The Chronicle of Broadway and me #181(Swan Lake)

1998910月@ニューヨーク(その2)

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『Swan Lake』(10月3日14:00@Neil Simon Theatre)は、ちょうど新演出版とやらが来日しているマシュー・ボーン(演出・振付)版のニューヨークお目見え公演。「怪しき白鳥たち」のタイトルで旧サイトに書いた感想。

<一昨年暮れに訪れたロンドンで評判が高かったのが、チャイコフスキーの古典バレエ『Swan Lake』の白鳥を男ばかりが演じるというバレエ・パフォーマンス。その時はほとんどソールドアウト状態だと聞いたので観るのはあきらめたのだが、その好評を背負っての約1年半後のニューヨーク期間限定公演、プレヴュー開幕前から期待感が高く、こちらのチケット売れ行きも好調のようだった。
観たのは正式オープン5日前のプレヴュー。とは言え、公演を重ねて練り上げられてきた作品、すでに仕上がっているように見えた。……のだが、実のところ、イマイチ核心をつかみきれず、ちょっととまどった、というのが正直な感想。
観るまでは、単純に『Swan Lake』を男ばかりで演じる舞台なのかと思っていたが(そういう舞台も別にありますが)、違った。
改めて考えてみれば元のストーリーをアレンジしてあるのだが、改変の度合いが大きく、全く別のオリジナル・ストーリーを用意したのかと思うほどだった。

元の『Swan Lake』はこんな話。
21歳の誕生日を迎える王子が狩りに出かける。彼はまだ自由を謳歌したいのだが、狩り場に現れた女王は、慣例に従って彼が妃を迎えなければならないことを思い出させる。
その日、王子は湖で、人間に姿を変えた白鳥と恋に落ちる。実は白鳥は、魔法使いによって変身させられたさる国の王女で、童貞の青年と結ばれれば呪いは解けるという。
翌日の夜会。女王は王子を次々と妃候補に引き合わせるが、白鳥を想う王子は首を縦に振らない。ところが、最後に到着した男爵の娘をひと目見て、王子は心を奪われる。彼女は白鳥にそっくりだったのだ。
しかし、それは男爵に化けた魔法使いの罠で、陰謀に気づいた王子は本当の白鳥の許に駆けつける。が、時すでに遅く、白鳥は命を絶たなければ永遠に白鳥でいるしかなくなる。意を決した王子は白鳥と共に湖に身を投げる。その瞬間、魔法使いも力を失い、消え去る。

とてもわかりやすい。したがって、安心してバレエの妙を楽しむことができる。

今回の『Swan Lake』も王子の話で、王子+白鳥+女王のある種の三角関係という大枠も、元の『Swan Lake』と同じ。
なのだが、これがわかりにくい。もちろん、目の前で起こっていることはわかるのだが、その背景、動機とか因果関係とかが見えない。そんなの気にしないでパフォーマンスを観ていけばいいのだろうけど、ストーリーがあるとどうしても追ってしまうので、なんだか消化不良。核心をつかめない、と言ったのはそういうことだ。

大まかに言うと、こういう話。
時はどうやら現代。
子供の王子が巨大なベッドで眠っている。そこに悪夢のように白鳥が現れる。という導入部があって、場所は再び王子の寝室。今度の王子は成人している。成人はしているが子供っぽい。
この王子が、なぜか母である女王から疎まれている。でもって、この女王が多情な印象。だから、母と息子の間にもなにやら歪んだセックスの匂いがする。
ともあれ、女王と王子はそれぞれエスコートの男性とガールフレンドとを連れてバレエ見物に出かける。このバレエの内容が、白鳥ではなく蝶なのだが、どこか『Swan Lake』を思わせる。しかし、タッチはコミカル。この観劇は王子のガールフレンドの不作法が原因で混乱の内に終わる。
この後、王子はいかがわしいクラブへ出向き、酔っぱらってさんざんな目に遭う。
そして街の公園。ベンチでうなだれる王子の前に白鳥たちが現れ、舞う。
ここまでが第1幕。
第2幕はかなり元の『Swan Lake』に近い。と言うのは、各国の王女たちが集う宮殿でのパーティがメインだからだ。
このパーティに、やはり白鳥にそっくりの“男”が現れ、フェロモンを振りまいて混乱に陥れる。
最後は軟禁されたとおぼしい王子の寝室。ベッドの中(枕の下)から例の白鳥が現れ、ベッドの下から出てきた他の白鳥の攻撃から王子を守り、そして消えていく。

おそらく、第1幕前半は、大人になりきれない王子を描いているのだと思う。そこには、もしかしたら現代の英国王室に対する揶揄やなんかが入っているのかもしれない、とも思う。が、そうなるとよけいわからない。
ただ言えるのは、コミカルさが野暮ったい感じがするということ。だもんで、第1幕は後半の白鳥たちの登場までは、かなり退屈。
が、公園での白鳥たちの踊りには異様な力がみなぎっていて、迫力たっぷり。ただ、それが何を表現しているのかが見えなくて、困った。
第2幕は、前述したようにパーティ場面がほとんどで、元の『Swan Lake』同様、様々な踊りが繰り広げられて観応えがある。ここはストーリーを考えずにダンス・レヴューだと思って観ていられるので、楽しい。

そんなわけで、踊りの場面に関しては面白かったが、作品全体の趣向はと言うと、ねらいがよくわからず、残念ながら楽しみきれなかった。>

どうなんですかね、新演出。観る予定はありませんが。

Tina: The Tina Turner Musical@Aldwych Theatre(London) 2019/06/25 19:30

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10月にブロードウェイでも上演の始まる『Tina: The Tina Turner Musical』。せっかくロンドンまで飛んだので、ひと足先に観た。
で、はたしてブロードウェイで通用するのか? という記事を、ロンドン版の感想を交えてこちらに書きました。よろしければ、ご一読ください。

The Light In The Piazza@Royal Festival Hall/Southbank Centre(London) 2019/06/26 20:00

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無料配信音楽誌「ERIS」の25号から26号にかけて、ルネ・フレミングが昨年(2018年)9月にリリースしたアルバム『Broadway』の選曲について、ミュージカル・ファンの視点から原稿を書いた。そのアルバムの冒頭に収録されているのが、ミュージカル『The Light In The Piazza』の最後の曲「Fable」。
その「ERIS」の原稿の「Fable」に関する部分を以下に抜き出す(タイトル表記等はこのブログに準じて編集)。

<1曲目がこれ、ってのがアルバムを印象づけている。
『The Light In The Piazza』は2004/2005年シーズンに登場。トニー賞では作品賞こそ逃したものの楽曲賞を獲得。他に、編曲賞、主演女優賞、装置、照明、衣装のデザイン賞も受賞している。
楽曲作者(作曲・作詞)のアダム・ゲテール……どうも日本では「ゲッテル」という表記が定着してきているようだが、アクセントは「テ」にあるから、「ゲテール」あるいは「ゲテル」が発音に近いと思うのだが、それはそれとして……アダム・ゲテールは『Once Upon A Mattress』の作曲者メアリー・ロジャーズの息子。つまり、リチャード・ロジャーズの孫。そういう意味では、この作品も〝準〟ロジャーズ&ハマースタインものと言えなくもない。
この連載の第16回(本誌23号)で、ルネ・フレミングの出演した『Rodgers & Hammerstein’s Carousel』について触れ、ロジャーズがロレンツ・ハートとのコンビを解消した後にハマースタインと組んで目指したのは〝新たなオペラ〟だったのではないか、という推論を書いたが、この『The Light In The Piazza』の楽曲は、そうしたロジャーズ&ハマースタイン作品以上にオペラを思わせる。その中のハイライト・ナンバーを1曲目に持ってきた辺りに、フレミングの意図が表れる。

すなわち、このアルバムのキーワードの1つは「オペラ的楽曲」。
ミュージカル俳優でない歌手が「ブロードウェイ」という看板でアルバムを出す例は昔から多数あるが、多くの場合、ブロードウェイ・ミュージカルの楽曲を歌手としての自分の土俵に持ち込むスタイルをとる。ジャズ系の歌手ならジャズ・アレンジで、オペラ系の歌手ならオペラ風のアレンジで、という具合に。しかし、このフレミング盤はそうではなく、ミュージカルの中の「オペラ的楽曲」を〝再発見〟する、とでも言いたくなる選曲をしている。フレミングのオペラ的歌唱で改めてミュージカルの中にある「オペラ的楽曲」の存在を知らしめる、という感じ。だから、ほとんどの曲を、ほぼ原曲に忠実なアレンジで歌っている。

「Fable」は、第2幕の終盤にヴィクトリア・クラークによって歌われる、娘を思う母の歌。
子供の頃の事故が元で精神的な成長が止まっている26歳の娘クララ。彼女を連れてハネムーンの地フィレンツェを訪れた中年のアメリカ人女性マーガレット。対人関係で発作的に混乱してしまう娘を慮(おもんばか)って、なるべく他人に近づけないようにしていたにもかかわらず、クララはイタリア人青年と恋に落ちる。誰にも事情を打ち明けられないマーガレットだが、青年の家族にも馴染んでいくクララを見て、娘は自分の庇護から解き放たれるべき時が来たのかもしれないと思い、2人の結婚を祝福する決心をする。その逡巡と決心の歌。そして、愛に対する疑いと希望の歌。
美しい。が、難曲。ヴィクトリア・クラークのトニー賞主演女優賞を決定づけたのは、この曲だと思う。それをフレミングは表情豊かに歌いきる。前述したように、原曲とほとんど変わらないアレンジで。編曲は作者のゲテール自身。挨拶代わりとしては申し分のない1曲。
ちなみに、ヴィクトリア・クラークは、どちらかと言えばメゾ・ソプラノ。歌声は柔らかい。本来ソプラノ歌手であるフレミングの方が、声が強く聞こえる。

ここで、もう一つのキーワードが浮かんでくる。「ディーヴァ対決」。〝対決〟と言うと響きがきついが、歌うにあたって過去の女優たちの歌唱を参照しないはずもなく、その際、フレミングの中に「私ならこう歌う(演じる)」という意識が生まれるのは必然。結果的に〝対決〟色が表れる。アレンジがあまり変えられていないことも、その感を強くする。中でも、この「Fable」からは、チャンスがあれば歌いたい(演じたい)という意欲を強く感じる。>

これを書いたのが、昨年(2018年)10月。ところが、年が変わる頃に、フレミングがロンドンで『The Light In The Piazza』に出演、のニュースが流れる。おそらくは出演の話が決まっていた上でのレコーディングだったのだろうが、部外者の知るところではない。いずれにしても、「チャンスがあれば歌いたい(演じたい)」という推測が当たったわけで、誰も褒めてくれないので自分で褒めてやろうとチケットを押さえたのが半年前。
待ちわびての観劇となった。

サウスバンク・センターのロイヤル・フェスティヴァル・ホールは、基本はクラシック・コンサートの会場。その舞台後方のやや高い位置にオーケストラが配されている。
オーケストラの手前に据え置きのセット。設定はフィレンツェの広場だ。
左側後方から中央の右寄りにかけては石造りの建物の1階部分の壁が、右に行くにしたがって少しずつ低くなりながら広場を囲んで立つ。その壁の裏側を中央辺りから右側へ回り込むように降りてくる石段。左の袖際には、石柱を台座とする大きな裸身の彫像。舞台中央部分は、左から右に緩く登る形で上に張り出している。
そこに、テーブルや椅子や、時には別の彫像の出し入れがあって、ホテルの部屋や、カフェや、店などに変化する。
印象としては、ニューヨーク・シティ・センター「アンコールズ!」シリーズの少しセットに凝った公演、という感じ。全体に簡素化されている。

ニューヨーク初演を観たのが2005年4月。もう14年も前か。島田歌穂の翻訳版ですら12年前だ。
予備知識なしに観た初演では、イタリア人がイタリア語で話し、歌うのに、まず驚いたが、日本版ではどうしてたんだっけか? やっぱりイタリア語を使ったんだろうな。ともあれ、そうしたことを含めた全てが今観ても新鮮だし、面白い。楽曲の充実ぶりも改めて感じた。
そして、1950年代の話でありながら、孕むテーマも今日的。浮かび上がるのは女性の自立→個人の尊厳。それは、ルネ・フレミングがアルバム『Broadway』に込めた裏テーマでもあったはずだ。

そのフレミング。いきいきと、確信をもって演じている様子がまっすぐに伝わってきて素晴らしい。
最終曲「Fable」のアレンジは、アルバムと全く同じ。待望久しかっただけに、イントロが流れた瞬間、胸がいっぱいになった。

この公演のウリの1つであるクララ役ダヴ・キャメロンは、この日は休演。当日午後にサウスバンク・センターからその旨のメールが来たが、「交換したい場合は返信を」と書いてあったので、そこまでのスターなのかと驚いた。ま、それはともかく、代役のモリー・リンチは普段はアンサンブルのようだが、この人がクララのイメージにぴったり。歌唱もしっかりしていて、知らなければ代役には見えなかっただろう。魅力的だった。
イタリア人一家を演じる役者陣も全員確かな実力。脇が堅いのはうれしい。

指揮のキンバリー・グリグズビーはアメリカからやって来た人。ブロードウェイで上演中の『To Kill A Mockingbird』の音楽監督で、つまり、同作の音楽を書いたアダム・ゲテール直々の人選と考えて間違いないだろう。アレンジが同じはずだ。
演奏はオーケストラ・オブ・オペラ・ノース。

なお、この舞台は、ロンドンで幕を下ろした後、ロスアンジェルスとシカゴでも上演されることが決まっている。

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The Chronicle of Broadway and me #132(Riverdance)

199612月@ロンドン(その8)

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『Riverdance: The Show』(12月21日14:30@Apollo Hammersmith Theatre)の上掲劇場写真、日付が観劇日と違っているのはチケット購入のために訪れた際の撮影だからだと思う。1999年以降、来日公演も頻繁に行われたショウ。以下、当時の感想。

『Riverdance: The Show』は、いくつかのダンス・カンパニーと歌い手たちが、達者なミュージシャンたちをバックに繰り広げる、レヴュー・タイプのショウ。思った以上に楽しいエンタテインメントだった。

中心になるのが、ザ・リヴァーダンス・アイリッシュ・ダンス・トゥロープという名の大規模な、男女混合のダンス・カンパニー。
ケルト色濃厚な音楽に乗って、タップ・ダンスの源流と言われる木靴(タップ・シューズの金属チップに当たる部分が木でできている)を鳴らすアイリッシュ・ダンスを見せてくれるわけだが、これが実に新鮮。
半身はほとんど直立したままで足だけを動かすというスタイルは、どこまで伝統的でどのくらい洗練されているのかわからないが、印象としてはかなりプリミティヴ。振付に工夫を凝らしてはいるものの、1人の肉体の動きで見ればヴァリエーションは当然少ない。
が、それを補うのが――。
一つは数。総勢30人を越えるカンパニーが一斉に木のチップで床を踏みリズムを刻み始めると、それはもう異次元の世界だ。
もう一つは力強さ。足の打ちつけ方の激しさは、観ているこちらが痛くなるほどだが、その結果生まれる力強い響きには、大地の鼓動を思わせる迫力がある。
そしてスピード。これは特にソロの時に顕著だが、休むことなく高速で足を鳴らし、飛び回る(ジャンプ力もすごい)。そのエネルギーには感嘆するしかない。
珍しさだけではない魅力が、彼らのダンスには間違いなくある。

とは言え、“タップの源流”だけでショウがもつはずもなく、ダンスでは、もう1組、クラシックと民族舞踊を融合させたモスクワ・フォーク・バレエ・カンパニーというグループがあり、他に女性のジプシー的ダンサー1人とアフリカ系のタップ・ダンサー2人(プログラムには3人名前が載っているが)がゲスト扱いで登場する。
中で、モスクワ・フォーク・バレエ・カンパニーは、男女3人ずつの小編成ながらリヴァーダンスのカンパニー以上に強い印象を残した。
バレエとしての技術が高い上に、民族舞踊の取り入れ方が自然で魅力的。ダイナミックで楽しげだ。この辺、バレエに詳しい人の意見も聞いてみたいところ。
他に、ケルト的コーラス・グループ、やはりケルトの民族楽器とおぼしい太鼓を演奏するグループ、それにバリトンの男性ソリストが登場。皆、それぞれに水準が高かった。

そして、なにより、全編にわたってバックで音楽を奏で続けるオーケストラが見事。
ドラムス、ベース、キーボード、サックス、ギター(うまい!)といった、まあよくある楽器の他に、ハーモニカ、フィドルに始まりバグパイプの一種から、何と呼んでいいのかわからない民族楽器の数々までをそろえて、味わい深いアイリッシュ・ミュージックを聴かせてくれる。その音楽だけでもOK、と言えそうな充実ぶりだった。
その背景に楽曲(ビル・ホェラン)のよさがあることも忘れちゃいけない。

各グループが単独で演じるだけでなく、様々な組み合わせの共演があり、最後には全員による一大競演も用意されている、というのも驚き。その共演もおざなりじゃない。

とにかく、これだけの寄り合い大所帯をまとめあげ、一本筋の通った(やがて新大陸へ渡っていくアイルランド人の歴史、というストーリー性を持つ)ショウに仕立てたスタッフ(原案モヤ・ドハーティ、演出ジョン・マッコーガン)のエネルギーは相当なものだ。
装置(ロバート・バラー)、照明(ルパート・マーレイ)も神秘的な美しさをたたえて見事だった。>

The Chronicle of Broadway and me #131(Scrooge)

199612月@ロンドン(その7)

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Scrooge(12月19日19:30@Dominion Theatre)については、前回アップの『Oliver!』と併せて、「ロンドンのディケンズはハズレがない」というタイトルで旧サイトに感想を書いている。その部分は『Oliver!』の方でお読みください。
以下、その感想の『Scrooge』の部分です。

『Scrooge』の初演は1992年の11月9日バーミンガムで、とオリジナル・キャスト・アルバムにある。題材から言って“季節物”に違いないから、その後毎年のように冬を迎えると上演されているのだと思う。日本でも市村正規や三田村邦彦の主演で翻訳上演された。その本家がこれだ。もっとも、舞台の前に映画版があり、原題は同じだが日本では『クリスマス・キャロル』のタイトルで公開されている(1970年ロナルド・ニーム監督)。
人間不信で守銭奴と化している老人スクルージは、クリスマス・イヴに現われた、かつての共同経営者の幽霊に導かれ、3人のクリスマスの霊と共に過去・現在・未来を一夜にして旅し、温かい心を取り戻す。
明けてクリスマス。生まれ変わったスクルージは他人のために金を遣うことに喜びを覚えるのだった。

お馴染みの話、わかっちゃいるけど泣かされました。特に、幼くして亡くなる運命のタイニー・ティムのくだり。
泣かせのツボで泣かされてどうするってなもんだが、アンソニー・ニューリー演じるスクルージの、胸に迫る、それでいて重苦しさをまるで感じさせない“軽深”な歌と演技には降参。カーテン・コールが繰り返された後、最後に1人残って喝采を受け、舞台中央を向こうに去っていく飄々とした姿は、まさに千両役者。
演じるのは4度目、とプログラムにあるから、初演以来ずっとなのだろう。当たり役として充分に練り上げられていて、余裕たっぷりだった。
レズリー・ブリカッスによる楽曲 は、これ、という傑出した曲はないものの、どれも自然で温かみがある。そんな中で、「Thank You Very Much」という陽気なナンバーが、ショーン・キングズリーというダンサーのタップを中心にしたにぎやかなダンス・シーンに仕立てられていて、印象に残った。
この題材には付き物の(霊が現れたり消えたり飛んだりするわけでありますから)イリュージョンと呼ばれるトリックも、大がかりではないがアイディアを駆使して楽しい。効果から言えば、大規模な装置を使ったマディソン・スクエア・ガーデン内パラマウント劇場のChristmas Carolに決して引けを取っていない。>

アンソニー・ニューリーは2年4か月後の1999年4月に亡くなる。レズリー・ブリカッスと並ぶイギリス・ミュージカル界の宝。観ることができてよかった。

The Chronicle of Broadway and me #130(Oliver!)

199612月@ロンドン(その8)

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Oliver!(12月21日19:30@London Palladium Theatre)については、次回アップ予定の『Scrooge』と併せて、「ロンドンのディケンズはハズレがない」というタイトルで旧サイトに感想を書いている。その書き出しは次の通り。

<3年前のロンドンで一番楽しかったのが、ディケンズの小説「The Posthumous Papers Of The Pickwick Club」(邦題:ピクウィック・クラブ)を原作にしたミュージカルPickwickだったが、今回も2本のディケンズ物が、やはり当たりだった。
「Oliver Twist」(オリヴァー・トゥィスト)→『Oliver!』と「A Christmas Carol」(クリスマス・キャロル)→『Scrooge』。どちらもよく練れていて、スリルはないが安心して楽しめた。
うしたオーソドックスなディケンズ物に満足できるのは、ロンドンだからこそ。ロンドンのミュージカルは、ロンドンを舞台にした、かっちりした作りの物の方が、質が高いことが多い。少ない経験ながら、そう思う。
そうでないミュージカルはどこかあざとい、というのが、2度のロンドン訪問で感じた印象だ。>

以下、『Oliver!』の感想部分。

<1960年にロンドンで幕を開けた『Oliver!』初演版は、Jesus Christ Superstarに破られるまでウェスト・エンド最高のロングラン記録(2,618回)を持っていたヒット作で、1963年にはニューヨークに上陸、そちらも約1年半のロングランとなった。
映画化は1968年で、スタンリー・グリーンは「ハリウッド・ミュージカルのすべて」(音楽之友社)で「傑作映画」と書いているが、個人的には映画全体よりも、静から動へ劇的に盛り上がっていく「Who Will Buy ?」のスケールの大きなダンス・シーンに感動し、中学生の頃サウンドトラック・アルバムで、そこだけを飽きもせず繰り返し聴いた覚えがある。

19世紀半ばのイギリスのとある街。孤児オリヴァーは食事のお代わりを願ったばかりに救貧院から葬儀屋に売り飛ばされるが、ロンドンへと逃げる。
そこで少年ばかりのスリ集団の仲間入りをし、元締めフェイギンに命じられて初仕事に出かけるものの、1人逃げ遅れて捕まる。が、被害者の紳士ブラウンロウは、行方不明の愛娘の面影を感じたこともあってオリヴァーを自宅に引き取る。
それを知ったフェイギンは、アジトの発覚を恐れて、凶悪なビル・サイクスにオリヴァーを誘拐させる。今やオリヴァーの命は風前の灯火!

何と言ってもライオネル・バートの楽曲が素晴らしく、やはりバートの手がけた脚本も無駄がない。今回はそこにハイテクを駆使した大がかりな、だがハッタリで終わらない効果的な装置(アンソニー・ワード)が加わり、スピード感のある演出(サム・メンデス)と相まって、古めかしさのない、いきいきした舞台に仕上がった。
特に、ロンドンの町中を移動する人物に合わせて流れるように移り変わっていく装置の転換のスムーズさには舌を巻いた。それに、空。場面に合わせて多様な雲が流れるのだが、そのリアルなこと。CGではないように思うのだが。
今回のリヴァイヴァル は1994年12月に幕を開け、ジョナサン・プライスのフェイギンが絶賛されている。2年後の1996年12月、フェイギンを演じていたのはロバート・リンゼイ。再演版Me And My Girlの主役を演じてロンドン(1985年)、ニューヨーク(1986年)を一気に制覇した、あのロバート・リンゼイだ 。
実は、もっとアクの強い演技を想像していたのだが、これが軽妙。歌も体の切れも「達者!」という感じで見事に観客の心をつかんだ。ジョナサン・プライスを観たことがないので想像の上でも比較できないが 、リンゼイのフェイギンに充分に満足した。

気になったのはビル・サイクス役のスティーヴン・ハートリー。迫力いっぱいで、カーテン・コールでブーイングを浴びるぐらい怖く、それはいいのだが、どうも演技の質が舞台に馴染んでいない気がした。彼が出てくると空気が変わるのだ。それがビル・サイクスという役なのかもしれないが。
それから、子役たちの力がやや弱い、とも思った。

とは言え、完成度の高い安定した舞台であることは間違いない。
ただ、勝手な期待の結果なのだが、「Who Will Buy ?」でのダンスが映画版ほどは劇的に盛り上がらないのは残念だった。>

ロバート・リンゼイは、ブロードウェイ版『Me And My Girl』ではすでに降板していたので、生で観るのはこれが初めてだった。

The Chronicle of Broadway and me #129(Martin Guerre)

199612月@ロンドン(その6)

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『Martin Guerre』(12月19日15:00@Prince Edward Theatre)は『Les Miserables』のスタッフ(キャメロン・マッキントッシュ、アラン・ブーブリル&クロード=ミシェル・シェーンベルク)の当時の新作。
前回アップの『Jolson: The Musical』から続けて読んでいただくとわかりやすいのですが……。その最後に「この製作チームは最終的に志が低い」と書いてあって、それを受けての以下の感想です。

<一方の『Martin Guerre』チームは志が高すぎる(皮肉)。いつも沈鬱な表情をしてミュージカル”大作”を作らなくてもいいのに、と思ってしまう。
それにしても、今回の素材は陰惨だ。

16世紀のフランス。ルターの宗教改革の波が押し寄せ、古くからのカソリックと新しいプロテスタントとの対立が深まっていた、というのが背景。

第1幕。
カソリック教徒の村アルティガ。周辺にプロテスタントが出没して緊迫した空気に包まれている。
地主のピエール・ゲールは、甥のマルタンと、やはり地主のデ・ロル夫人の娘バートランドとを結婚させ、両家の結びつきを強固にすると同時に、カソリックの後継者を生ませようと考えている。若いマルタンはまだ結婚に縛られたくなかったが、周囲の圧力に負け、結局は式を挙げる。それを恨めしげに見守るのはバートランドに思いを寄せるギローム。
が、やはりマルタンは納得できず、自分の人生を見つけるために村を抜けだす。
7年後、フランダースの地でプロテスタントと戦うカソリック軍の中にマルタンの姿があり、戦友のアーノー・ドゥ・ティルに故郷の話を聞かせていた。そこにプロテスタント軍の急襲。虚を突かれたカソリック軍は壊滅し、マルタンもアーノーの目前で死ぬ。
アーノーはマルタンの死を伝えるためにアルティガを訪れるが、そこでマルタンと間違われる。

ストーリーの上では、ここが最大のポイント。
なぜ村の人々は、村の出身者であるマルタンと、よそ者であるアーノーとを見間違えるのか。
いくつか条件があるのだが、最も強い動機は、アルティガの住人はマルタンに戻ってほしかったから、ということだ。彼が戻ってこなければ、村にカソリックの跡継ぎができない。そのために彼らは、敢えて人違いをしたのだ。
そしてアーノーはと言えば、そんな村の空気に呑まれて、マルタンのふりをしてしまう。

村に馴染んでいくアーノーは、様々な心の葛藤を乗り越えて、やがてバートランドと愛し合うようになる。その過程でバートランドは、村の中で密かに信仰を育んでいたプロテスタントのグループの思想に救いを見出す。
見ず知らずの男にバートランドを奪われて面白くないギロームは、バートランドの改宗の話を地主ピエールらに話し、それを背景にアーノーが偽マルタンであることを暴くべく、裁判に訴える。
裁判所に村人たちが勢揃いして、第1幕終わり。

第2幕。
裁判が始まると、バートランドはじめ証人たちがアーノーをマルタンであると認め、アーノー側の勝利に終わるかと見えた。そこに、新たな証人が登場する。死んだはずのマルタン・ゲールだ。アーノーの逆転敗訴。
偽証の罪がバートランドたちに及ぶのを恐れたアーノーは、すべて自分1人で仕組んだことと主張し、囚われの身となる。
アーノーを追放してバートランドを手に入れようと考えていたギロームは、マルタンが現れたからには結局はバートランドを得られないことに気づくと、恐るべき行動に出た。カソリックの村人を焚き付けてプロテスタントを襲わせ、個人的な恨みを晴らすことにしたのだ。
村人同士の陰惨な殺戮が始まるのも知らず、獄中のアーノーに会いに行くバートランド。そこに現れたマルタンは、2人の愛の深さと、アーノーの行動が自分の死を信じてのことだったことを理解し、アーノーを解放する。
手を携えて逃げるアーノーとバートランド。その前に立ち塞がる殺気だったカソリックの住民。
マルタンの導きで2人はなんとか逃れかけるが、そこに襲いかかるギローム。ギロームの矛先がマルタンに向いているのを見て取ったアーノーは、とっさに盾になる。
バートランドの腕の中で息を引き取るアーノー。それを苦悩の表情で見守るマルタン。この悲劇を見て我に返る村人たち。
カソリック住民の謝罪を受けたものの、バートランドはプロテスタント住民と共に村を出ることにする。アーノーとの間にできた子供のためにも。
それを見送るマルタンは、いずれ彼女が村に帰ってくることを心の中で願うのだった。
……村人たちはくたびれた。書いてるあたしもくたびれた。

こんな混み入った話をまとめ上げる手腕は、さすがに『Les Miserables』のスタッフだと感心するが、話自体が格別面白いわけではない。と言うより、非常に後味の悪い話なのが困ったところ。
この宗教がらみの悲恋話、イギリスでの上演にあたっては、アイルランド問題とダブらせようという意図があるのだろうか。

まあ、ストーリーについては譲ってもいい。ただ、ミュージカルとしての見せ場にわざわざ最も不快な状況を持ってくる、その発想がわからない。

第2幕だ。
ギロームがカソリックの連中を煽るシーンで、“殺戮のダンス”とでも名付けたくなる群舞がある。
ナイフを手に、プロテスタントをこうやって殺すんだ、と全員でデモンストレーションをするのだが、驚くことに、ここが見せ場になっているのだ。
なぜ、こんな血なまぐさい集団ヒステリーをショウ場面に仕立ててしまうのだろう。あそこで拍手をしたロンドンの観客は本当にこのダンス・シーンが素晴らしいと思ったのだろうか。

そもそも、その場面を含めたこの作品のダンス、ユニークかもしれないが魅力的ではない。
振付のボブ・エイヴィアンは、ロンドンでも幕を開けた『The Who’s Tommy』のウェイン・シレントを抑えてオリヴィエ賞を獲ってしまったが、足踏みを基調にした群舞は、力強くはあっても多分に観念的で、心ではなく頭に訴えてくる感じ。一見躍動的だが、その実、重苦しい。

素材選びで間違い、見せ場の選択で間違ったとしか思えないこのミュージカルにあっては、よく考えられた木の砦のような装置や巧妙な照明も無用の長物に見えてしまう。

最後の頼みは楽曲だが、感動させずにおくものかという姿勢はこのチームの前2作と同じで、ただ名曲がない(作曲クロード=ミシェル・シェーンベルク、作詞アラン・ブーブリル&エドワード・ハーディ&スティーヴン・クラーク)。2匹目のドジョウ『Miss Saigon』の時も危なかったが、「The American Dream」一発でなんとか持ちこたえた。今回はそれすらなかった。

何も深刻な話ばかりがミュージカルではあるまいに。
3匹目は完全に釣り損ね。オリヴィエ賞作品賞受賞は努力賞ってことでしょう。>

「素材選びで間違い」と書いているが、この素材であっても切り口が違えば面白くなる可能性はある、と今では思う。間違ったのは脚本(アラン・ブーブリル&クロード=ミシェル・シェーンベルク)の方向と演出プラン(デクラン・ドネラン)だろう。
いずれにしても、この作品も『Jolson: The Musical』同様ブロードウェイには来なかった。