どこか通底するところのある題材を扱った舞台を3日連続で観た。その感想、第3弾(第1弾は『ある都市の死』、第2弾は『東京ローズ』)。
『天守物語』は、歌舞伎座『十二月大歌舞伎』第三部の一篇。2023年の歌舞伎座公演の最後を締めくくるに相応しい充実した内容だった。
同作は過去に、2007年、2009年、2014年と3回、いずれも歌舞伎座『七月大歌舞伎』で玉三郎×海老蔵(現團十郎)の組み合わせで観ているが、白鷺城の天守閣に棲む“この世の者ならざる”姫(富姫)と“聖域”天守閣にやむを得ず登ってきた現世の若き武士(図書之助)との幻想的なラヴ・ストーリー、という認識だった。そして、イマイチ印象がはっきりしない作品でもある、という。
が、今回は違った。こんな面白い作品だったのかと驚いた。正直、感動もした。
原作は泉鏡花の書いた戯曲。発表は1917年だが、初演は鏡花没後の1951年、新派による新橋演舞場公演だったようだ。歌舞伎座での初演は4年後の1955年、中村歌右衛門×守田勘彌の顔合わせ。
勘彌(四代目玉三郎)の養子だった当代坂東玉三郎は早くからこの演目に憧れたらしく(1960年歌舞伎座の歌右衛門×勘彌が初見とか)、1977年の日生劇場公演を皮切りに今日に到るまで富姫役で出演し続けている。それが今回は脇に回って、富姫の妹的立場の亀姫役。
今回の富姫役は中村七之助。これ以前に、5月の平成中村座@姫路城で、今回同様、坂東玉三郎演出の下、中村虎之介の図書之助を相手に演じている(その時の亀姫は鶴松)。
玉三郎×海老蔵との違いは、幻想味が薄いこと。と言うか、玉三郎×海老蔵の場合は、2人のスター・オーラが強すぎて(口跡の塩梅も含め)、とことんファンタジーな雰囲気だった。なので、天守閣で中盤以降に起こる地上界との騒動が、富姫と図書之助の恋の背景にしか見えなかった。
今回は、その1つ1つが、家父長的価値観にしがみついて世を乱す男権主義者たちに対する嫌悪として、くっきりと浮かび上がってくる。耽美的に見える世界からの現実世界への批判。しかも、それは原作発表から100年以上隔たった“現在”にも通じるリアリティを伴っている。
この変化の理由は、1つは七之助の持つ現実感にある。華やかなスター性を持つ一方で、やんちゃで下世話な感覚(褒めてる)が彼にはある。それが、この世ならざる幽界から一歩踏み出して図書之助に歩み寄る気配を強めた。
もう1つの理由は、未完成ながらも抑えた演技で七之助に応える虎之介の清廉さにあったと思う。その佇まいが、図書之助を疎外する下界に対する違和感を観客に伝えていく。
こうした、あくまでも現実世界に片足を残した2人が、天守にまで攻め登ってきた下界勢力と決死の思いで対峙するに到って、揺蕩うような妖しくも華やいだ空気の前半の意味(下界に対する批評性)が鮮明になり、同時に、そこに敷き詰められていた伏線の数々とその意味が解き明かされていく。これまでの観劇ではスター2人のファンタジー色濃厚な恋物語に目を奪われてはっきり見えていなかった作者の企みに改めて気づく、といったしだい。泉鏡花の手腕に感服。
玉三郎の亀姫が愛らしく、前半の空気醸成を担って格別の存在感。勘九郎の舌長姥、吉弥の奥女中薄、獅童の盤坊、片岡亀蔵の武田家臣小田原修理と、それぞれ適役。
玉三郎によれば、平成中村座の時には玉三郎初演時(1977年)に作った冨田勲によるシンセサイザー演奏を使ったらしいが、ここでの音楽は歌舞伎座に合う(玉三郎談)唯是震一作の和楽器演奏に変更されている。