう。
しかし、そうした困難を乗り越えて、なにはともあれ楽しげな舞台に仕上げてしまうのが宝塚歌劇の“生徒”たち。そこに爽やかさを感じるし、その辺りが人気の秘密だろう。
オーケストラが生だったのも大きい(編曲・指揮/甲斐正人)。あまり予算をかけられなかったようだが、映像(九頭竜ちあき)もアイディアを駆使して効果的だった。
宝塚歌劇のブロードウェイ作品への挑戦を積極的に望む者ではないが、この舞台に関しては結果オーライな印象。それにしても、今の月組には不思議な勢いがある。全員集合の次作が楽しみ。

The Chronicle of Broadway and me #065(Cyrano: The Musical)

19941月@ニューヨーク(その4

Cyrano: The Musical(1月6日20:00@Neil Simon Theatre)は、近年しばしば日本で上演されているフランク・ワイルドホーン(作曲)×レズリー・ブリッカス(作詞・脚本)版ではなく、2000年に市村正親主演で翻訳上演されたアト・ヴァン・ダイク(作曲)×クーン・ヴァン・ダイク(作詞・脚本)のオランダ版。前年の10月にプレヴューが始まり、この年の3月20日にクローズしている。以下、当時の感想。

<一際高い鼻で有名なシラノ・ド・ベルジュラック(原作はフランスのエドモン・ロスタンが19世紀末に発表した戯曲)のミュージカル。
珍しいオランダ産で、主演、演出、製作、セット、衣装、照明、音響等の人たちはオランダから直接やって来て、ニューヨークのスタッフとの協力で作っている。そのせいかどうか、スタイルはオペラ的だが、同じくオペラ的なロンドン産の『The Phantom Of The Opera』やフランス産ロンドン経由の『Les Miserables』と比べると、あざとさと言うか、はったりの要素が少なく、展開もゆったりとした印象。
驚いたのが照明の精妙さ。微妙なタイミングで微妙に変化していく照明が、歌に深みを与え、ドラマにアクセントを加える。光の色のバランスも、ある瞬間の絵として絶妙であると同時に、時間的流れの中で観ても見事。決して派手ではないが、渋く、美しい。セットや衣装も費用をかけた凝った作りで、照明とあいまって視覚的な部分は申し分ない(余談だが、戦闘最前線のテントの群れのセットが『香港ラプソディー』冒頭の天安門のシーンとよく似ていて驚いた)。
オペラ的と書いたが、楽曲には親しみやすさもあり、時折ユーモラスな部分(道化的に描かれる驕慢なオペラ歌手や、お茶目な尼僧)があって、納まり返った舞台になっているわけではないし、イギリスの”fight director”が担当した、時間をたっぷり取った剣戟場面も迫力満点で飽きさせない。
こうした素晴らしい部分が数多くある、ある意味、完成度の高い舞台であるにもかかわらず、最後までどうしても入り込めなかった。なぜか。
それは、愛する女のために別の男との間を取り持ってやり、さらにそこから悲劇が生まれるという、古めかしく不合理な話を、ロマンティックで感動的なものに転化してしまうだけの”ノリ”が欠けているからだ。そして、その原因は、やはり演出(エディ・ハベマ)にあるのだろう。もったいない。>

照明、装置、衣装の担当は、それぞれ、Reinier Tweebeeke、Paul Gallis、Yan Tax。レイニアー・トゥイービーク、ポール・ギャリス、ヤン・タックスという英語的な読みでいいのかどうか。イギリス人”fight director”はマルコム・ランソン。
結局、この作品のオランダ人スタッフは、これ以降、少なくともブロードウェイには登場していない。ただし、プロデューサーのヨープ・ファン・デン・エンデだけは別で、おそらく、この時に人脈とアメリカ国内の口座を作ったのだろう、直近の『Pretty Woman: The Musical』に到るまで、数多くのブロードウェイ作品に出資を続けている。

ちなみに、『香港ラプソディー』は、1993年の3月1日から4月11日まで東京・アートスフィアで、4月16日から30日まで大阪・シアタードラマシティで上演された日本のオリジナル・ミュージカル。作曲/ディック・リー、作詞/竜真知子、脚本/永沢慶樹(原作/西木正明『スネークヘッド』)、演出・振付/宮本亜門、プロデューサー/池田道彦。劇中で宮本裕子の歌った「チャイナ・レイン」は名曲。

蘭陵王~美しすぎる武将~@KAAT神奈川芸術劇場 2018/12/04 13:00

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自覚のないまま強い者から虐待を受けていた孤独な少年と孤独な少女が、成人の後に運命のいたずらで巡り会い、最後の最後に手を組んで強大な権力にしっぺ返しを食わせる。要約すると、そんな話。設定は1500年前の中国だが、まっすぐ現代に通じる内容。
舞台の全てがうまくいっているわけではないが、木村信司らしい意欲作として興味深く観た(てか、予備知識なしで観に行って、幕開けの凪七瑠海のアナウンスで、作・演出が木村信司と知ったのだが)。

木村信司作品の特徴は、時事問題を孕んだテーマの設定と、それに対する理屈っぽく辛辣なアプローチ、そして、工夫を凝らした語り口(演出)、か。自然、寓話的感触になることが多い。ハマると、おーっ!と感動するが、ぎくしゃくすることもないではない。
今回の演出は、ストーリーの大半を「語り部」に語らせる、という一見安易な手法。初めは、1500年前の中国の状況をわかりやすくするための方策かと思ったが、途中から、別の意図がわかってくる。主人公の受ける性的な虐待を遠回しに表現すること。加えて、それによる主人公の内面の変化を表現すること。そうしたナーヴァスな案件の説明を「語り部」に託したわけだ。それは、ある程度、功を奏したと言っていいだろう。ちなみに、「語り部」は2人いるが、最初に出てくるメインの「語り部」の正体が最後に明かされる。驚くほど意外ではないが、全体が腑に落ちて幕を閉じる感じになって、うまいと思う。

蘭陵王(らんりょうおう)とは、中国・北斉の皇族、高長恭の諸侯王としての称号。というわけで、6世紀に実在した人物。
皇帝(実際には死後に追尊)高澄の四男として生まれるが、兄弟で一人だけ母親の姓名が不詳であることから、その出生について想像をふくらませることが可能になっている。さらに、敵軍に包囲された洛陽城の解放に向かった際、籠城中の兵に自分が味方であることを知らせるために防具である面を外してみせたことから、その美貌ゆえに味方の士気を削ぐことを恐れて常に面を被って戦った、という伝説が生まれた。この2点を軸に物語が作られている。
が、後者については、伝説誕生の瞬間として劇中ハイライト的に盛り上げてみせはするものの、作者自身の関心は、そこにはない印象を受ける。もっぱら前者、それも“美貌”伝説を踏まえての出生から成長過程の想像に、作者の軸足は置かれているようだ。
容貌の美しさゆえに幾たびか死地を逃れ、尋常ならざる庇護の下、強くなければ生きていかれないという人生観を育んできた孤児が、背中の入れ墨から亡き皇帝の息子であることがわかり、武術の訓練を積んで強力な武将となる。これが物語の土台。やや無理のある、この流れを強引に通してしまうのが、演出を凝らした語り部の妙技。
ここに、敵の間者であるヒロインを登場させることで、ドラマの根幹はほぼ出揃う。後にわかることだが、初めに書いたように、このヒロインも幼い頃から虐待を受けて育ってきた孤独な人間だったのだ。
そうした似た境遇から生まれた似た人生観が、敵対する立場でありながら、最後に2人を結びつけるのだが、この2人の出会いの設定が優れている。ストイックな主人公に時の皇帝が各地から選りすぐった女性を与えようとする。全くと言っていいほど関心を示さない主人公が唯一選んだのが、どこと言って特徴のない洛妃という娘。なぜ選んだのか。2人きりになって主人公は言う。敵の間者だと見抜いたからだ、と。
そこで死のうとする娘を説得する歌が、この作品の肝。全てを捨てて生きろ、という内容を、木村信司らしい回りくどい言い回しで歌うのだが、今回はその回りくどさが、いい方に出た。メロディもいい。同じ歌を、終盤、死罪を受け入れようとする主人公に向かって洛妃が歌う。その時、2人の関係の円環が見事に閉じられる(プログラムを買わなかったので作曲者不明のままです。ご教示いただければ幸いです)。

……と、根幹はうまくいっているのだが、肉付けがイマイチ。作品の質を上げていくべき余剰部分の豊かさが足りなかったのは残念。ことに、歌詞の練りが足りていない気がした。

専科に移って後の凪七瑠海の初主演作。ヒロイン洛妃が音くり寿。蘭陵王の異母兄弟で皇帝になる高緯がゲイという設定で、演じるのが瀬戸かずや。その寵愛の相手、逍遥君をクールに演じるのが帆純まひろ。全体を支えたメインの語り部は専科の京三紗。もう1人の語り部が花組副組長の花野じゅりあ。無骨な将軍をいい味で演じるのが専科の悠真倫。

カーテンコールの挨拶で花野じゅりあが言っていたが、花組はこの時点で4つに分かれて公演中とか。手薄な中での健闘が光った。

MESSIAH(メサイア)~異聞・天草四郎/BEAUTIFUL GARDEN~百花繚乱~@東京宝塚劇場 2018/09/19 13:30

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役者に固執することが少ないせいか、注意散漫なせいか、その両方かは不明だが(笑)、宝塚歌劇をわりと長く観てきていながら、男役三番手ぐらいまでしか生徒の顔と名前を覚えられない。なので、ときどきオッと思う生徒がいるとプログラムを買って調べることになる。この花組公演もそうだった。

水美舞斗(みなみまいと)。
『MESSIAH』では徳川幕府の要人、松平信綱を演じていた。この役、物語の上でかなり重要。
MESSIAH』は、倭寇(海賊)の首領だった男が難破の末に天草に流れ着き、土地の人に受け入れられて天草四郎になる、という話で、四郎はもちろん明日海りお。四郎の指揮した島原の乱の後、反乱軍側で唯一生き残るのが、実在の人物、山田右衛門作(えもさく)、またの名を山田祐庵(ゆうあん)。演じるのは柚香光。父家光の将軍時代に起こった島原の乱の真相を知りたいという徳川家綱に召された南蛮絵師・祐庵の回想として、話は語られる。

物語の大きな構図は、キリシタン弾圧及び過酷な年貢の取り立てを行なう肥前島原藩主・松倉勝家と、それに耐えきれず反乱を起こすことになる天草・島原の人々との対立。それを背景に、新参者で怪しげな四郎、元からの住人でキリシタンである右衛門作=祐庵、その恋人の娘・流雨(仙名彩世)、の三角関係が揺れ動く。……と、これだけなら、言っちゃなんだが宝塚歌劇ではわりとよくあるドラマ。そこに幕府の思惑、対応が加わることで厚みが増した。
その幕府の動きの中心になるのが、老中・松平信綱。
もとより反乱は鎮めねばならない。が、幕府に隠れて悪政を行なう松倉勝家にもそれなりの処罰を与える必要がある。そういう微妙な仕事を将軍家光に代わって現地に出向いて行なう信綱。立場上、冷徹であらねばならぬ。が、反乱の真意は実は痛いほどわかる。そんな風に見える演技を、完璧にとは言わないが、水美舞斗は熱を込めてやり遂げていた。この信綱の動きが、結果として四郎と祐庵との和解のきっかけとなることを思えば、やはり、この役の意味は大きい。
もっとも、この「異聞」は、あくまで宝塚歌劇的「異聞」であって、幕府にこうした「良心」があったとは思えないが、ここではドラマとして面白く収まった。作・演出/原田諒。

水美舞斗は、ショウ『BEAUTIFUL GARDEN~百花繚乱~』でも目に留まった。
明日海りお登場シーン(が華やかなのは当然なので、それ)以外でいちばん印象的だったのは、柚香光が傘を持って登場する「Rainy Day Garden~パリの花々~」と題された第3章だったが、その前の章の蜂に扮した場面を筆頭に、様々なところでキレのいい動きを見せたのが水美舞斗。まあ、『MESSIAH』で気になったからというのはあるが、それでも、ダンスが得意な人でもあったのかと改めて感心したしだい。作・演出/野口幸作。
見どころの多い花組公演だった。