アルジャーノンに花束を@博品館劇場 2020/10/20 14:00

 ダニエル・キースの同名小説(原題:Flowers For Algernon)を原作とするミュージカル。
 作詞・脚本・演出が元宝塚歌劇の荻田浩一。
 調べると、2006年、2014年、2017年と上演されてきていて、キャストの顔ぶれで推測するに、2014年が2006年の再演で(浦井健治、安寿ミラ、宮川浩、森新吾が同じ)、今回は2017年の再演(矢田悠祐、水夏希、戸井勝海、長澤風海が同じ)、というイメージのようだ。出演者はいずれも9人だが、公演によって役柄に多少異同がある。毎回それなりに改訂が加えられている可能性はあるだろう。
 作曲の斉藤恒芳の関わりがネットに上がっているデータではイマイチよくわからないのだが(日本のミュージカル情報は最重要スタッフである作曲家を、もっと丁寧に扱うべき)、初演から、という理解でいいのだろうと思う。

 そのように、すでに実績のある作品。初めて観たが、日本のオリジナル作品としては、丁寧に作られた力作だ。出演者も全体に質が高く、主演の矢田悠祐は難役を見事に演じている。
 ……と感心しながらも、実はイマイチ満足しきれなかった、注文の多い観客(私)の妄想を以下に書いてみたい。

 主人公は、知能の発育が幼い頃に止まったままの青年チャーリー・ゴードン。脳の手術により急激にIQが高まり、驚くべき天才となるも、同じように急激に元の知能に戻っていく、というストーリーは、ごぞんじの方も多いと思う。
 原作小説の特徴は、その一部始終が、主人公チャーリーの独白的記録(科学者への「けえかほおこく」)として書かれていることにある。
 IQが低い時の文章は、内容が稚拙なだけでなく、文法や綴りに誤りがある(それは日本語訳にも巧みに反映されている)。それが次第に洗練されていき、複雑になり、頂点に達した後、何かがこぼれ落ちていくように元に戻っていく。
 そのため、初めの方は読者が少し努力しながら想像力を働かせて読む必要がある。それが結果的に、読者を物語に惹き込むことになる。そして、崩壊していく終盤は、哀切を感じさせることに。

 この舞台版は、原作とは違って、チャーリーが慕うキニアン先生が(一応の)狂言回し的立場で話が進められる。
 小説の方も、訳者あとがきによれば、「はじめはストラウス博士とキニアン先生に経過報告の経緯を説明させる一章が冒頭におかれていた」らしい。その方が多くの読者にとってわかりやすい、と考えてのことだろう。しかし、ダニエル・キースは、それを削って最初からチャーリーに語らせた。「この作品の成功は、まさにこの瞬間にきまったのだと思う」という訳者・小尾美佐の意見に同意する。
 もちろん、小説と舞台とでは表現の方法が違って当然だとは思う。原作者も一旦は考えたように、第三者による語りで物語に導入した方が観客にはわかりやすい、と判断する気持ちもわかる。が、ここは、観客の理解力を信じて挑戦してほしかった。チャーリーの独白という語り口をミュージカルならではの表現で生かす方向で。そうすれば、この題材を選んでミュージカルにした意味が、より深くなったはずだ。

 それは、具体的には、音楽とチャーリーの意識の「複雑度」のシンクロではなかったか。
 「チャーリーのテーマ」と言うべきシンプルなモチーフがあり、チャーリーの歌は、その変奏として、チャーリーの意識の「複雑度」に沿って変化していく。
 周囲のキャラクターの歌は、チャーリーの理解度に応じて聴こえ方が変わっていく。観客はあくまでチャーリーの視点で状況を理解していく。
 むずかしい注文だとは思う。が、でき上がれば画期的に面白いと思うのだが。

 こうしたことを考えた理由は、やはり、どこか、作品全体として説明的な印象を受けたからだ。ことに歌詞の面で。
 初めに書いたように、日本のオリジナル作品としては丁寧に作られた力作。だが、まだまだ挑戦の余地は残されていると思う。

コメントを残す