The Chronicle of Broadway and me #086

199412月~19951月@ニューヨーク(その3)

『Sunset Boulevard』(1月3日20:00@Minskoff Theatre)は、ロンドン公演で一悶着あり、ロスアンジェルス公演から主演がグレン・クローズに変わって話題になった。当時、『Beauty And The Beast』『The Phantom Of The Opera』と並んでチケットを取りにくいと言われていたようだ。以下、当時の感想。

<パティ・ルポン版は1993年10月27日にロンドンで観たが、アンドリュー・ロイド・ウェバーの音楽に魅力がなく、ルポンの熱唱と豪華な屋敷のセット以外に観るべき所がなかった。ところが、ルポン=ミスキャスト説が流布され、演出も改めたと言うロスアンジェルスでのグレン・クローズ版は絶賛された。
こうなると、クローズ版を観ないことには何も言えない。やがてブロードウェイでの幕が開き、好評だという話が伝わってきた。そんな折、12月15日朝日新聞の夕刊に大平和登氏による次のような評が載った。

「(前略)このミュージカルの話題は二点ある。まず、映画ではグロリア・スワンソンが演じた怪物的大スターを誰が演じるかが注目され(中略)、結局、グレン・クロースがブロードウェー初演を飾った。これは出突っ張りの精力がいる大役だが、クロースは熱演、熱唱して好評(中略)。
もうひとつの話題は、ノーマの邸宅サロンの装置(ジョン・ネピア)で、金ぴかのルネッサンス調のセットは十四億円かけた舞台の豪華さをいかんなく発揮する。この装置が宙づりになり、別の装置が滑り込む二重構造の演出(トレバー・ナン)に観客は息をのむ。
しかし、アンドリュー・ロイド・ウェバーの音楽に楽しみはなく、ダンスナンバーも欠けている。(中略)原作映画にあった笑いもなく、観客はカリスマ性に富む舞台の暗さと重さに押しつぶされんばかりだ。」

これを読んで、自分の観方もあながち的外れではないぞ、と意を強くして臨んだクローズ版。多少演出の変化はあったものの、結局ルポン版と変わらぬ感想を持った。
大平氏が「観客は息をのむ」と書く「サロンの装置が宙づりになり、別の装置が滑り込む二重構造の演出」は、ルポン版を観た時に、芸がなさすぎると感じて気になったシーンだったが、クローズ版でも改善されていなかった。
演出が最も変わっていたのは、最後。元夫、元監督である執事の「アクション!」の声をきっかけに、ニュースカメラを見据えて静々と階段を下りてくる狂気の老女優ノーマ。ルポン版はここで幕だった。が、クローズ版では、幕前までクローズが出てきて彼女の後ろに幕が下りる。つまり、クローズ1人スポットライトを浴びて舞台に残るのだ。観客はスタンディング・オヴェイション。この演出が端的に示すように、クローズ版はクローズのために作られており、クローズがいるからこそ成り立っているという感が強い。

そのクローズだが、文字どおり熱演、熱唱。が、メイクアップも含めて、やや演技過剰、芝居がかりすぎて見える。歌も正直言って感動するところまで行かない。
しかし、そこはロイド・ウェバーの作戦勝ち。ロスアンジェルスで大評判を取っておいて、すぐにはブロードウェイ入りせず、じらした末のオープン。観客は、ロスアンジェルスを熱狂させたグレン・クローズの“伝説”を観にきているのだ。
ヒット作が生まれるというのは劇場街にとってはいいことだし、名作中の名作である映画をミュージカル化しようというロイド・ウェバーの野心も凄いと思うが、やはりこの企画は失敗だと思う。

『Sunset Boulevard』のような題材を舞台ミュージカルとして“そのまま再現”しようとするのは無理がある。映画には映画という表現と歴史の中でこそ生きるハッタリや嘘のつき方があり、『Sunset Boulevard』(邦題:サンセット大通り)はそれを極めたような映画なのだ。
ノーマ役のグロリア・スワンソンが本当にサイレント映画の大スターであったことに始まる、数々の嘘のような本当のような嘘(ノーマが屋敷で観る映画は元夫・元監督役のエリッヒ・フォン・シュトロハイムがかつて実際に監督したスワンソンの映画である/映画監督セシル・B・デ・ミルを演じるのは本人で、ノーマが彼を訪れるシーンのスタジオは当時彼が本当に撮影していた映画のスタジオであり、彼はスワンソンをスターに育てた監督でもあった/ノーマのトランプ仲間を演じるのは過去映画スターだった役者たちである/ノーマが演じてみせるチャップリンの物真似はスワンソン自身過去に映画で演じたことがある/ノーマの屋敷に飾られた写真や絵の一部はスワンソンの私物である/パラマウント映画の中でパラマウントのことが語られるetc.)は、わかる者はもちろん、その事実を知らない者をも圧倒するほどの凄みを生み出していて、それが、この現代の怪談に驚くべきリアリティを与えている。その点だけを取っても『Sunset Boulevard』は映画のための映画なのだ。
ロイド・ウェッバーは映画の骨組みだけを生かして、舞台をブロードウェイに移してミュージカル化すればよかったのだ。うまくすれば、現代版『The Phantom Of The Opera』ができるかもしれないと思うのだが。

余談だが、セシル・B・デ・ミルは、『Oklahoma!』他で知られる振付家アグネス・デ・ミルの叔父(または伯父)らしい。>

The Chronicle of Broadway and me #072

19945月@ニューヨーク(その3

『Carousel』(5月4日14:00@Vivian Beaumont Theatre)は、#58で書いたロンドン版の引っ越し公演。<舞台の印象は、その時とほとんど変わらない。>と当時の感想に書いているので、大筋はそちらをご覧いただきたいが、その時の感想についての若干の訂正と、ブロードウェイ版についての追加感想があるので、以下に挙げておく。<>カッコ内は当時の感想からの引用。

ロンドン版の感想にある冒頭のダンス・シーンの説明で「遊園地の経営者マリン夫人」と書いているが、<マリン夫人は遊園地の経営者ではなく回転木馬のオーナー。>

「June Is Bustin’ Out All Over」のダンス・シーンについて。<ヴィヴィアン・ボーモント劇場の奥行きある広さを生かして、ロンドン版よりダイナミックな印象のダンスを見せてくれた。>

<ビリーの娘ルイーズが、彼女をめぐって争う青年たちと共に踊る終盤の長いバレエ・シーン。(中略)ロンドン版を観た時にはここは心象風景の描写だと思っていたが、かなり写実的なシーンだった。>

<出演者では、ジュリーの親友キャリーを楽天的で愛嬌溢れたキャラクターとして見事に演じたオードラ・アン・マクドナルドが出色。彼女が沈みがちな作品を明るく引き締めた分、ロンドン版を凌いだ。
なお、ビリー役のみロンドンと同じマイケル・ヘイデンだったが、この人の思い入れ過剰な演技は、あまり好きになれない。>

オードラ・アン・マクドナルド。翌年には「アン」が取れて、オードラ・マクドナルドになる。ブロードウェイ・デビューは『The Secret Garden』だが、オリジナル・キャストではなくロングラン途中からの出演だったので、この舞台で初めて観た。この時点で23歳。で、ひと月後に1つ目のトニー賞を獲る。その後、ブロードウェイ出演作は、2本のプレイ以外は全て観てきたが、いつも深い感銘を受ける。幸せな邂逅。
3年後に『Titanic』に登場するブライアン・ダーシー・ジェイムズと出会ったのも、この時。

The Chronicle of Broadway and me #061

199310月@ロンドン(その7

Crazy For You』(10月28日15:00@Prince Edward Theatre)のウェスト・エンド公演は、この年の3月に始まり、3年近く続いている。ここではブロードウェイ版との違いについて、当時の感想から。

<ロンドン版は細かい所でオリジナルと違っている。
全く違うのが、招かれざる客として登場する初老のカップル旅行者がイギリス人からフランス人に変わっていること。本国でイギリス人をからかうことに抵抗があるのか。この辺の感覚はわかったようでわからない。他に、ヒロインの登場の仕方が違うし、最初の公演に失敗した後のミーティングの前に幕前で演じられるヒロインの父と女性ダンサーとのコント的場面も違う。そもそも主人公ボビーの登場の感じも違っていたような気がする。
そうした目に見える違いとは別に一番違いを感じたのが、音楽のテンポ。アレンジは同じなのだが、緩急の付け方が極端。メリハリが付き過ぎているような印象なのだ。
実は、スタッフはブロードウェイ版とほとんど同じ。にも関わらず、ある種の手直しが加えられているという事実を考えると、やはりロンドンとニューヨークでは観客の好みが明らかに違うのだろう。
待てよ。てことは逆もあるわけで、そうなるとロンドン版の『Cats』『The Phantom Of The Opera』もやっぱり観たかったなあ。
ま、何はともあれ、フィナーレでは日生劇場と違い、ブロードウェイ同様に主役カップルの足場が迫り上がったし、まずは満足。>

その他、初のロンドン観劇旅行で驚いたのは、プログラムが2種類あって両方有料なこと。そして、幕間に飲み物やアイスクリームを客席に売りにくること。後者については、残念ながら最近はブロードウェイでもそうした劇場が増えたが、昔は客席で飲み食いすること自体が考えられなかった。
そう言えば、ロンドンの街は今ほどアメリカナイズされてなくて、食事もパブに寄るしかない、みたいな感じだった。実際のところ、どうしてたんだっけな。忘れてしまったが。
いろいろと不思議の多いロンドン体験だった。

The Chronicle of Broadway and me #060

199310月@ロンドン(その6

Lust』(10月27日15:00@Haymarket Theatre)とPickwick』(10月30日19:30@Sadler’s Wells Theatre)は、どちらもイギリスの古典を元にしたミュージカルで、コメディであるところも共通している(元は、前者が17世紀のプレイ、後者は19世紀の小説)。そして、<どちらも楽しんで観た>と当時の感想に書いている。以下、その続き。

Lust』の元になっているのはウィリアム・ウィチャリィ(ワイチャリィという発音が近いようだが慣例に従って)の戯曲「The Country Wife」で、効力を試すために精力剤を服用した男をめぐって繰り広げられる艶笑コメディ。男は、それぞれに恋人のいる三人姉妹の全員と別々に愛を交わすという綱渡り的離れ業を演じていたが、ある老人に嫁いだ田舎出の無邪気な若妻と関係したことから全てが明るみに出てしまい、大騒ぎに。が、精力剤の効力にみんなが気づいて……。という、エイズの時代にあっては反時代的だが、実に大らかで楽しい話。ちなみにlustとは性欲のこと。
曲は、オペレッタ風だなと思って聴いていると、実はロッカバラード的なものもあったりして油断ならないが、いずれもユーモラスでのびのびしていて魅力的。作風から言って『A Slice Of Saturday Night』と同じ楽曲作者(ヘザー・ブラザーズ)のものとはちょっと信じがたい。
セットは、基本的にはロンドンの街頭だが、そこに若干の大道具が加わることで室内になったりもする。例えば、舞台正面の部分の観音開きの扉を二人の召使がもったいぶって開ける(というのが笑える)と天蓋付きのダブルベッドが迫り出してきて寝室になる、という具合。決して大掛かりではないがアイディアのあるこのセットを駆使して、切れ目なく場面が繋がっていく。
そして、各場面では、成熟した役者たちがコミカルな歌と演技を、ここが自分の見せ場とばかりに自信たっぷりに披露してくれる。観た日は主役が代役で、やや貫祿不足だったが、それでも充分堪能した。>

Pickwick』は、チャールズ・ディケンズの最初の長編小説「The Posthumous Papers Of The Pickwick Club(略称Pickwick Papers)」(邦題:ピクウィック・クラブ)のミュージカル化。初演は1963年7月4日で、ロンドンでは694回のロングランを記録したが、1965年のブロードウェイ公演は56回で終わっている。芝邦夫著「ブロードウェイ・ミュージカル事典」には「アメリカの観客には余りにイギリス的過ぎて受け入れられ」なかった、とある。
ちくま文庫「ピクウィック・クラブ」上巻の解説(小松原茂雄)によれば「丸い顔に丸い眼鏡をかけにこやかに微笑したピクウィック氏や、その従者のサム・ウェラーや、ピクウィック・クラブの面々は、当時(19世紀半ば)のイギリス国民すべてのアイドルになってしまった。一冊の小説がこれほどまでに広い範囲の人びとの熱狂的賞賛を博した例は、おそらく世界の文学の歴史を通じてもあまりないだろうと思われる」とのこと。おそらくイギリス人なら、少なくとも年配のイギリス人なら、誰でもが知っていて親しみを覚えているキャラクターなのだろう。この小説、今読んでも面白い。
主人公ピクウィックのキャラクターについて、ドストエフスキーはこう語る。
「キリスト教国の文学のうちで最も完全な善良の型はドン・キホーテです。しかし彼は同時に滑稽であるがために、はじめて善良なのです。ディケンズのピクウィック(ドン・キホーテよりは着想は貧弱ですが、それでも巨大な人物です)もまた滑稽な人物で、このために成功しているのです。」(カー著「ドストエフスキー」中橋一夫・松村達雄訳)
そのように滑稽にして善良なピクウィックが、彼の主宰するクラブのメンバー3人と共に広く社会を見聞するために旅に出る、その珍道中記。と、簡単に言えばそういう内容。小説は日本語版が500ページ近い厚めの文庫で上中下3巻。けっこう行き当たりばったりの話なのだが、ミュージカルはそれをうまくダイジェストしてある。脚本/ウルフ・マンコウィッツ。
この舞台を観た時点では、アメリカの観客同様、ピクウィックには全く馴染みがなかったが、その世界には親しみを感じ、抵抗なく入り込んだ。
音楽は、ややクラシカルな所謂ロック以前のミュージカルのものだが、快活な「Talk」、ロマンティックなバラード「There’s Something About You」、そしてピクウィックが感動的に歌う「If I Ruled The World」他、どれもよい出来。作曲/シリル・オーネイドル、作詞/レズリー・ブリッカス。
アンサンブル中心のダンスも、さりげない振付ながら、暗い色調の舞台に華やかさを添えて、気持ちがいい。
全体に非常にオーソドックスだが、隅々まできちんと作られていて、安心して観ていられた。
出演者たちが登場人物のやや戯画的なキャラクターを実にうまく演じていたことが、後で小説を読むとよくわかった(メイクアップも挿絵にそっくり)。特にピクウィック役のハリー・セクームは完全に成りきっている、と思って資料を読んでいたら、初演の時にも英米で演じた人で、ブロードウェイ公演は失敗したものの、主演男優賞でトニー賞にノミネートされている。張りのある声が実に素晴らしい。>

「If I Ruled The World」は、すでにスタンダード化した名曲。そして、同曲に代表される『Pickwick』の公正さを求める姿勢は、今まさに必要とされるもの。

この年のみならず、ロンドンで観劇して思うのは、こうしたローカルな題材を扱ったミュージカルこそが面白い、ということ。翻って考えると、それは、ニューヨークでも日本でも同じだということに気づく。演劇とは、演じられる土地とのつながりの強い表現なのだと思う。

The Chronicle of Broadway and me #059

199310月@ロンドン(その5

A Slice Of Saturday Night』(10月28日20:00@Strand Theatre)
Buddy』(10月29日17:30@Victoria Palace Theatre)
Hot Stuff』(10月29日20:30@Cambridge Theatre)
オールディーズ趣味と呼ぶべき、この3本についての当時の感想。

A Slice Of Saturday Night』は、日本では尾藤イサオ主演で、昨年6月と今年10月に新宿シアターアプルで翻訳上演されている。ロンドンでは1989年にパブの2階の小さな劇場でオープン、次第に大きな劇場に移りながら2年以上のロングランを続け、その後ツアーに出て、ロンドンに戻ってきたのが今の公演らしい(11月27日までの期間限定)。どうも “ロンドンもの” はこの辺のデータがプログラムではわかりにくい。
舞台は1964年、ロンドンの地下にある小さなゴーゴー・クラブ。昔鳴らしたらしい40~50代のマスターがデニス・ウォーターマン。凄味も利いて、いい味。この店に土曜の夜に集まってくる10代の少年少女が、クラブ専属のバンドの演奏をバックに甘酸っぱいラヴ・アフェアを繰り広げる。
曲は’60年代ポップ・チューン風だが全てオリジナル(作曲・作詞/ヘザー・ブラザーズ)。その内、冒頭の2曲「A Slice Of Saturday Night」「Club A Go-Go」がビートが効いてカッコイイ。ギター+ハーモニカ、キーボード、ベース、ドラムスという編成のバンドも、ただの器用に終わらず、味があってうまい。
が、レストラン・シアターのような小さな劇場ならともかく、一般の劇場の舞台では、歌→暗転→歌→暗転という構成が単純過ぎて退屈してくる。歌や踊りの場面も演出にあまり工夫がなく、全体に散漫な印象。それに、ソニア(全英1位を含むトップ20ヒットを9曲持つ歌手)、ダニィ・マッコールという主演級の2人が何の断わりもなく出演しなかったし、4人いるはずの少年役も3人しかいなかった。どうなっているのか。>

<’50年代の希代のロックンローラー、バディ・ホリーのデビューから突然の死までを描いた『Buddy』は、ブロードウェイでは1990年11月に幕を開けたが、翌1991年6月にニューヨークを訪れてチケットを買いにシューバート劇場まで行った時には、すでに閉幕していた。ロンドンではそれ以前からやっているのだろうから、少なくとも3年以上のロングランということになる(注:調べたところオープンは1989年10月なので、この時ちょうど丸4年)。
ひと言で言えば、これは “バディ・ホリーそっくりショウ”。主眼はバディ・ホリーのライヴの疑似体験で、おまけとして、バディと共に飛行機事故で死んだリッチー・ヴァレンス(セクシー!)とビッグ・ボッパー、そしてアポロ劇場のR&Bシンガーたちの “そっくり” ライヴも観られる(ディオン&ザ・ベルモンツの名前もプログラムにはあるが、演奏はなかった)。その意味では、演奏もしっかりしていて楽しめる。
が、逆に、演奏とドラマとが完全に分かれていて、ドラマの中での歌というミュージカルならではの要素がない。それ自体が即マイナスになるとは限らないが、その分、ドラマの部分がまどろっこしい。しかも、時代順に並んだ短いシーンを暗転で繋いでいくやり方なので、年表を見せられている感じになり、盛り上がりに欠ける。構成・演出にもっとアイディアが欲しいところだ。
もっとも、客席はそんなことを気にする風もなく、大いに盛り上がっていたが。>

<『Buddy』が “そっくりショウ” ならこちらは “カラオケ大会” という印象なのが、The 70’s Musicalと銘打たれた『Hot Stuff』
オープニングがワイルド・チェリーの「Play That Funky Music」、続けてドナ・サマーの「Hot Stuff」と来るので、これはてっきりブラック・ミュージック・ショウか、と思うととんでもない。サイモン&ガーファンクルは出るはダニー・オズモンドは出るはクイーンは出るはアバは出るはセックス・ピストルズは出るはケイト・ブッシュは出るは、ごちゃ混ぜの’70年代ヒット曲集だ。それを出演者たちが、時に陶酔しながら、時にパロディ的に、時に大騒ぎで 歌うので(もちろん全て演技だが)、印象がカラオケ大会なのだ。
長髪にベルボトムのジーンズという典型的’70年代ファッションの青年が、恋人が止めるのも聞かず、面白半分で黒魔術を唱える。願いはロック・スターになってゴージャスな恋人を得ること。案の定、本当に悪魔(メフィストフェレスならぬメイヴィス・ド・フォリーズ)が現れ、願いを叶えてくれる。ところがロック・スターの人生は過酷で、ゴージャスな恋人というのは女装の男優。さあどうなる。というストーリーが、あることはある。
が、『Buddy』同様、ここでも主眼は音楽。ほとんどの曲がオリジナルに近いアレンジなので、イントロが流れる度に客席から歓声が起こる。曲によっては大合唱になる。例えば「We Will Rock You」。だいたいクイーンの楽曲での盛り上がりは凄い。
この作品を支えているのは出演者の個性で、ゴージャスな女ヘレン役のデイヴィッド・デイル、強力な歌唱力と存在感のピーター・ストレイカー、チャーミングな悪魔キャロライン・オコナー、エキセントリックな主人公ガイ・オリヴァー=ワッツらの怪演によって、カルトな雰囲気に包まれる。彼らの力がなければ惨憺たる舞台になったに違いない。>

以上を総括して、次のように結論づけている。

<この他、『The Roy Orbison Story』なるショウの予告 が新聞に出ていたりもして、やはりオールディーズ趣味ものの波がロンドンにはあるようだ。
’50年代、’60年代、’70年代という違いはあるにせよ、こうしたオールディーズ趣味の舞台を観て驚くのは、観客の積極的な “ノリ” だ。舞台の質がどのようなものにせよ、最終的に盛り上がれればいい、というところがロンドンの観客にある。それを受けて、舞台の側も最終的に盛り上がらせればいいと考え、それが構成や演出の甘さになって表れている、ということではないだろうか。それは『Joseph And The Amazing Technicolor Dreamcoat』のロックンロール場面等にも共通していて、その悪い影響は、例えば、日本の音楽座ミュージカル『リトル・プリンス』(1993年9~10月下北沢・本多劇場)の一部にも表れていたりする。
同じ観客巻き込み型でも『Five Guys Named Moe』のように、きちんと芸を見せてくれるものもあるのだが(ブロードウェイ版しか観ていないが)。>

The Chronicle of Broadway and me #058

199310月@ロンドン(その4

初めて観た『Carousel』(10月26日19:30@Shaftesbury Theatre)が、このウェスト・エンド・リヴァイヴァル。2017/2018年シーズンのブロードウェイ・リヴァイヴァル版の感想に、「この内容、不良青年が道を誤るが、死して後、家族愛に目覚める、という改心のドラマと理解できなくもないが、話として面白いか? と、ずっと思っていた。」と書いたが、その印象はこの時に抱いた。以下、当時の感想から。

<冒頭、紡績工場で働く少女たちが退社時間を迎え表に出ていく。近くの海岸には移動遊園地が来ていて、そこへ向かう少女ジュリーとキャリー。賑わう遊園地。若い男たちもいる。回転木馬があり客寄せの蠱惑的な青年ビリーがいる。ジュリーに目をつけるビリー、ビリーに惹かれるジュリー。それを嫉妬の目で見つめる遊園地の経営者マリン夫人。やがて時間が来て遊園地は閉まり、少女たちも帰っていく……。と、ここまで、流れるようなセットの移動による澱みない場面転換をバックに、モダン・バレエ的な力強いダンスによって見事に語られていく。ここは本当に素晴らしいのひと言。先日亡くなったアグネス・デ・ミルによる初演の伝説的な振付の斬新さと格調を受け継いだに違いないと思わせる振付は、ケネス・マクミラン。
躍動的な群舞は他に、ジュリーの従姉ネッティの店に集まった若い男女による陽気なナンバー「June Is Bustin’ Out All Over」や、そんな仲間たちが島にピクニックに出かける「A Real Nice Clambake」でも観ることができる。そして、終盤には全くのバレエによる心象風景の描写があるが、これも、そこにあるべくしてある感じで違和感がない。
音楽は折り紙付きで、先の「June Is ~」や、ジュリーとビリーのデュエット曲「If I Loved You」、そしてスタンダードになっている感動的な「You’ll Never Walk Alone」等、今も色褪せていない。
セットはポップな感覚で抽象化されていて、時代設定の古さ(1873年)にも関わらず、舞台に現代的な空気を吹き込んでいる。
が、ストーリーには難がある。
まず、結婚した後、夫であるビリーの優柔不断さ(好ましいものではないが、こういう男はいる)に愛想を尽かすことなく信じてついていこうとするジュリーの姿は、メロドラマとしても時代錯誤に過ぎる感じがする。
また、ビリーの死後の話--強盗に失敗して死んでしまったビリーは、天国から、自分の死後生まれた娘ルイーズがいじめられているのを見て、地上に下りる。力付けようと天国から持ってきた星をルイーズが受け取らないので、ぶっていまうが、ジュリーはそれがビリーだったと気づく。そして、ルイーズの卒業式。校長の「胸を張って生きよ」の訓示にルイーズも元気に応える--という流れもイマイチ説得力に欠ける(天国だの星だのというものにこちらが馴染まないせいもあるのかもしれないが)。
とは言うものの、歌と踊りが良ければOK。過去の名作を改めて観られたことに感謝したい。
今回の公演は、ロイヤル・ナショナル・シアター(NT)による “クラシック・ミュージカル・リヴァイヴァル・シリーズ” の第1弾で、昨年の12月10日から今年の3月27日までの限定公演としてナショナル・シアターで幕を開けた後、好評を得て、劇場をウエスト・エンドに移して9月10日から来年2月までの再限定公演となった。プロデューサーはキャメロン・マッキントッシュ。来春にはこのプロダクションのブロードウェイでの引っ越し公演も決まっている。
なお、この日の公演には手話の通訳が付いていた。>

後に気づくことだが、同じロンドン産でもナショナル・シアターで作られたミュージカルは明らかに他と感触が違う。
演出/ニコラス・ハイトナー。役者のことを書いていないのは、あまり印象に残らなかったからか。

翌年のブロードウェイ公演を含む、このプロダクションに対する不満を踏まえた上での25年後の再評価は、こちらをお読みいただきたい。ここでの評価もけっして低くはないが、25年後のリヴァイヴァルを観て、『Carousel』という作品に対する評価は自分の中で一変したと言っていい。その変化は、観るこちらの変化なのか、それとも明らかに演出プランの違いによる仕上がりの変化なのか。後者だと考えて25年後の感想を書いたのだが、両方の相乗効果ということはありうる。いずれにしても、2017/2018年シーズンのブロードウェイ版は、個人的には評価が最上位に位置するミュージカルの1つだった。

The Chronicle of Broadway and me #057

199310月@ロンドン(その3

『Joseph And The Amazing Technicolor Dreamcoat』(10月30日14:30@London Palladium Theatre)は、アンドリュー・ロイド・ウェバー(作曲)の初期作品。<おもちゃ箱をひっくり返したような楽しさのソング&ダンス・ミュージカル>と当時の感想に書いている。以下、その続き。

<ヨセフ(英語読みだとジョーゼフ)は、広辞苑によると「ヤコブーの息子。父の特別の愛を受けて兄弟たちにねたまれ、奴隷として売られるが、後にエジプトの高官となり、飢饉のとき父と兄弟たちを引きとった」とある。この説明そのままのヨセフの物語を、ナレーターが子供たちに話してきかせる、というのが、このミュージカルの設定。辛気臭い話だが、ナレーターを狂言回しにすることで寓話性を強め、コミカルな味にしてあるので、全体の調子は明るく軽い。
音楽のスタイルはロック風からカリプソ風まで多彩で、後に顕著になってくる意表を突いたメロディの飛躍はあまりなく、どの曲も、誰でもが歌えそうな親しみやすさを持っている。この作品は初め音楽だけがあり、それを演奏会活動で練り上げていき、レコードになってヒットした後にミュージカル化、という経緯は『Jesus Christ Superstar』とよく似ていて、音楽に関しては初めから確かな手応えをつかんだ上で作られたようだ。中でも第1幕最後の「Go, Go, Go, Joseph」はノリのいいポップ・チューンで、フィナーレでも繰り返され、印象に残る。
そしてダンス。主要キャスト数人を除いた全員が踊れるカンパニーで、ユーモラスに、そしてアクロバティックに、実にはつらつと踊ってみせる。フィナーレで舞台狭しとダンサーが跳ね回る様子は、まるでオリンピックの開会式のアトラクションのよう。
装置はウェバー作品らしいハッタリが随所に現れる。巨大な標本箱に見立てたステージ、わざと安っぽく作った羊やラクダ等の動物たち、派手なファラオの館、主人公の宙乗り(?)。『Sunset Boulevard』の屋敷とは逆に、どれもうまくハマっていた。
出演者も、熱唱するナレーター役のリンズィ・ヘイトリィはじめ、みんな達者。主人公ヨセフ役のジェイソン・ドノヴァンはオーストラリアのポップ・スターだが、イノセントで少しとぼけたキャラクターをうまく演じていた。
と、大筋では充分に楽しめたこの作品にも、不満がないわけではない。>

ティム・ライス(作詞)と組んで学生時代に書いた楽曲を発展させていってミュージカル作品に仕上げたらしい。事実上の処女作と言っていい。1969年にコンセプト・アルバムとして発表され、ティム・ライスとの次作『Jesus Christ Superstar』の好評を受けて、舞台にかけられたようだ。

引用の最後にある”不満”とは、<一つは成熟感あるいは洗練度の不足>、もう一つが<安易なオールディーズ趣味によるコンサート”ノリ”>。
前者については、同じ作者による『Cats』(ブロードウェイ版)と比較して、<見せ場の詰めが甘く”お子様向け” の印象を拭いきれない>と書いている。
後者は、ファラオ役の演じる後期エルヴィス・プレスリーのパロディ的ロックンロール・シーンのことを指していて、その表現のひねりのなさを批判している。同種の趣向は『Jesus Christ Superstar』や『Cats』にもあり、私見では、『Jesus Christ Superstar』自体がエルヴィスのラスヴェガス・ショウに影響を受けていると考える(これについては、同作について書く際に併せて触れるつもり)。

後者の<安易なオールディーズ趣味によるコンサート”ノリ”>は、ロイド・ウェバー作品に限らない、ロンドン・ミュージカルにありがちな特徴なのだということを、この滞在で強く感じることになる。