The Chronicle of Broadway and me #065

19941月@ニューヨーク(その4

Cyrano: The Musical(1月6日20:00@Neil Simon Theatre)は、近年しばしば日本で上演されているフランク・ワイルドホーン(作曲)×レズリー・ブリッカス(作詞・脚本)版ではなく、2000年に市村正親主演で翻訳上演されたアト・ヴァン・ダイク(作曲)×クーン・ヴァン・ダイク(作詞・脚本)のオランダ版。前年の10月にプレヴューが始まり、この年の3月20日にクローズしている。以下、当時の感想。

<一際高い鼻で有名なシラノ・ド・ベルジュラック(原作はフランスのエドモン・ロスタンが19世紀末に発表した戯曲)のミュージカル。
珍しいオランダ産で、主演、演出、製作、セット、衣装、照明、音響等の人たちはオランダから直接やって来て、ニューヨークのスタッフとの協力で作っている。そのせいかどうか、スタイルはオペラ的だが、同じくオペラ的なロンドン産の『The Phantom Of The Opera』やフランス産ロンドン経由の『Les Miserables』と比べると、あざとさと言うか、はったりの要素が少なく、展開もゆったりとした印象。
驚いたのが照明の精妙さ。微妙なタイミングで微妙に変化していく照明が、歌に深みを与え、ドラマにアクセントを加える。光の色のバランスも、ある瞬間の絵として絶妙であると同時に、時間的流れの中で観ても見事。決して派手ではないが、渋く、美しい。セットや衣装も費用をかけた凝った作りで、照明とあいまって視覚的な部分は申し分ない(余談だが、戦闘最前線のテントの群れのセットが『香港ラプソディー』冒頭の天安門のシーンとよく似ていて驚いた)。
オペラ的と書いたが、楽曲には親しみやすさもあり、時折ユーモラスな部分(道化的に描かれる驕慢なオペラ歌手や、お茶目な尼僧)があって、納まり返った舞台になっているわけではないし、イギリスの”fight director”が担当した、時間をたっぷり取った剣戟場面も迫力満点で飽きさせない。
こうした素晴らしい部分が数多くある、ある意味、完成度の高い舞台であるにもかかわらず、最後までどうしても入り込めなかった。なぜか。
それは、愛する女のために別の男との間を取り持ってやり、さらにそこから悲劇が生まれるという、古めかしく不合理な話を、ロマンティックで感動的なものに転化してしまうだけの”ノリ”が欠けているからだ。そして、その原因は、やはり演出(エディ・ハベマ)にあるのだろう。もったいない。>

照明、装置、衣装の担当は、それぞれ、Reinier Tweebeeke、Paul Gallis、Yan Tax。レイニアー・トゥイービーク、ポール・ギャリス、ヤン・タックスという英語的な読みでいいのかどうか。イギリス人”fight director”はマルコム・ランソン。
結局、この作品のオランダ人スタッフは、これ以降、少なくともブロードウェイには登場していない。ただし、プロデューサーのヨープ・ファン・デン・エンデだけは別で、おそらく、この時に人脈とアメリカ国内の口座を作ったのだろう、直近の『Pretty Woman: The Musical』に到るまで、数多くのブロードウェイ作品に出資を続けている。

ちなみに、『香港ラプソディー』は、1993年の3月1日から4月11日まで東京・アートスフィアで、4月16日から30日まで大阪・シアタードラマシティで上演された日本のオリジナル・ミュージカル。作曲/ディック・リー、作詞/竜真知子、脚本/永沢慶樹(原作/西木正明『スネークヘッド』)、演出・振付/宮本亜門、プロデューサー/池田道彦。劇中で宮本裕子の歌った「チャイナ・レイン」は名曲。

蘭陵王~美しすぎる武将~@KAAT神奈川芸術劇場 2018/12/04 13:00

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自覚のないまま強い者から虐待を受けていた孤独な少年と孤独な少女が、成人の後に運命のいたずらで巡り会い、最後の最後に手を組んで強大な権力にしっぺ返しを食わせる。要約すると、そんな話。設定は1500年前の中国だが、まっすぐ現代に通じる内容。
舞台の全てがうまくいっているわけではないが、木村信司らしい意欲作として興味深く観た(てか、予備知識なしで観に行って、幕開けの凪七瑠海のアナウンスで、作・演出が木村信司と知ったのだが)。

木村信司作品の特徴は、時事問題を孕んだテーマの設定と、それに対する理屈っぽく辛辣なアプローチ、そして、工夫を凝らした語り口(演出)、か。自然、寓話的感触になることが多い。ハマると、おーっ!と感動するが、ぎくしゃくすることもないではない。
今回の演出は、ストーリーの大半を「語り部」に語らせる、という一見安易な手法。初めは、1500年前の中国の状況をわかりやすくするための方策かと思ったが、途中から、別の意図がわかってくる。主人公の受ける性的な虐待を遠回しに表現すること。加えて、それによる主人公の内面の変化を表現すること。そうしたナーヴァスな案件の説明を「語り部」に託したわけだ。それは、ある程度、功を奏したと言っていいだろう。ちなみに、「語り部」は2人いるが、最初に出てくるメインの「語り部」の正体が最後に明かされる。驚くほど意外ではないが、全体が腑に落ちて幕を閉じる感じになって、うまいと思う。

蘭陵王(らんりょうおう)とは、中国・北斉の皇族、高長恭の諸侯王としての称号。というわけで、6世紀に実在した人物。
皇帝(実際には死後に追尊)高澄の四男として生まれるが、兄弟で一人だけ母親の姓名が不詳であることから、その出生について想像をふくらませることが可能になっている。さらに、敵軍に包囲された洛陽城の解放に向かった際、籠城中の兵に自分が味方であることを知らせるために防具である面を外してみせたことから、その美貌ゆえに味方の士気を削ぐことを恐れて常に面を被って戦った、という伝説が生まれた。この2点を軸に物語が作られている。
が、後者については、伝説誕生の瞬間として劇中ハイライト的に盛り上げてみせはするものの、作者自身の関心は、そこにはない印象を受ける。もっぱら前者、それも“美貌”伝説を踏まえての出生から成長過程の想像に、作者の軸足は置かれているようだ。
容貌の美しさゆえに幾たびか死地を逃れ、尋常ならざる庇護の下、強くなければ生きていかれないという人生観を育んできた孤児が、背中の入れ墨から亡き皇帝の息子であることがわかり、武術の訓練を積んで強力な武将となる。これが物語の土台。やや無理のある、この流れを強引に通してしまうのが、演出を凝らした語り部の妙技。
ここに、敵の間者であるヒロインを登場させることで、ドラマの根幹はほぼ出揃う。後にわかることだが、初めに書いたように、このヒロインも幼い頃から虐待を受けて育ってきた孤独な人間だったのだ。
そうした似た境遇から生まれた似た人生観が、敵対する立場でありながら、最後に2人を結びつけるのだが、この2人の出会いの設定が優れている。ストイックな主人公に時の皇帝が各地から選りすぐった女性を与えようとする。全くと言っていいほど関心を示さない主人公が唯一選んだのが、どこと言って特徴のない洛妃という娘。なぜ選んだのか。2人きりになって主人公は言う。敵の間者だと見抜いたからだ、と。
そこで死のうとする娘を説得する歌が、この作品の肝。全てを捨てて生きろ、という内容を、木村信司らしい回りくどい言い回しで歌うのだが、今回はその回りくどさが、いい方に出た。メロディもいい。同じ歌を、終盤、死罪を受け入れようとする主人公に向かって洛妃が歌う。その時、2人の関係の円環が見事に閉じられる(プログラムを買わなかったので作曲者不明のままです。ご教示いただければ幸いです)。

……と、根幹はうまくいっているのだが、肉付けがイマイチ。作品の質を上げていくべき余剰部分の豊かさが足りなかったのは残念。ことに、歌詞の練りが足りていない気がした。

専科に移って後の凪七瑠海の初主演作。ヒロイン洛妃が音くり寿。蘭陵王の異母兄弟で皇帝になる高緯がゲイという設定で、演じるのが瀬戸かずや。その寵愛の相手、逍遥君をクールに演じるのが帆純まひろ。全体を支えたメインの語り部は専科の京三紗。もう1人の語り部が花組副組長の花野じゅりあ。無骨な将軍をいい味で演じるのが専科の悠真倫。

カーテンコールの挨拶で花野じゅりあが言っていたが、花組はこの時点で4つに分かれて公演中とか。手薄な中での健闘が光った。

MESSIAH(メサイア)~異聞・天草四郎/BEAUTIFUL GARDEN~百花繚乱~@東京宝塚劇場 2018/09/19 13:30

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役者に固執することが少ないせいか、注意散漫なせいか、その両方かは不明だが(笑)、宝塚歌劇をわりと長く観てきていながら、男役三番手ぐらいまでしか生徒の顔と名前を覚えられない。なので、ときどきオッと思う生徒がいるとプログラムを買って調べることになる。この花組公演もそうだった。

水美舞斗(みなみまいと)。
『MESSIAH』では徳川幕府の要人、松平信綱を演じていた。この役、物語の上でかなり重要。
MESSIAH』は、倭寇(海賊)の首領だった男が難破の末に天草に流れ着き、土地の人に受け入れられて天草四郎になる、という話で、四郎はもちろん明日海りお。四郎の指揮した島原の乱の後、反乱軍側で唯一生き残るのが、実在の人物、山田右衛門作(えもさく)、またの名を山田祐庵(ゆうあん)。演じるのは柚香光。父家光の将軍時代に起こった島原の乱の真相を知りたいという徳川家綱に召された南蛮絵師・祐庵の回想として、話は語られる。

物語の大きな構図は、キリシタン弾圧及び過酷な年貢の取り立てを行なう肥前島原藩主・松倉勝家と、それに耐えきれず反乱を起こすことになる天草・島原の人々との対立。それを背景に、新参者で怪しげな四郎、元からの住人でキリシタンである右衛門作=祐庵、その恋人の娘・流雨(仙名彩世)、の三角関係が揺れ動く。……と、これだけなら、言っちゃなんだが宝塚歌劇ではわりとよくあるドラマ。そこに幕府の思惑、対応が加わることで厚みが増した。
その幕府の動きの中心になるのが、老中・松平信綱。
もとより反乱は鎮めねばならない。が、幕府に隠れて悪政を行なう松倉勝家にもそれなりの処罰を与える必要がある。そういう微妙な仕事を将軍家光に代わって現地に出向いて行なう信綱。立場上、冷徹であらねばならぬ。が、反乱の真意は実は痛いほどわかる。そんな風に見える演技を、完璧にとは言わないが、水美舞斗は熱を込めてやり遂げていた。この信綱の動きが、結果として四郎と祐庵との和解のきっかけとなることを思えば、やはり、この役の意味は大きい。
もっとも、この「異聞」は、あくまで宝塚歌劇的「異聞」であって、幕府にこうした「良心」があったとは思えないが、ここではドラマとして面白く収まった。作・演出/原田諒。

水美舞斗は、ショウ『BEAUTIFUL GARDEN~百花繚乱~』でも目に留まった。
明日海りお登場シーン(が華やかなのは当然なので、それ)以外でいちばん印象的だったのは、柚香光が傘を持って登場する「Rainy Day Garden~パリの花々~」と題された第3章だったが、その前の章の蜂に扮した場面を筆頭に、様々なところでキレのいい動きを見せたのが水美舞斗。まあ、『MESSIAH』で気になったからというのはあるが、それでも、ダンスが得意な人でもあったのかと改めて感心したしだい。作・演出/野口幸作。
見どころの多い花組公演だった。

SMOKE@浅草九劇 2018/10/25/14:00 Renacsence@Abrons Arts Center(466 Grand St.) 2018/11/04/15:00

2週間と間をおかずに観たこの2作、いずれも実在した詩人についての、トンガリ具合が刺激的なミュージカルだった。
『SMOKE』の詩人が朝鮮のイ・サン(李箱)で、『Renacsence』の詩人がアメリカのエドナ・セイント・ヴィンセント・ミレイ。

『SMOKE』は、イ・サンの連作詩「烏瞰図(うかんず)第15号」からインスピレーションを得て生まれた、と公式サイトに書いてある。ことに楽曲の詞には、それがかなり反映されているのだろうと想像する。
日本版ウィキペディアによれば……イ・サンは1910年9月14日(陰暦8月20日)生まれ、1937年4月17日没。難解で過度に自己中心的な作風は「天才」と「自己欺瞞」の両極端な評価を受け、独特の世界を描いている。27歳という若さで世を去ったことが、更に李箱の評価を難しくしている。亡くなる前年に東京に渡りホームレス的な生活をしていたが、思想不穏の嫌疑で西神田警察署に拘禁され、1か月後に健康悪化のため釈放。
……といった情報をまるで知らないまま観始めたのだが、冒頭のシーンはこの釈放の場面だった、と後でわかる。
倒れている男がいる。そして暗転。若者2人が誘拐計画を実行しようとしている。1人はさっき倒れていた男で、これが強気な詩人。もう1人は意志薄弱そうな画家。誘拐は成功し、金持ちの娘が2人の部屋に連れてこられるが、詩人が身代金のことで外出している間に画家は娘に懐柔され……。と、ここまでを読んで想像するいくつかの展開の、いずれでもない方向に話は進んでいく。登場人物が3人しかいないのに、その3人の正体すらわからなくなってくる。謎が謎を呼ぶ、というやつ。
緊迫感に満ちたドラマの行き着く先は、今後の再演をご覧になる方がいないとも限らないので伏せたままにするが、3人の役者の鬼気迫る演技もあって最後までハラハラ。見応え充分だった。
この作品、元は韓国産で、脚本・演出チュ・ジョンファ(추정화)、作曲・音楽監督ホ・スヒョン(허수현)。それを、あなたの初恋探します同様、菅野こうめいが日本版に仕立てたようで、クレジットには、上演台本・作詞・演出:菅野こうめい、とある。脚本・作詞にどれだけ手が入っているのか不明な上に、韓国版を観たことがないので比較はできないが、日本版単体で評価するなら、日本語詞の楽曲の質も含めて充分に成果は上がっている。
それと同時に、この日本版に意味があるのは、最初に書いた、イ・サンが東京で思想不穏の嫌疑で拘禁されていたことを描いていること。最後に再び釈放シーンがあるのだが、そこで彼に投げつけられる言葉が「不逞鮮人」。今の日本の空気を抉る瞬間だ。
役者は、大山真志、木暮真一郎、池田有希子。後者2人はダブル・キャスト。音楽・演奏には伊藤靖浩のクレジットがあった。

『Renacsence』は、エドナ・セイント・ヴィンセント・ミレイの若き日の断片×ポエトリー・リーディングといった趣向の舞台。
ミレイは1892年2月22日メイン州生まれ、1950年10月19日没。20歳の時にコンテストに応募した「ルネッサンス」という詩が評判となって頭角を現し、25の年にグリニッチ・ヴィレッジに移り住んでいる。その後、1923年に「竪琴をつくる者」(The Ballad of the Harp-Weaver)でピューリッツァー賞受賞。と、まあ、そういった経緯が、家族や友人や編集者との葛藤を交えたドラマとして描かれる。と同時に、ミレイの詩が楽曲となって歌われる。
作曲のカーメル・ディーンは、これが作曲家デビューだが、これまでブロードウェイで『If/Then』『American Idiot』『Hands On A Hardbody』『The 25th Annual Putnan County Spelling Bee』の音楽監督/編曲の仕事をしてきている。さらに、グリーン・デイやフィッシュ(Phish)とも仕事をしている。どちらかと言えば、エッジの立った音楽寄りの人。それが、ここでは生きている。
面白いのは、最後に観客を舞台に上げ、壁際にセットした椅子に座らせて、キャスト全員によるポエトリー・シンギング&ダンシングを間近で体験させること。100年前の詩人エドナ・ミレイならやったかもしれないと思わせる、小さな劇場ならではのアイディアだった。
ついでに書いておくと、上演されたアブロンズ・アーツ・センターは初めて訪れたが、マンハッタンには珍しい、のどかな雰囲気の中に佇む落ち着いた劇場だった。

 

Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀/Killer Rouge 星秀☆煌紅@梅田芸術劇場メインホール 2018/09/03 13:00

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前公演(ANOTHER WORLD/Killer Rouge@東京宝塚劇場)の好調さをそのまま維持して、再び、紅ゆずる率いる星組ならではの破天荒な演目で楽しませてくれた。

『Thunderbolt Fantasy(サンダーボルト ファンタジー)東離劍遊紀(とうりけんゆうき)』の元は、日本×台湾共同制作によるテレビ人形劇とのこと。10月に控えた台湾公演を想定しての演目のようだ。原案・脚本・総監修の虚淵玄(うろぶちげん)が、その人形劇の発案者。宝塚歌劇側の脚本・演出が小柳奈穂子。
サブタイトルは「異次元武侠ミュージカル」。古代中国を思わせる架空の世界を舞台に、最強の武器「天刑劍」をめぐって繰り広げられる策謀と戦いのドラマで、二転三転する謎解きめいた展開も面白い。

紅ゆずるの役どころは、超然とした態度で剣客や秘術使いを巧みに操る鬼鳥(きちょう)という謎の人物。しかしてその実体は、大盗賊、凜雪鴉(りんせつあ)。
この、とらえどころのない口先三寸の一見ペテン師のような人物を、紅は、ほぼ声の表情の変化だけで演じてしまう。その声だが、もはや宝塚歌劇の男役らしさにこだわることを超越したかのような、作った気配のない自然な発声。トップとしての確信に満ちた演技が魅力的。
鬼鳥=凜雪鴉に次いで重要な存在となるのが、流浪の剣客、殤不患(ショウフカン)で、演じるは七海ひろき。
礼真琴演じる捲殘雲(ケンサンウン)は、劇の構造としては観客視点の代行者で、超人的英雄に憧れる一般人的存在。とはいえ、かなり強い。
捲殘雲の憧れる対象が弓の名手、狩雲霄(シュウンショウ)で、演じるのが輝咲玲央。
……と、この辺りの配役は、序列よりも役者の個性に合わせて柔軟。それが功を奏している。
その他、善悪入り乱れてかなり数のキャラクターが登場するので、やや忙しくはあるが、多くの生徒たちに活躍の場面が与えられていて、それも楽しい。

『Killer Rouge/星秀☆煌紅(アメイジングスター☆キラールージュ)』は、前回公演のショウ『Killer Rouge』の新ヴァージョン。作・演出/齋藤吉正。
よくできた勢いのあるショウだっただけに、こうしたブラッシュアップによる再演はうれしい。特別ゲストで紅子が登場。アクが強くなっている気がしたのは久しぶりに観たせいか(笑)。

ところで、梅田芸術劇場は初めてだったが、音響にやや難アリ、ですか?

エリザベート~愛と死の輪舞(ロンド)~@宝塚大劇場 2018/09/04 11:00

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太陽王(『ALL FOR ONE~ダルタニアンと太陽王~』)→トゥーランドット(『鳳凰伝~カラフとトゥーランドット~』)→ジャンヌ・ダルク(愛聖女(サントダムール)~Sainted’Amour)という流れがあった上でのエリザベート。この愛希れいかの宝塚歌劇キャリア終盤のイメージが、今回の公演の色合いを決定づけて成功している(途中、『カンパニー~努力、情熱、そして仲間たち~』が入るが、そちらは箸休めということで)。
台風来襲のさなか(15時公演は中止になり、終演後は帰宅不能になりましたが)大劇場まで遠征してよかったと思わせてくれる、いい公演だった。

実のところ、『エリザベート』という作品をそれほど高くは評価していない……と書き始めるつもりだったが、1997年の星組公演の段階でけっこう誉めていることが自分のサイトを確認してわかった(笑)。1997年3月24日@東京宝塚劇場の公演について、「エヴィータを借りてエヴィータを超えたエリザベート」というタイトルで次のように書いている(1997年3月26日記述)。長いが、ほぼ全文引用。

elisabethhoshi

<ウィーン産ミュージカル『エリザベート』の宝塚ヴァージョンが、一路真輝サヨナラ公演として雪組によって東京で演じられたのが昨年6月(宝塚大劇場同年2月)。
それから1年待たずに、今度は星組による再演が東京にお目見えした(宝塚大劇場昨年11~12月)。

時の権力者の妻となり、政治的にもなにがしかの影響を及ぼした実在の女性の半生を、その死から語り始める、という点で、このミュージカルは『エヴィータ』(Evita)に実によく似ている。テロリストを狂言回しとして登場させるに至っては、『エヴィータ』から借りたと言う他ない。
が、『エヴィータ』における起死回生の1曲「Don’t Cry for Me Argentina」のような屈指の名曲こそ持たないものの、『エリザベート』は、完成度において『エヴィータ』の上を行っている。
充分に満足できる仕上がりだ。

第1幕。
オーストリア・ハンガリー皇妃エリザベートを刺殺したイタリア人アナーキスト、ルキーニは、事件から100年経った今も、エリザベート殺害の動機を巡って煉獄の法廷で尋問を受けている。彼は言う、皇妃は“死”を愛していたのだ、と。
その言葉を裏付けるために死者たちが呼び出され、エリザベートの半生が再現される。
エリザベートが初めて“死”と出会うのは少女の時だ。
自由闊達な彼女は綱渡りに挑んで失敗し、意識不明となる。エリザベートをそのまま黄泉の国へ連れ去ろうとした“死”=トートは、その生命力にあふれた美しさに魅せられ、命を助ける。そして、いつの日か彼女の愛を得ようと決意する。
一方、ハプスブルク家では、皇太后ゾフィが若き皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚を画策していた。その相手がエリザベートの姉だったのだが、見合いの席でフランツはエリザベートを見初めてしまう。
そして、周囲の危惧をよそに二人の結婚式が行われる。
ハプスブルク家に入ったエリザベートは、伝統と格式を笠に着た姑ゾフィの執拗な干渉に悩まされる。しかも夫のフランツは母に対して優柔不断。
産んだ子供すら自分で育てられない境遇に悲嘆したエリザベートの前にトートが現れ、誘惑するが、彼女は自分の道を強く生きる覚悟を固める。
その頃、オーストリア支配下にあったハンガリーでは独立の気運が高まっていた。エリザベートは、自らの美貌によって大衆の心をつかみ、ハンガリー宥和に成功。存在を誇示する。
しかし、ハンガリーの革命勢力はオーストリア国内に潜入し、相次ぐ戦争で疲弊した市民の不満を煽って、反ハプスブルク感情を高めていく。その中にはなぜかトートの姿も混じっていた。
宮廷内では、ゾフィとエリザベートとの緊張関係が限界にまで達していた。エリザベートに最後通牒を突きつけられたフランツは、エリザベートに子供の教育権を与えることで、彼女の愛を取り戻そうとするのだった。

第2幕。
ハンガリーの自治を認めると同時に自らがハンガリー皇帝として即位するという苦肉の策で独立問題に対処したフランツは、ハンガリーで絶大な人気を得ているエリザベートと共に戴冠式に赴く。
その頃オーストリアでは、多忙な両親に取り残された息子のルドルフが、孤独な日々を送っていた。そこにトートが現れ、呼んでくれれば“友達”としていつでも来てあげる、と約束する。
一方、力を失いつつあるゾフィは、エリザベートへの意趣返しに、娼館の女たちを宮殿に引き入れ、フランツを誘惑させる。美貌を保つための過度の運動と節食で倒れたエリザベートに主治医として近づいたトートは、娼婦と共にいるフランツの写真を見せ、彼女に死を迫る。
しかし、またしてもその誘惑を拒絶したエリザベートは、従者たちを連れて長い旅に出る。
成長したルドルフは、フランツにハンガリーの真の独立を説くが聞き入れられない。独立勢力と関わっていたルドルフは彼らの後押しでクーデターを謀るが、事前に発覚。フランツの信頼を失ったルドルフは、旅から帰ってきたエリザベートに理解を求めるが、心を閉ざしているエリザベートは彼を受け入れてやることができない。
絶望したルドルフは、トートに誘われるまま、拳銃で自分の頭を撃ち抜く。
ルドルフの葬儀の夜、悔やんでも悔やみきれない自分の過ちに、ただ慟哭するエリザベート。現れたトートに、死にたいと言うが、トートは、お前はまだ俺を愛していないと言って去っていく。
さらに月日は流れ、変わらず旅を続けるエリザベートを、年老いたフランツが訪ねる。戻ってくれと言うフランツに、二人はすれ違うだけだと答えるエリザベート。
さて、煉獄の法廷も閉廷が間近い。結論を迫る裁判官にルキーニは言う。最後の証人、トート閣下の登場だ、と。
そして、トートからナイフを受け取るルキーニ。
レマン湖畔、船に乗るために急ぐエリザベートをルキーニが刺す。すべての苦悩から解き放たれたエリザベートは、自らトートの胸に抱かれ、黄泉へと旅立っていく。『キャッツ』(Cats)のラストシーンのように。

まず、被害者は死にたがっていたんだ、と犯人が主張する。その真偽を確かめるために被害者の半生を追う、という設定がミステリー仕立てで面白い。
さらに、その黒幕に“死”がいるとなると、被害者がいつ、どうやって“死”に導かれるのか、というサスペンスフルな興味もわく。
おまけに、家庭内の嫁姑の確執話と、帝国内の独立運動の話が絡み合い、次々に苦難が訪れる果てに息子の死という悲劇が待っている。
要素としては『風と共に去りぬ』(Gone With The Wind)に似ていなくもない筋立て。これだけで軽く『エヴィータ』を超えている。

演出もうまい。
冒頭、マイケル・ジャクソンの「Thriller」に出てくるゾンビのように不気味だった死者たちと、生前の華麗な宮廷人との印象の落差。クライマックス前にも同じ演出が繰り返されるが、この変わり具合が、客席と舞台との時間差を実に巧みに埋めている。
と言うより、観客を一気に舞台の世界へ引き込んで、実に効果的。
黒子のように漂う黒天使たちの扱いも、生と死の境界線を自由に行き来するトートを見事に表現していて、うまい。 特に、彼らのダンスは、目立つわけではないが、ミュージカルとしてのこの作品に奥行きを与えている。
他にも細かいが、結婚式で、この結婚はすべて汝の意志かと聞かれたエリザベートが、はい、と答えると続けて様々な声がこだまのように、はい、はい、はい……と答えたり、ハンガリー皇帝戴冠式で式を司る司祭が実はトートだったりするような、小さくハッとさせるアイディアがいくつかあって、これもうれしい。

シンプルだが象徴的なセットは必要十分にこの世界を表現しているし、暗い調子のライティングも効果的だ。

楽曲は、前述したように超名曲はないが、印象に残る曲は多く、水準は高い。まあ、曲調の配分などは、アンドリュー・ロイド・ウェバーの影響下ではあると思うが。

さて、役者だ。
これに関しては、どうしても雪組 (1996年6月12日13:00@東京宝塚劇場)との比較で語らざるを得ない。

まず、白城あやか。彼女によって、このミュージカルの主役がエリザベートであることが鮮明になった。
奔放な精神と皇妃という立場の板挟みになりながら自我を貫き通そうとする。考えようによってはかなりエキセントリックな女性を、15歳から62歳までくっきりと演じ通して観客の共感を呼ぶ。エリザベートの物語として一本筋が通った。
雪組の時は、一路真輝の演じるトートの存在がより大きく、同じストーリーながら、印象としては、エリザベート(花總まり)がトートの手で操られているように見えた。

そのトートは、麻路さきによって、より人間臭く演じられた。
一路のトートはまさに魔王のごとく超然としていたが、麻路はエリザベートに魅せられ苦悶する様が生々しく、その結果、白城が浮かび上がったということもある。

この2役の比重の違いによって、雪と星の『エリザベート』は違う色彩を帯びることになった。
どちらがどうということはない。トート絶対の従来の宝塚らしい雪組版もよかったし、ウィーン版に近づいたのかとも思えるエリザベート主体の星組版も面白かった。

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これ以上の雪と星の比較は宝塚ファンのみなさんにお任せしたいが、1人だけ、出づっぱりで難しくはあるが儲け役でもあるルキーニを演じた紫吹淳。
時に過剰ではあるが、その陰影のある陽気さとでもいうような個性が印象に残った。>

後に、東宝版、ウィーン版来日公演を観るに到って、『エリザベート』は宝塚版こそが面白いのだと認識(ざっくり言うと、東宝版は男優の演じるトートが生々し過ぎてバランスが悪く、ウィーン版はトートの存在が軽過ぎてスリルに欠ける)。中でも、最初の一路真輝=トート版が最高だった。宝塚版初演×トップの退団公演ということもあって雪組全員の集中力と熱量がハンパなかったし、生徒の層も厚かった。そして、一路真輝自身の役者としての力量の大きさも素晴らしかった。
とはいえ、この感想はちょっと誉め過ぎ、と今では思う(苦笑)。『エヴィータ』より面白いってことを強調したかったあまり、盛り気味の表現になった気がする。

それはそれとして、今回の月組版は、トートとエリザベートとの関係については上の感想に書いた星組版に近い。
「奔放な精神と皇妃という立場の板挟みになりながら自我を貫き通そうとする」エリザベート(愛希)と、「エリザベートに魅せられ苦悶する」トート(珠城りょう)。エリザベート主導と言うと言い過ぎだが、ほぼ対等。
そのイメージの源泉は、冒頭に書いた愛希れいかの、このところの役柄にある。そして、それは、愛希れいかの個性を元に、退団に向けて計算されたものではないだろうか。もし偶然なら、彼女が引き寄せた強運だ。娘役として、これほど輝かしい退団公演までの道のりは、そうそう実現できるものではないと思う。
それを可能にした最大の要因は、珠城りょうと美弥るりか(フランツ)の存在。組の頂点でトライアングルを組むのが、発展途上の若々しいトップと、成熟した個性の二番手という、望んでも容易には得られない絶妙のバランスの男役二人だという幸運。逆に言うと、そのトライアングルの中で、珠城りょうも美弥るりかも、愛希れいかを媒介にして、それぞれの個性を遺憾なく発揮している。今の月組は面白い。

専科からの客演がないせいもあってか、若干、層が薄い気がしないでもないが、物足りない感はない。あるいは全体にすっきりした方向で演出されているのかもしれない。
例えば、儲け役ルキーニの月城かなと。過剰になりがちなこの役を、気持ち抑え気味に演じているように見えるのは、そのためか。好演。
ゾフィ役の組長・憧花ゆりのも、この公演で退団らしい。

ちなみに、『エヴィータ』『エリザベート』説は、その後、『エヴィータ』『オペラ座の怪人』(The Phantom Of The Opera)『エリザベート』説に自分の中で発展している。つまり、神出鬼没のトートがファントムというわけ。どうでしょう?

ナイツ・テイル~騎士物語~@帝国劇場 2018/08/09 13:00

IMG_0795国産(と呼んでいいなら)ミュージカルとしては出色の出来。

まず誉められるべきはジョン・ケアードの脚本。
ボッカッチョ→チョーサー→フレッチャー/シェイクスピアと流れて来た中世の“二人の騎士”の物語『二人の貴公子』(The Two Noble Kinsmen)を、『夏の夜の夢』(A Midsummer Night’s Dream)と混ぜ合わせて原作とは異なるハッピーエンドに落とし込むにあたり、そこに“戦争と平和”と“ジェンダー”についての今日的議論/解釈を投げ込んでかき回すという荒技を仕掛け、見事に決めてみせている。ことに“ジェンダー”問題は、アマゾネス(女性社会)の長が戦いに敗れて捕虜になり、彼女が物語を観察し続けるという設定にすることで男性中心社会に対するカウンター的視点を導入、作品の裏テーマとして鮮やかに筋を通した。そのため、単に恋が実ってメデタシメデタシな空気で終わらないのが素晴らしい。
加えて、役者たちが“二人の騎士”の物語を演じますよ、という構成も効果的。劇中劇という構成は、よくあるスタイルではあるが、今回に関しては大成功。と言うのも、今井麻緒子の手がけた日本語のセリフが旧来のシェイクスピア劇の翻訳調にのっとったものになっているのだが、劇中劇なら当然そうなるよね、とハナから納得して観ていられるから。ともすればセリフが不自然になりがちな“赤毛物”であることを逆手にとったケアードの作戦と見るが、どうだろう。おかげで役者たちは、日常的には口にしない言葉遣いで躊躇なくいきいきと語り、舞台が活気に満ちたものになった。

ケアードと長く一緒に仕事をしているポール・ゴードン(『Jane Eyre』『Daddy Long Legs』)の楽曲(作曲・作詞)は、ツボを心得た緩急自在の派手すぎない作風が快い。訳詞(今井麻緒子)も翻訳物にありがちな違和感が少ない。前述の“シェイクスピア劇の翻訳調”OKな設定がプラスに働いているということもあるだろう。「牢屋で」と歌われる曲などは、かなり快調な仕上がり。
通常のオーケストラとは別に、4人の邦楽奏者(和太鼓×2、篠笛・能管、津軽三味線)が加わっているが、和の色合いを出すというよりは中世の空気感を生むのに貢献していて効果的。色物感はゼロだ。

堂本光一×井上芳雄という組み合わせを想定して脚本を書いた、とケアードが言うだけあって、2人のキャラクター設定、コンビネーションが見事にハマっていて楽しいのが、役者に関しての最大の成功要因。
物語の要になっているのが、前述したように裏テーマを支えるアマゾネスの長の役。ここに島田歌穂を据えたのも大きい。ケアードの信頼の厚さがうかがえる。
大澄賢也は活きのいい若手ダンサー陣と共に熱演。ダンサーの中では西岡憲吾のスッとした姿が印象的。王役の岸祐二は安定の演技。
娘役2人の歌が若干弱いが、国産ミュージカルのレヴェルで言えば上出来の部類だろう。
個人的には、藤咲みどりのダンスが超久しぶりに観られてうれしかった。

おそらく国内ミュージカルとしては今年一番の収穫だろう。