[My Favorites]『Roxie Hart』(video)

ボブ・フォッシー『Chicago』の発想の元になった映画『Roxie Hart』ウィリアム・ A・ウェルマン監督(20th Century Fox)をヴィデオで観た際に、「ジンジャー・ロジャーズ版『Chicago』」というタイトルで書いた旧ウェブサイトの2003年の記事を再掲。

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『Chicago』の変遷を見ると、まず、 1926年製作の同名のストレート・プレイがあった。その最初の映画化が1927年(28年説あり)のサイレント版で、日本公開タイトルは『市俄古』。 2度目の映画化が、タイトルがヒロインの名前に変わった1942年の『Roxie Hart』(日本未公開らしい)。そして次が、ボブ・フォッシー(演出・振付・共同脚本)による1975年のブロードウェイ・ミュージカル『Chicago』となる。そのリヴァイヴァルが、ウォルター・ボビー演出、アン・ラインキング振付の1996年版。したがって、今回のロブ・マーシャル(監督・振付)版は、ミュージカル版としては初の映画化だが、映画化自体は3度目ということになる。

スタンリー・グリーン「BROADWAY MUSICALS Show By Show」によれば、フォッシーは主演のグウェン・ヴァードンや製作のロバート・フライヤーと共に、’50年代半ばから『Chicago』の舞台ミュージカル化を考えていたが、その権利を得るまでに13年かかったという。
その辺の事情について、前回も頼りにしたケヴィン・ボイド・グラブ著のフォッシーの伝記「RAZZLE DAZZLE The Life and Work of Bob Fosse」(St.Martin’s Press)に、次のような記述がある。

「ヴァードンが『Chicago』をやりたいと思ったのは映画『Roxie Hart』を観て以来で、1942年のジンジャー・ロジャーズ主演のその映画は、『Chicago』と題された1926年の舞台と1927年のサイレント映画を発展させたものだった。しかし、ヴァードンを落胆させたのは、オリジナルの脚本作者モーリン・ダラス・ワトキンズが上演権を売らないと言ったことだ。晩年、ワトキンズは信心深いキリスト教徒になり、『Chicago』が不真面目な生き方を美化していると信じ込んでいたのだ。」

結局、1969年にワトキンズが亡くなって、その遺産相続者から、フライヤーとヴァードンとフォッシーは『Chicago』の権利を譲り受けることができた、ということらしい。
ともあれ、これを読む限りでは、『Chicago』ミュージカル舞台化の直接のきっかけとなったのは、グウェン・ヴァードンが惚れ込んだ、映画『Roxie Hart』のようだ。

実は、『Roxie Hart』の一部を、以前、観たことがある。さる方から見せていただいた古い映画のオムニバス映像の中に入っていたのだが、驚いたことに、それは、ジンジャー・ロジャーズのダンス・シーンだった。『Roxie Hart』はミュージカル映画ではないにもかかわらず、だ。しかも! さらに驚いたことに、その振付が、舞台ミュージカル版『Chicago』のクライマックス・ナンバー、ロキシーとヴェルマが踊る「The Hot Honey Rag」の振付によく似ていたのだ(僕の観た「The Hot Honey Rag」は、もちろん1996年リヴァイヴァル版のものだが、そのプレイビル=プログラムには、このナンバーはフォッシーの振付を生かしたと書いてあった)。
そんなわけで、今回、『Roxie Hart』全編を観るにあたっては、舞台ミュージカル版『Chicago』との関連が気になっていたのだが、観終わってわかったのは、『Roxie Hart』の影響は、舞台ミュージカル版を通り越して、今回のロブ・マーシャルの映画版にかなり及んでいるということだ。
ロキシーがドレスアップして監獄の2階部分に出てくるところとか、弁護士ビリー・フリン(アドルフ・マンジュウ)のハッタリのきかせ方だとか、記者メアリー・サンシャインの印象とか、今回の映画版を思わせるところがかなり多い。まあ、同じ原作の映画化だから、似ていて当然なのかもしれないが、例えば、ロキシーの判決を伝える新聞の扱いなどにはオマージュの趣すら感じる。
もっとも、今回の映画版Chicagoに比べると、『Roxie Hart』はかなりコミカルな映画で、視覚的なギャグも多い。例えば、前述のロジャーズのダンスのところでも、彼女のチャールストンにつられて周囲の人々が踊りだす(というのがそもそも可笑しい)のだが、その様子を1人蚊帳の外でふて腐れて観ていた夫のエイモスの足が思わずチャールストンのステップになってしまい、気がついて止めるというギャグなど、その典型だ。
さらに、『Roxie Hart』には、ヴェルマ・ケリーが出てこないし(似たような女囚が出てきてロキシーと取っ組み合いになるのだが、それは1場面のみ)、全体が新聞記者の回想になっていたり、その流れから来るオチがついていたりするという、オリジナルな脚色(ナナリー・ジョンスン)もある。
そんな風に『Chicago』とは違う部分も多い『Roxie Hart』だが、ジンジャー・ロジャーズ演じるロキシー・ハートの人を食ったキャラクターや裁判シーンのふざけ具合を観ていると、やはり今日の『Chicago』の原点はここにある、という気がする。なによりロキシーが踊るし。
そう、ロキシーが踊るのだ、前述のシーン以外でも。
あまり大げさに言うと誇大表現になるが、もう1つ、短いが見逃せないダンス・シーンがある。それが、ロキシーの階段タップ。無伴奏で階段を上り下りするジンジャー・ロジャーズのタップをカメラ据え置きでじっくり撮ったこのシーンは、ミュージカル・ファンにはたまらない。途中でカット割りのある前述のチャールストンよりも、むしろ、こちらの方が見応えがあるという人もいるかもしれない。
ともあれ、そんなこんなで、『Roxie Hart』、機会があれば観て損のない映画だ。

振付はアステア=ロジャーズ映画でおなじみのハーミズ・パン。音楽担当は名高きアルフレッド・ニューマンだが、テーマ曲的に使われている「Chicago」の作者はフレッド・フィッシャー。「シッカーゴ、シッカーゴ」と歌われる、フランク・シナトラの歌唱などで知られるあの楽曲だ。

ところで、最後に、これは勝手な想像にすぎないのだが、フォッシーは、『Chicago』の舞台ミュージカル化を手がけるにあたって、なにか宿命的なものを感じていたのではないだろうか。
と言うのは、モーリン・ダラス・ワトキンズがオリジナルの脚本を書く際に下敷きにしたのは、1924年にシカゴで実際に起こった事件で、地元ではかなりセンセーショナルな話題を呼んだという。フォッシーが生まれたのは、それから3年後のシカゴ。最初の映画化の年だ。ヴァードンが『Roxie Hart』を観るはるか以前、幼い頃からフォッシーがこの話を知っていたとしてもおかしくない。
ミュージカル『Chicago』の諧謔的な表現の背景には(ってフォッシー版を観たこともないのに言うのはおこがましいのだが、リヴァイヴァル版から想像すると、ということでご勘弁願いたい)、フォッシーのホームタウンに対する愛惜の情があるように思えてならない。>

★from WEBsite Misoppa’s Band Wagon(3/29/2003)

[My Favorites]『Chicago』(film)

ロブ・マーシャル監督による映画版『Chicago』の感想を「ロキシー・ハートはアリー・マクビールか」というタイトルで書いた、旧ウェブサイトの2003年の記事を再掲。編集にあたり「注」を加えた。

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<ロブ・マーシャル監督・振付による映画版『Chicago』を、ミュージカル映画を観るならここ、というジーグフェルド劇場(かつてのジーグフェルド劇場とは別物だが、それ風の小物類が飾ってあり古風な趣がある大型映画館)で観た。
印象をひと言で言うと、“快調”。テンポがよく、あっと言う間に終わってしまう(上映時間は 2時間弱)。と言うのも、ことさらドラマを掘り下げたりせずに、次々にショウ場面を繰り出してくるからだ。映画好きにはどうだかわからないが、ミュージカル好きにとっては、これがなにより。
残念ながら、「傑作!」とまでは行かなかったけれども、けっこう楽しめる1本に仕上がっていた。

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舞台版を愛する者としては、ショウ場面を「誰々による何とかナンバー」というMC(進行役)による紹介付きのヴォードヴィルの出し物に仕立てて進めていく、あの独特のスタイルを、映画で生かすのかどうか、あるいは生かせるのかどうか、に、まず興味があったが、なんと、まんま導入。しかも、セリフもほぼ舞台版通りなので、ショウ場面に入るタイミングも変わらない印象(テンポがいい理由の1つがこれ)。巧みにスタイルを継承している。
が、“スタイルの継承”と言っても、舞台版をそのまま映像に収めたような作品になっているわけではない。あくまで映像ならではの表現でありながら、そこに舞台版のスタイルを持ち込んだ、そこに、この映画の面白さはあり、同時に弱点もある。
冒頭の部分を抜き出して、具体的に説明してみよう。

まず、ロキシー・ハートの目のアップ(注1)から始まる。音楽は舞台と同じ(全編を通して編曲もほとんど同じ)で、ワワ~ワ~というトランペット・ソロから入る。
で、ヴォードヴィル劇場のバンド・リーダーであるピアノ奏者のカウントでテンポが早くなり、自分の部屋を出て劇場に向かうヴェルマの身体(顔以外)の部分アップと劇場の様子とがフラッシュバックで交互に描かれる。ヴェルマが出番ギリギリで劇場に到着。あせっていた舞台監督が「妹はどうした!?」とどなる。「今日はソロよ!」とヴェルマ(参考までに言うと、ここまでのヴェルマの行動は舞台版では描かれていないのだが、ヴェルマが拳銃を手にしていたり楽屋で血の付いた手を洗ったりするので、舞台版を観ている人間には、なるほど、と事情がわかる。後から出てくるナンバー「Cell Block Tango」でタネ明かしされる、夫と妹殺しが行なわれたわけだ)。
ダンサーたちがうろついている舞台上にスポットが当たり、ヴェルマがせり上がってきて「All That Jazz」の歌となる(舞台版のオープニングと同じ。ただし、舞台版と異なり、先行する描写に従って、ヴェルマは「ケリー・シスターズ!」と紹介され、 2つスポットライトが当たり、 1人しか登場しないのでどよめきが起こる)。
そのヴェルマを客席の後ろから羨望のまなざしで観ているロキシー・ハート。と、いきなり、ヴェルマとロキシーが入れ替わり、舞台上で歌うロキシーの姿になる。つまり、それはロキシーの妄想のショウ場面(舞台版にはない描写)。
一緒にいた家具のセールスマン、フレッド・ケイスリーに促されて現実に戻ったロキシーは、彼と一緒に夫のいない部屋に帰り、情事に耽る。事が終わった後、急に冷たくなったフレッドを撃ち殺してしまうロキシー(舞台版でヴェルマが「All That Jazz」を歌っている最中にスケッチとして挿入される部分。演技はリアリズムだが、拳銃を撃つ 3発のタイミングは舞台版と同じ)。
そして……。
ピアノ奏者のナンバー紹介に導かれて、妄想の舞台上のロキシーが歌い始めるのは、ロキシーの身代わりになるつもりで警察の尋問に答えるロキシーの夫エイモスへのラヴ・ソング。舞台で歌うロキシーの姿と、自分の部屋に横たわる死体の脇で弁明するエイモスの姿とが交錯する(舞台版と同じ設定)。

おわかりだろうか。この映画のショウ場面は、上述のヴェルマの「All That Jazz」とフィナーレのロキシーとヴェルマによる「Nowadays」~「The Hot Honey Rag」は(映画の中の)現実として登場するが、それ以外は全て、映画のリアリズムの中で、アリー・マクビール@『アリー my Love』(原題:Ally McBeal)の妄想のように、あくまでヒロインにしか見えない出来事として描かれるのだ(フィナーレも、もしかしたら妄想かも)。ヴォードヴィルのスターに憧れるロキシーならではの妄想、ということで一貫している。
そういう意味では、現実からショウ場面への移行がとてもわかりやすく、万が一『Moulin Rouge!』(邦題:ムーラン・ルージュ)のシュールな飛躍ぶりについていけなかったという人(いるのか?)が観ても大丈夫。ちゃんと理解できるだろう。おまけに、ショウ場面が始まる時にはヴォードヴィル式のMCが教えてくれるし。
逆に言うと、舞台版のヴォードヴィル・スタイルを生かすにあたって、ショウ場面をロキシーの妄想という設定にした、ということも考えられる。MC付きのヴォードヴィル・ショウが何の前提もなしに普通の(つまり特殊撮影などない)ドラマ映画に登場しては不自然だ、という感覚が存在するからだ。
どちらにしても、この2つの要素(ヒロインの妄想という設定とヴォードヴィル・スタイルのショウ場面)がうまくマッチして、映画版『Chicago』は、メリハリとスピード感の両方を獲得した。例えば、この作品と同様にショウ場面が主人公の妄想として登場する、これも過去のシカゴを舞台にしたハーバート・ロス監督の1981年のミュージカル映画『Pennies From Heaven』(邦題:ペニーズ・フロム・ヘブン)などと比べると、全体に“ビート”とでも呼びたいようなリズム感が息づいているのがわかる。
舞台版の面白さを映画的表現の中で生かした、と言っていいだろう。

しかし、と舞台版のファンは一方で思う。これって舞台版を超えてないんじゃないか、と。

その理由の1つは、ヴォードヴィル・スタイルのショウ場面が映画の中に収まりすぎていることにある。
舞台版『Chicago』のヴォードヴィル・スタイルには、(言ってしまうと野暮だが)作品自体の虚構性を強調すると同時に、世界の虚構性を露わにするという意味もあった。すなわち、舞台上で展開される毒々しい物語はウソっぱちのお楽しみにすぎませんが案外現実の世界もウソっぱちに満ちた毒々しいものではありませんか、と観客に問いかける、という。
映画版では、その感覚が薄まっているのだ。
と言うのは、舞台版のヴォードヴィル・スタイルは、ソング&ダンスの部分だけでなく、芝居部分も出し物の一部(スケッチ)として考えられていて、だからこそ上記の虚構性の表現が生まれてくる。ところが、映画版は、ヴォードヴィル・スタイルを、ヒロインの妄想=ショウ場面という整合性のある構造の中に収めてしまったために、そこからはみ出して迫ってくるものがなくなったのだ。
そう言えば、映画版には1か所だけ独自のストーリー展開がある。舞台版では悪辣弁護士ビリー・フリンの詭弁であっさり無罪になるクライマックス間際のロキシーの裁判シーンだが、映画版では、ヴェルマが有罪の証拠となるロキシーの日記を持って裁判所に現れ、一転ロキシーをピンチに陥れるのだ(リチャード・ギア扮するビリーがあせって熱弁をふるう現実と交錯して現れる妄想シーンは、そのビリーのタップ・ダンス)(注2)。
実は、舞台版の虚構性の深さが最も顕著に表れるのがこの裁判シーンであり、ここに独自の展開、それも裁判のいい加減さを強調するエピソードを持ち込まざるをえなかったこと自体が映画版の弱みを示していると思う。
これが、舞台版を超えていない理由の1つ。

もう1つの理由は、やはりショウ場面そのものにある。
楽曲のアレンジはほぼ舞台版通りであるにもかかわらず、舞台版の振付をそのまま生かしているのは、動きの少ない、エイモスのナンバー「Mister Cellophane」のみ。残りは果敢に、ほとんどボブ・フォッシー色のない新しい振付で挑んでいる。そのこと自体は、舞台と映画では表現の仕方が違うのだから、何の問題もない。中でも、「Cell Block Tango」などは、映画ならではの空間の広がりを感じさせつつ、ホントのタンゴ・スタイルを交えた独自のダンスを展開していて面白い。
しかし、『Chicago』『Chicago』。映画がオリジナルの『Moulin Rouge!』とは違う。ここまで舞台版を踏襲しているわけだし、やはり、主役のロキシー(レネー・ゼルウィガー)とヴェルマ(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)が踊れてなんぼだろう。彼女たちのダンスがカット割りや吹き替えでごまかされているのを観ると(注3)、厳しい観方かもしれないが、拍子抜けする。明らかにマリリン・モンローを意識した’50年代ミュージカル映画風の見せ方が楽しい「Roxie」も、ヴェルマが熱演する「I Can’t Do It Alone」も、そしてフィナーレの「Nowadays」~「The Hot Honey Rag」も、彼女たちがホントに踊れたらどんなに素晴らしいだろうと思わざるをえない。
もし、ロキシーやヴェルマのキレのいいダンスが長回しで観られるシーンが1か所でもあったなら、“虚構性”うんぬんには目をつぶって、「傑作!」と言ってもいいんだけどな(リチャード・ギアは意外に健闘しているが、でも、あのタップは吹き替えだろう(注4))。

と、まあ、舞台版を愛するがゆえの注文はあるけれども、まずは一見の価値あり。
思わぬところに所縁(ゆかり)の人が出てくるなんていうお楽しみもあるので、ご覧の際にはお見逃しなく。>

★from WEBsite Misoppa’s Band Wagon(1/12/2003)

(注1)初見時はヴェルマ・ケリーの目だと思っていた。指摘してくださる方が複数いて、確認し直し、当時は追記で修正した。逆に、冒頭から「妄想はロキシーの見た目」という示唆をしていた、ということかと。気づけよ、自分(笑)。

(注2)裁判所にヴェルマが現れるエピソードが挿入された代わりに削られたのが、裁判の様子をラジオの中継で聴きながら歌われるママ・モートンとヴェルマのナンバー「Class」(撮影済みだった)。ヴェルマが裁判所と監獄の両方に存在するわけにいかないからだが、それ以前に、ショウ場面はロキシーの妄想という縛りがあるため、監獄にいるヴェルマたちが歌う姿を、裁判を受けているロキシーが妄想するという状況が設定しにくい、という理由があっての削除ではないだろうか。その代わりにヴェルマを裁判所に登場させた、と。キャサリン・ゼタ・ジョーンズの出番を減らさないためにも。

(注3)(注4)主演クラスのダンスの吹き替えはない、と、これも複数の方からご指摘いただいた。監督のインタヴューでの発言や映画の最後のクレジットにも但し書きがある由。これに関しては、当時、追記で次のように言及している。
<そうした事実を受け入れた上で、強がりではなく再度言えば(笑)、やはり、ロキシー、ヴェルマ、ビリー・フリンのダンスがカット割りでごまかされていることには変わりがない。早い話、引きの長回しでない限り、本人だろうが吹き替えだろうが観客にとっては関係ないわけで、吹き替えでないとしても不満として残るのは同じ。
まあ、そこを、本人を踊らせることにこだわって撮ったマーシャルの気持ちもわからないではないし、結果的には、カメラワークと編集とで映画版ならではのダンス・シーンに仕上げてある。
ただ、ここまで舞台と同じ展開だと、舞台をさんざん観てきた者としては主演クラスのダンスをきちんと観たくなってしまう。つまり、『Cabaret』ぐらい舞台版と映画版が違っていれば別物として観られるけれども、『Sweet Charity』ぐらいだと、やっぱり舞台並のダンスを期待するよね、という話。
でも、繰り返しますが、それは舞台版を愛するがゆえの注文。映画版『Chicago』がつまらないという話ではないので、公開時にはどうかお見逃しなく。>

The Chronicle of Broadway and me #079

19945月@ニューヨーク(その10)

『The Rise And Fall Of Little Voice』(5月2日20:00@Neil Simon Theatre 250 W. 52nd St.)は、ちょっと変わったロンドン産のプレイ。1998年の映画化作品『Little Voice』について日本版ウィキペディアには、「サム・メンデスの演出により初演されたミュージカル」と書かれているが、どう観てもプレイだろう。日本で翻訳上演された際もミュージカルとは謳っていなかったはず(未見だが)。ちなみに、ブロードウェイ版の演出はサイモン・カーティス。以下、当時書いた感想。

<北イングランドのとある町。アル中で経済力がなく男にだらしのない母親と暮らす少女(無口で、話す時も極端に小さな声なのでリトル・ヴォイスと呼ばれる)の心の支えは、亡き父の残した女性ヴォーカルのレコードを聴きながら一緒に歌うこと。母親はそれを嫌っていたが、同棲を始めた母親のやくざな恋人がリトル・ヴォイスの歌声がレコードそっくりなことに気づき、商売になると踏んで無理矢理舞台に出す。が、母親がレコードを窓から投げ捨て、錯乱状態になったリトル・ヴォイスが1人で2階にいる時に、漏電から火事になる。リトル・ヴォイスは、彼女に心を寄せていた電話工事の青年に危機一髪の所で助け出され、その劣悪な家庭からも救出されるだろうことを暗示して物語は終わる。
どこが変わっているか。
実は、リトル・ヴォイスの歌声がレコードそっくり、というのが、芝居の中での虚構ではなく、現実にそうなのだ。そして、歌声が似ていることは、このイギリスの労働者階級の陰惨な(演出は時にユーモラスだが)生活を描いたドラマを成立させるための一要素に過ぎないはずなのだが、ここではドラマとは関係なく、そのそっくりさ加減自体がこの舞台最大の “売り” になっている。と言うより、観た印象で言えば、そこだけが観客にとっての関心事になってしまっている。
これが、このプレイの変わっている点で、そのバランスの悪さが、結局この舞台を短命に終わらせてしまったと思う(4月15日プレヴュー開始、5月1日正式オープン、8日クローズ)。

リトル・ヴォイスを演じるヒンデン・ウォルチの歌真似で最も似ているのはジュディ・ガーランド。彼女の歌声のそっくりさがわかる最初の瞬間に歌っていたのがガーランドの歌で、その時の演出は優れている。
リトル・ヴォイスが聴いているポータブル電蓄のガーランドの歌声に対抗して、母親はダンス音楽をステレオで大音量で鳴らしながら恋人と踊っている。ところが、接触不良か容量オーヴァーが原因で電気の回路がショートして全ての電源が切れ、突然、暗闇と静寂が訪れる。後に残るのは、それまでレコードに合わせて歌っていたリトル・ヴォイスの歌声だけ。それも、ガーランドそっくりな。そして第1幕の幕が降りる。
もう1人似ているのがエディット・ピアフ。他に、ビリー・ホリデイ、マリリン・モンロー、バーブラ・ストライサンド、シャーリー・バッシーなどを真似るが、ガーランド、ピアフほどには似ていない。それでも、これほど声質の違う人たちを1人で真似るというのは、なかなかのものだ。もっとも、なかなか、という程度ではブロードウェイでは成功は得られなかったわけだが。
その他に、だらしのない母親ロンディ・リードや変わった隣人カレン・ヴァッカロ、やくざな男ジョージ・イネスなど、アクの強い役柄を個性豊かに演じる役者たちがそろっていて、陰惨さの中の笑いという難しい演出によく応えているのだが、それを生かし切れなかったというのは、ドラマの面白さとリトル・ヴォイスの歌真似の面白さとの間で脚本(ジム・カートライト)が宙ぶらりんになった、ということだろう。
ヒンデン・ウォルチの歌真似芸をさらに磨き、ドラマと歌真似とをより緊密に結びつける脚本に練り直して、ぜひもう一度姿を見せてほしい。このアイディアをこのまま埋もれさせるのは惜しい。
それから、このプレイには、もっと小さい劇場の方が似合っていると思う。>

The Chronicle of Broadway and me #078

19945月@ニューヨーク(その9)

オフオフのミュージカル、ミュージカル関係のコンサート、バレエをまとめて。<>カッコ内は当時の感想(短縮してあります)。

Hat Off(To Broadway)(5月7日23:00@Off Stage At Mita 266 W. 47th St.)が上演されていたのは、当時あった日本食レストランの地下の小さな劇場。Grand Hotel: The Musicalのツアー・メンバーに名前のあるミュージカル女優、ヴィクトリア・リーガンのワンパーソンショウだった。

<バックに2人の男性ダンサー、バンドはピアノとドラムス、という編成は、舞台のサイズから言って最大限。途中で観客の1人を飛び入りさせて一緒に踊るという演出があるのだが、それが実は3人目の男性ダンサーで、最後に4人で踊る時にはさすがに舞台が狭すぎる気がした。
冒頭の2曲が「That’s Entertainment」「Get Happy」だったことから予想した通り、ショウのスタイルはオーソドックスなもので、リーガンが自分のキャリアを語りながら、その時々のエピソードにまつわる歌と踊りを披露していく、というもの。
面白かったのは、映画『Strictry Ballroom』(邦題:ダンシング・ヒーロー)のパロディが出てきたこと。この映画、やっぱりダンス好きには応えられない魅力があるんだな。
手堅い演出・振付はバイヨーク・リー。『A Chorus Line』のオリジナル・キャストの1人で、昨年日本でも出た「ブロードウェイ物語~『コーラスライン』の舞台裏」(原題:On The Line The Creation Of A Chorus Line」という本の3人の著者の1人でもある。
きちんと作られていて好感を持ったが、こういうショウは、最終的にはスターの魅力(個性と芸)にかかっているので決定的な盛り上がりには欠けた。ただし、大雨で客席がまばらだったのも、この日の舞台の雰囲気に影響していたとは思う。>

『Broadway Classics』(5月8日20:00@Carnegie Hall 57th St. and 7th Ave.)は、ブロードウェイ出演経験のある3人の役者がブロードウェイ・ミュージカルの楽曲を歌うというコンサート。3人とは、クリス・グローネンダール、ティモシィ・ノーレン、ダイアナ・ウォーカー。2部構成で、第1部の最後に『The Phantom Of The Opera』のナンバーを全員で歌うパートがあったが、それは、グローネンダールがブロードウェイ版アンドレのオリジナル・キャストであり、ノーレンがブロードウェイでファントムを演じた最初のアメリカ人だからだと思われる。ちなみに、グローネンダールは『Passion』に出演中だった。

<カーネギー・ホールの舞台に登場するのは3人の歌手と2人のピアニスト。しかも、歌手もピアニストも入れ替わりで登場するので、基本的には歌手1人とピアニスト1人という最小限のチーム。
観客は1階オーケストラ席の前3分の2ぐらいにぱらぱらと入っている程度 (2階席にも若干いたが)。と言うのも、出演者にセンセーショナルな人気者がいるわけでもなく、画期的な企画でもない。おそらく、空いていた劇場のスケジュールを埋めるような形で入ったコンサートじゃないのかなあ。料金も$30と安かったし。
歌のうまさは3人とも抜群。劇場の広さ、客の少なさを物ともせず、朗々と聴かせてくれた。オペラ歌手でもあるらしいウォーカーは歌と歌の間のつなぎが多少硬かったが、グローネンダールとノーレンは語りや振る舞いにも観客を惹きつけるものがある。特にグローネンダールはキャバレーのショウなどもやっているらしく、ギャグも豊富。
凝った演出など全くないが、とても気持ちのいいコンサートで、広い劇場に集まった少ない観客同士ならではの親密感も手伝って、みんな温かい気分で劇場を後にしている様子だった。>

『Swan Lake』(5月7日14:00@Metropolitan Opera House)を観たのは、前年暮れに短命で終わって観られなかった『Red Shoes』の一部がアメリカン・バレエ・シアター(ABT)の公演で観られるというのでリンカーン・センターまで足を運んだのがきっかけ。残念ながらスケジュールが合わず、そちらは諦めて、代わりにチケットを買ったのが、これ。演目もABTも初めてだった。

<いやあ、こんなに面白いものだったとは。さすが、ABTの十八番。
とにかく見せ場の連続で、全く退屈している暇がない。色彩感覚も美しく、特に第1幕に出てくる村の娘たちの祝祭的な華やかな衣装は鮮やか。さらに、続く第2幕がスワンたちの白、第3幕が王女たちと踊り手たちの色とりどりの衣装とブラック・スワンの黒、第4幕が再びスワンたちの白、という流れも見事。
よかった所を言い出すと切りがないのだが、第2幕で、踊っていたスワンたちが舞台右奥から一羽一羽静止していき最終的に客席に向かってやや斜めを向いた美しい4列縦隊を組んだ時には息を飲んだ。天井棧敷から観たので、そうした動きがはっきり見えた。バレエ・ファンはそんな所では感心しないのかもしれないが、まるでラジオシティのロケッツのようだと思ってうれしくなった。
この日の主役はニーナ・アナニアシヴィリ、王子はフリオ・ボッカでした。>

The Chronicle of Broadway and me #077

19945月@ニューヨーク(その8)

『Lady In The Dark』(5月4日19:00@New York City Center)はシティ・センターがこの年から始めた“アンコールズ!”という、近年リヴァイヴァルしていない過去の名作ミュージカルをコンサート形式で上演する期間限定公演シリーズの1作。『Allegro』『Fiorello!』に続いて登場した。
コンサート形式というのは、セットも衣装も最小限で、舞台上のオーケストラをバックに、場合によっては楽譜付き台本を手に持って演じるスタイル。シリーズ初年度ということもあってか、この作品は、ほぼリーディング。そのため、感想にも書いているが、ストーリーがつかみづらかった。リヴァイヴァル版『Chicago』は、こうした形式を逆手にとってシンプルで巧妙な舞台を作り上げたのだが、それは後の話。以下、当時の感想。

<とにかく、クルト・ヴァイル作曲、アイラ・ガーシュウィン作詞の楽曲が、予想を超えて素晴らしかった。初演は1941年だが、今聴いても、どの曲も新鮮。早口で歌われる有名な「Tschaikowsky」等は楽しいし、歌詞とメロディとの調和がとてもうまくいっている印象を受けた。
モス・ハートによるストーリーは、観た時にはよくわかっていなかったのだが、次のようなものであるらしい。

ファッション誌の編集長ライザは不安定な心を癒すため精神分析を受ける。その過程で幼少期に聴いたある歌の一部を思い出し、その歌を口ずさむと彼女は夢を見始める。都合3回の夢の中に、彼女の恋人でもある雑誌の発行人、妻と離婚してライザに求婚している映画スター、友人のカメラマン、という3人の男が登場するが、いずれも彼女が本当に求めている男性ではないことがわかる。分析を通じて気づいた彼女が愛する相手とは部下の宣伝部員で、彼は、彼女の夢のきっかけとなる歌「My Ship」を最後まで歌うことができるのだった。

物語の大半が夢のシーンであり、鍵になる「My Ship」以外の歌は全て夢の中で歌われる。つまり、夢に入るきっかけに歌を持ってきて、現実と夢のシーンの切り換えを鮮やかにわかりやすく行なっている。と同時に、夢の中=ミュージカル的世界と、リアルな現実世界とを区別して表現していることにもなる。巧みな構成だ。
先に書いた狂騒的な早口歌「Tschaikowsky」は初演ではダニー・ケイが歌ってショウ・ストッパーになったそうだが、今回も大受けで、これを歌ったエドワード・ハイバートはその他のシーンでも大いに笑わせてくれた。
ライザ役(初演時はガートルード・ローレンス)のクリスティン・エバーソールは主演女優らしい落ち着きと魅力があり、貫祿充分だった。
このシリーズ、これからも楽しみだ。>

クリスティン・エバーソールにここで出会っていたか、と、感想を書き写しながら思い出した(笑)。
毎年春先に基本3本ずつ上演されるこのシリーズ、好評につき、2013年からは夏にも3本ずつ、“アンコールズ!オフ・センター”と銘打って過去のオフ作品を採り上げるようになった。1本あたり4~5日の上演なので、日本からではタイミングが合わせにくいが、気になる演目があったら飛ぶ価値はある。

ちなみに、来る4月25日と26日に、“アンコールズ!”とは別に、テッド・スパーリングの演出・指揮、ヴィクトリア・クラーク主演によるコンサート形式の『Lady In The Dark』がシティ・センターで上演されるようだ。詳しくはこちら

The Chronicle of Broadway and me #076

19945月@ニューヨーク(その7

『Damn Yankees』(5月8日15:00@Marquis Theatre)の初演の開幕は1955年5月5日(この時代のミュージカルはプレヴュー開始日が必ずしもわかっていないらしく、正式オープン日しかデータとして出てこないことが多い)。リチャード・アドラー&ジェリー・ロスの楽曲作家(共同で作曲・作詞)コンビ以下、その前年開幕のヒット作『The Pajama Game』と、製作(フレデリック・ブリッソン、ロバート・E・グリフィス、ハロルド・プリンス)、脚本・演出(ジョージ・アボット)、振付(ボブ・フォッシー)等の主要スタッフがほぼ同じ(違うのは、前作で共同脚本のリチャード・ビッセルと共同演出のジェローム・ロビンズが不参加で、今作の脚本に原作小説を書いたダグラス・ウォロップが参加、といった辺り)。トニー賞で作品賞を含む7部門を受賞。前作同様のヒットとなった。
という歴史的事実より、当時の感想にも書いているが、個人的な認識としてはボブ・フォッシー振付ミュージカルの代表作の1つってことになる。これが最初にして今のところ唯一のブロードウェイ・リヴァイヴァル。以下、当時書いた「あらすじ」。そして感想。

<初老の男ジョーは万年最下位である野球チーム、ワシントン・セネターズの大ファン。セネターズを優勝させたいジョーは、モダンな悪魔アプルゲイトの誘いに応じて魂を売り、若き天才スラッガーに変身、愛する妻の元を去る。ジョーの活躍でセネターズは優勝候補となるが、アプルゲイトの計画は、最後の最後でセネターズを負けさせ、優勝させないことでセネターズ・ファンの心を踏みにじろうというもの。が、アプルゲイトがジョーを陥れるために呼んだ魔女ローラが、ジョーの真情に触れてジョーを助けたため、セネターズは優勝、ジョーの変身も解けて愛妻の元に帰る。>

<『Damn Yankees』 (邦題:くたばれ!ヤンキース)は、“ボブ・フォッシー(振付)とグエン・ヴァードン(主演=ローラ役)の”という冠付きでインプットされている。
1958年の映画版しか観ていないが(しかもヴィデオで)、フォッシー(出演!)とヴァードンが2人で踊るマンボ「Who’s Got The Pain?」にはシビレた(ドラマ場面はやや間延びしているが、ダンス場面は必見)。

その映画版のダンス・シーンが、どこまでオリジナルの舞台を再現しているのかはわからない。フォッシィの追悼TV番組でヴァードンが、この映画版を撮る時の話として、「(フォッシーは)映画と舞台が違うのはわかっていました。カットやアングルなど映画の専門知識もありましたから」と語っていたことからして、オリジナル舞台版とは違った振付になっている部分は少なからずあるに違いない。
が、少なくとも「Who’s Got The Pain?」に関しては、おそらくオリジナル版にかなり近いはず。というのも、設定が劇場の舞台でのダンスで、しかもアングルがほとんど正面からの引きだから。リヴァイヴァル版のこのナンバーでは、ロブ・マーシャル (『She Loves Me』『Kiss Of The Spider Woman』)の振付は映画版をほぼ踏襲している。フォッシーに最大限の敬意を払ってのことだと思われる。とは言え、映画版では最後まで2人で踊るこのナンバー、舞台では後半に男性ダンサーをどんどん加えてゆき、単なるコピーになってしまうことも避けている。
他のダンス・ナンバーはどうか。
映画版と直に比較できるのは、他には2つ。威勢のいい女性記者グローリアの鼓舞を受けてセネターズの選手たちがグラウンドでアクロバティックに踊る「Shoeless Joe From Hannibal, Mo.」と、ジョーを誘惑するためにロッカールームでローラが踊るセクシャルな「Whatever Lola Wants (Lola Gets)」。映画版と比較する限り、どちらも今回はフォッシー的な要素を排している。つまり、あの“不自然な身体の動きの魅力”がなくなっている。振付はフォッシーじゃないんだから、と思って観ても、何だかあっさりしすぎて物足りない。それでも前者は運動量の多さと迫力でオオッと思わせるが、後者はヴァードンの見せ場だっただけに、どうしても“違う”感じが残った。
映画版にはないダンス・ナンバーは、TVの野球中継に夢中の夫+それを嘆く妻5組がソファを間に踊る「Six Months Out Of Every Year」(映画版では、歌はあるがダンスがない)、セネターズの選手たちのダメプレイ振りをコミカルに見せる「Blooper Ballet」、ローラとアプルゲイトがカンカン帽とステッキで踊るヴォードヴィル的な「Two Lost Souls」(映画とは全く別物になっていた→後述)。
「Six Months~」は開幕直後の小手調べみたいなもので、どうということもないが、パントマイム的な動きでギャグ(切れはイマイチ)を盛り込んだ「Blooper Ballet」はちょっと面白い。ただ、このナンバーは、映画版の「Shoeless Joe~」の導入部の動きを拡大したと言えなくもない。
「Two Lost Souls」のダンスは、例えて言えば、映画『The Band Wagon』のデュオ・ダンス「I Guess I’ll Have To Change My Plan」に似ている。実はこのナンバー、映画版でもオリジナル版でもローラとジョーがアンサンブルと一緒に酒場で踊るというもので、少なくとも映画版では、フォッシー独特の頽廃的ムードを漂わせた振付による大きな見せ場になっていた。それをローラとアプルゲイトのデュオとして全く別の振付で踊らせたのは、ニューヨーク・タイムズによれば、ニューワースとヴィクター・ガーバー(アプルゲイト役)がこのショウのスターだからじゃないか、というのだが、一方で、あまりにフォッシー的イメージの強いダンス・シーンをあえて避けたようにも思える。

その主演の2人については、萩原流行を大きくしたような感じのヴィクター・ガーバーが、悪魔を飄々と演じてよかった。
一方のビビ・ニューワースは、ロンドン版の『Kiss Of The Spider Woman』でチタ・リヴェラの後を受けて蜘蛛女を演じた人で、フォッシー自身によるリヴァイヴァル版『Sweet Charity』で1985/1986年のトニー賞助演女優賞を得ている。この作品でも熱演しているが、マドンナを意識した役作り(誰も言ってないけど、たぶんそう)がうまく噛み合っていないせいか、キャラクターにふくらみがなく、魅力に乏しかった。
脇はがっちり。監督役ディック・ラテッサ(『The Will Rogers Follies』の初代父親)、記者役ヴィッキ・ルイス、ジョーの妻リンダ・スティーヴンス、オールド・ジョー役デニス・ケリー、そして純真なヤング・ジョー役ジャロッド・エミック、みんな柄にはまって好演だった。セネターズの選手たちも型通りだがキャラクターができていた。

『Passion』の翌日に観たダンスの豊富なミュージカル・コメディだったからか、細かく見ていけば不満もいっぱいあるのだが、それでも楽しんで観られた。とはいえ、やっぱりオリジナルを観たいよなあ、と思わせるというのは、リヴァイヴァルとしては成功とは言えまい。
それと、このマーキーズという劇場、観光客専用という感じの薄っぺらい豪華さとよそよそしさがあって、いつも心から楽しめない。この劇場での上演は、それだけで1割方マイナス・イメージになる気がする。>

映画版で観たボブ・フォッシー振付に対する思い入れが強すぎて評価が厳しくなっている面がないではないが、後に『The Full Monty』『Hairspray』で当てるジャック・オブライエンの、脚本手直しを含む演出もあまりうまくいっていなかったと思われる。ビビ・ニューワースの魅力も生かしきれていなかったし。しかし、マドンナを意識した役作りって推理は、ホントのところどうなんだろ(笑)。
「Two Lost Souls」のオリジナルの振付は、2008年のシティ・センター「アンコールズ!」版のこの映像が近いと思われる。ジェイン・クラコウスキーのローラが魅力全開。観たかったな。
ちなみに、「Who’s Got The Pain?」の映画版はこちらで観られる。ただただ素晴らしい。

The Chronicle of Broadway and me #075

19945月@ニューヨーク(その6

『Passion』(5月7日20:00@Plymouth Theatre)はスティーヴン・ソンドハイム(作曲・作詞)の新作。脚本・演出は『Sunday In The Park With George』『Into The Woods』から続いてのジェイムズ・ラパイン。『Into The Woods』は、かろうじて初演に間に合ったが、すでに主要オリジナル・キャストの大半が降りた後だったので、まっさらのソンドハイム作品に触れるのは、これが初めてと言っていい。が、必ずしも芳しくない印象。まあ、ずっと後(2013年3月)にオフのリヴァイヴァルを観て評価が変わるのだが。以下、当時の感想。

『Beauty And The Beast』とは対照的に、決して観光客は動員できないと思われるのが『Passion』だ。
とても気分が悪かった。救いのない、非常に嫌な話。

ストーリーを紹介すると……。

1863年のイタリア。愛しあう人妻クララと若い将校ジョルジオ。愛の喜びに美しい2人は輝いている。ある日、ジョルジオは国境の部隊に転属になる。そこでは将校たちが隊長の屋敷で食事をするのだが、時折2階から不気味な女の叫び声が聴こえる。それは隊長の姪でオールドミスのフォスカ。彼女は病身の上に醜い(という設定)。そのフォスカがジョルジオに恋情を抱く。フォスカの病身を気づかうジョルジオが優柔不断な態度でいるのにつけ込むように、フォスカの執着の度合いは日毎に激しくなっていく。ただ一人事情を知る軍医も、ジョルジオをフォスカから離すまいとする。身を隠すように突然休暇を取ってクララの元に向かうジョルジオの乗った汽車にフォスカが乗り込んできた時の怖さったらない。フォスカを振り切ってクララと再び愛を確かめあったジョルジオは、クララに結婚を迫るが、まだ幼い子供のこともあって無理だと言われる。裏切られたように感じ、失意のまま国境の町に帰るジョルジオ。ところが、以前フォスカがジョルジオに無理矢理書かせたフォスカ宛の恋文を隊長が発見、侮辱だとしてジョルジオに決闘を迫る。その夜ジョルジオは、フォスカの執着こそ純粋な愛だと受け取り、一夜を共にする。翌朝、銃による決闘で隊長を撃ち殺してしまったジョルジオは、ショックを受け倒れるが、フォスカも病状を悪化させて死んでしまう。

1時間50分休憩なし。ジョルジオとクララが交わす手紙(歌)でつなぎながら、天地左右に移動自在な何枚もの壁の如きパネル(これによって演じる空間を狭めたり広げたり分割したりする)と、屋内ならベッド、テーブル、椅子、ピアノなどの家具、それに階段、屋外は数個の岩、といった必要最小限のセットの出し入れとで、流麗に場面は変わっていく。その視覚的な構図の絵画的鮮やかさ、衣装、照明まで含めた抑えた調子の色彩の美しさは見事。
が、気分は悪い。役者たちが見事に演じれば演じるほど、何故こんな酷く不快なドラマを見せられなければならないのか、という思いが募ってくる。
プレイビルによれば、このミュージカルは「Fosca」という小説、さらにその小説の映画化『Passione D’Amore』(邦題:パッション・ダモーレ)を下敷きに作られたらしい。映画は1980年製作のイタリア=フランス合作で、双葉十三郎「ぼくの採点表」によれば、フォスカの容姿をかなり「グロテスクに強調している」らしく、「生理的に愉快でないのも有難くないが、そこにかえって残酷物語としての魅力が生れていることは否定できない」と書かれている。どうも怪奇サスペンスという側面を持った映画なのではないかという気がする。
映画なら、その狙いはわかる。それを何故ミュージカルに?
楽曲に曲毎のタイトルが付けられていないのは、オペラを意識してのことか、あるいは従来のミュージカルとは一線を画することの宣言なのか。とにかく、ドラマへの嫌悪が先に立ったこともあってか、あまり音楽が印象に残らなかった。将校の1人(演じるのはブロードウェイ版『Miss Saigon』の2代目エンジニア、フランシス・ルイヴィヴァー)が、フォスカのピアノ伴奏で余興として歌うオペラの曲の触りが全体の抑えた調子の中で際立ったのは皮肉。
役者は、フォスカ役のドナ・マーフィが、正月に観た『Hello Again』の娼婦役とは打って変わったメイクで鬼気迫る熱演。ジョルジオ役のジェリー・シェイも、繊細な表現をよくこなしていると思う。もっとも、一番印象に残っているのはクララ役マリン・メイズィーの美しいヌードなのだが。

当初4月28日の予定だったグランドオープンが5月9日に延びたので、観た日はまだプレヴューだったのだが、そのオープン翌日のニューヨーク・タイムズに出たデイヴィッド・リチャーズの初日評は好意的だった。
テーマや、音楽、特に歌詞について、過去のソンドハイムの作品と比較しながら細かく分析していて、その辺はわからない部分なので、違った評価につながっても当然だろう。が、よーく読んでみると必ずしも絶賛というわけでもないようにも思える。ズバッと褒めていない。どうも歯切れが悪いのだ。例えば、「新作ミュージカルが悲しむべき状況のシーズンにあっては、『Passion』が最も価値ある作品であるのは論を待たない。が、この作品は、仕上がり以上に、その成熟した野心が賞賛されるべきだ。」という部分など、筆者の揺れる思いが表われている気がするのだが、うがち過ぎか。
ともあれ、ミュージカルの芸術的指導者であることを自ら任じているであろうソンドハイムの、このあまりにも後味の悪い作品を積極的に観にいくのは、好奇心の強いニューヨーカーか、業界人か、よほどのミュージカル好きに限られるだろう。>

恐る恐る観た2013年のオフ版で素直にフォスカに感情移入できたのは、演出や役者の違いか、こちらが歳を重ねたせいか。音楽のよさも今ではわかる。いずれにしても、この初演版を観た時は、途中で劇場を出たくなったが幕間がないので出られない、というのが本音だった。ちなみに、あらすじは、そんな心情に沿って歪めて書いてある可能性もあるので、ご用心(笑)。
結局1年続かずに幕を下ろすのだが、トニー賞では作品賞も含め4部門で受賞。シーズンの総括で言及するつもりだが、ライヴァルがいなかったためだと思われる。
上記の感想中にもあるが、幕開き直後に全裸のマリン・メイズィーが出るので驚いた。彼女と初めて出会ったのは1989年の『Into The Woods』。この後も多くの舞台で観てきたが、昨年9月に卵巣ガンのために亡くなった。残念。