Witness For The Prosecution@London County Hall(Belvedere Rd./ London) 2019/06/29 14:00

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アガサ・クリスティの『Witness For The Prosecution』(翻訳邦題:検察側の証人)は、1925年に短編小説として発表された後、クリスティ自身によって戯曲化され、ウェスト・エンドで上演されている。ロンドン初演1953年。殺人事件をめぐる裁判劇で、それが半世紀以上を経て、ロンドンの元裁判所で上演されるとは面白い、と思ってチケットを取ったのだが、とんだ勘違い。上演されていたのは、かつて議会が開かれていた建物だった。まあ、それでも充分に面白い趣向だったのだが。

小説は、初出の雑誌掲載時には「Traitor’s Hands」(裏切り者の手)というタイトルだったらしいが、1933年、短編集『The Hound Of Death』(邦題:死の猟犬)に収められる際に現タイトルに改められたようだ。
ミステリー好きはごぞんじだと思うが、小説と戯曲では終わり方が違う。小説もどんでん返しなのだが、戯曲には、さらなるどんでん返しが待っている。小説の最後に不満を覚えたクリスティが、それを解消するために戯曲版を書いた、とも言われている。

舞台化の他に、TVや映画でたびたび映像化されているが、有名なのはマレーネ・ディートリッヒの出たビリー・ワイルダー監督の映画版(邦題『情婦』)だろう。チャールズ・ロートン、タイロン・パワー共演の、紛れもない名作。
今回は、ディートリッヒの演じた検察側の証人=被疑者の妻役がキャロリン・ストルツ、ロートンの演じた弁護士役がサイモン・ダットン、パワーの演じた被疑者役がルウィス・コープ。コープの演じる“アプレゲール”な若者像が目を惹いた。演出はルーシー・ベイリー。
内容については、これ以上は触れられません。

以下、舞台の様子を、開演前の写真を見ていただきながら簡単に説明すると……。

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中央の少し高くなった平面部分が舞台。主に法廷として使われるが、家具を置いて、弁護士のオフィスになったりもする。
正面の高い所が判事席。その手前が書記席。面を除いた周囲は客席だが、裁判場面では、最前列の端、判事席寄りのところに、弁護士(左)と検事(右)が座る。
面白いのが左上の、やや高い2列の席。6人ずつ計12人が座っていることからもわかるように、ここが陪審員席。とはいえ、座っているのは観客。写真はちょうど彼らに裁判所の係員(役者)が役割を説明しているところ。推測だが、その説明は、他の観客には、陪審員としての心得を説いているように聞こえるはず。この後、12人全員がひとりずつ聖書に手を当てて宣誓をし、2幕終盤の評決のところでは代表が評決(もちろん決まったセリフ)を下すことになる。

と、まあ、そういう趣向の舞台で、建物が珍しいことも含め、一興です。

A Midsummer Night’s Dream@Regent’s Park Open Air Theatre(Regent’s Park/London) 2019/06/28 19:45

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ロンドンの夏の風物詩、リージェンツ・パークの野外劇場公演。『A Midsummer Night’s Dream』のミュージカル版をやっていたので、熱い昼間を避けて観に行った。とはいえ、サマータイム。開演の頃はまだ明るく、しだいに暮れていくのが物語の流れとシンクロして、いい雰囲気。

この舞台の魅力のポイントは2つ。
1つは、パペット、衣装、装置に及ぶレイチェル・カニングのデザイン。もう1つが、妖精パックを演じる役者マイラ・マクファーデン。

その内の1つ、デザインについてのレイチェル・カニングへのインタヴューがプログラムに載っているのだが、次の質問と回答が作品の本質を突いていると思う。

Q:装置・衣装のデザイナーとして、まずは何を考えますか?
A:作品によりますね。このプロダクションの場合は、妖精たちのデザイン、衣装から始めましたが、その基礎となるのは妖精世界の理解です。夢の世界、それも必ずしも甘い夢じゃない。

必ずしも甘い夢じゃない世界。そう、この『A Midsummer Night’s Dream』は、どこか不気味。まあ、もともと、人間の頭がロバになったりして不気味な要素のある話なのだが、このヴァージョンは、不気味かつ不穏。
それを端的に表しているのがカニングのデザイン、ということになる。

例えば、妖精たちの印象は「虫」。それも、害虫っぽい。彼らは、ちょうど舞台版『The Lion King』のキリンのような手足に杖/義足的な装備を付けた姿で、背後の草むらをかき分けながら群れて現れるのだが、髪の毛が丈の高い雑草のようにツンツン伸びており、着ているタキシードのような洋服はあちこちが破れている。そして、目の辺りには黒いメイク。普通にイメージする妖精からは、ほど遠い。
そう言えば、パックもタキシード風の衣装を着けている。ということは、妖精を表す服装なのか。ただし、パックは「虫」的ではなく、「人形」的。パックのパンツは七分ぐらいの丈で、履いているワークブーツが露出している。

のパック役のマイラ・マクファーデンだが、メイクの効果もあって、外見や声質からは性別も年齢も不明。「かわいい」と「不気味」の間で揺れている印象。加えて、極端に背が低い(ネットによれば155センチとか)。
そのことを利用したギャグがある。先に「人形」的と書いた、そのイメージの元だが、妖精王(キーラン・ヒル)に呼び寄せられたパックが王の膝の上にちょこんと座り、腹話術の人形を演じるのだ。これが、愛嬌はあるが生気のない表情といい、口パクの感じといい、芸として絶品。
ではあるのだが、それはそれとして、ここで醸し出される空気は明らかに『Side Show』的なもの。舞台に漂うダウナーな雰囲気を増長させる。

肝心の音楽(パディ・カニーン)だが、そもそもミュージカルを名乗るほどにはソング&ダンスがあるわけではなく、エレキ・ベースとヒューマンビートボックスの演奏が主体。ヴォーカルも、歌と言うよりは叫び。効果音楽と言った方が適切か。しかも、全体にけっこうディストーションを利かせてあって、これまた不穏にしてダウナー。

ここで結論めいたことを言うと、この『A Midsummer Night’s Dream』(演出ドミニク・ヒル)には、イギリスの富裕層に対する揶揄とか反発がある気がしてならない。
と言うのも、幕開きからして、パーティが終わって遊び疲れた感じの若者たちの姿があり、それが一様にタキシードっぽい服を着ている。原作通り、彼らは昔の貴族なのだが、それが現代の富裕層と重なるように演出されていたと思うのだ。『Only Fools And Horses』のところでも書いたが、’80年代のサッチャーによる(意図的な)失政により、イギリスでは経済的格差が広がり、それは今も尾を引いている。そんな現実の反映が、この舞台にはあった。
だから、中盤の、パックの振りまく媚薬のせいで巻き起こる、貴族の子弟による“取り違え”恋愛の件は、面白いがアホらしい。むしろ、劇的な肝は、頭がロバになった職人(女性)と、やはり媚薬のせいで彼女に惚れる妖精の女王の、退廃的なやりとりの件だろう。

まあ、全ては原作通り、最後には落ち着くところに落ち着き、秩序を回復するのだが、“真夏の夜の夢”とは、その混乱の一夜だったのか、それとも秩序を回復した現状の方なのか……。寝覚めのよくない夢を見た。そんな表情を登場人物たち全員がしている舞台だった。
でも、それが原作の在り様なのかも。そんな風に思いながら、すっかり寒くなった野外劇場を後にして、速足で地下鉄の駅に向かった夜だった。

ちなみに、パック役マイラ・マクファーデン(実際には、そこそこの年齢の女性だが、プログラムのクレジットを見るまでは、てっきり男性だと思っていた)は、映画版『Mamma Mia!』の正・続に出ているのだとか。どちらも観ているのだが、思い出せない。やばい。

Only Fools And Horses@Theatre Royal Haymarket(Haymarket/London) 2019/06/26 14:30

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ミュージカルとビールは地元のものがいい。ことにロンドン・ミュージカルは。というのが個人的な見解だが、この作品もその1つ。元ネタは1980年代にヒットしたというイギリスのTVドラマで、その脚本家ジョン・サリヴァンの息子ジム・サリヴァン(やはり脚本家)が、俳優で脚本家のポール・ホワイトハウスと組んで楽曲、脚本を書き、ミュージカル版として蘇らせた。

南ロンドンのペッカムに住む、そろそろ中年にさしかかろうかという“デル・ボーイ”・トロッターは、闇商品の売買や怪しげな株取引を生業としている。作品タイトルの「愚か者と馬だけ」は「……が生きるために働く」と続くらしく(19世紀のヴォードヴィルの言い回しだとか)、デル・ボーイの“税金と真っ当な仕事を回避する”生き方を指すようだ。
彼が共に暮らす家族は、年の離れた弟ロドニー・トロッターと、年老いた祖父。夜ごとパブに集う彼ら3人と、その仲間たちの様々なエピソードが描かれるが、メインになるのは、デル・ボーイの結婚詐欺話と裏商売絡みで暗黒街方面の連中に脅される話。
ペッカムは今でこそ(再開発の是非を問うことなく)新しい“おしゃれスポット”とか言われているようだが、1980年代は格差の広がるサッチャー政権下で苦しんでいただろう人々の居住区。ちなみに、サッチャー政権の民営化路線が格差社会を生み出したことを承知の上で、それを踏襲しているのが小泉から安倍に到る自民党政権……って話はおいといて。そんなわけで、コメディではあるが、ほろ苦い。その辺りの人情話的な感触は、例えば『In The Heights』とかに近いかも。
よくできたネタ元があるせいもあるだろうが、登場人物たちもそれぞれ丁寧に描かれていて、面白い。細かいセリフのギャグは早口×コックニー訛りで理解できなさ倍増だが、バー・カウンターの跳ね上げ部分を使ったアクション・ギャグは、伏線もタイミングもお見事で、よくわかった。どうやらTVシリーズからの持ち越しネタのようだ。

楽曲は、ジム・サリヴァンとポール・ホワイトハウスが共同で、あるいは単独で書いたものに加え、チャス&デイヴの故チャス・ホッジズ、スチュアート・モーリーが共作で参加。チャス・ホッジズと、チャス&デイヴの相棒デイヴ・ピーコックが2人で書いた曲も2曲ある。また、ジョン・サリヴァンが書いたTVシリーズのテーマ曲もジム・サリヴァンの補作詞により使われるているし、導入部には、これもTVシリーズで使われていたらしいカール・オルフの大仰な「O Fortuna~Carmina Burana」が流れるなど、多彩。
……が、最もウケるのが、ビル・ウィザーズの「Lovely Day」(ビル・ウィザーズ&スキップ・スカボロー)とシンプリー・レッドの「Holding Back The Years」(ミック・ハックネル&ニール・モス)という’70年代から’80年代のヒット曲、という辺りが弱点か。

デル・ボーイを演じるトム・ベネットはもっぱらTVで活躍している人らしい。祖父役は作者でもあるポール・ホワイトハウスが老けメイクで演じている。ロドニー役ライアン・ハットンはこれがプロ・デビュー。
劇場でのキャリアが豊富なのは、デル・ボーイの結婚話の相手役を演じたダイアン・ピルキントン。1997年にパレス劇場の『Les Miserables』に登場して以降、ウェスト・エンドを中心にコンスタントに出演を続けているようだ。

演出はキャロライン・ジェイ・レインジャー。リズ・アスクロフトの手がけた、二重に回転して場面の変わる装置が効果的だった。

In The Green@Claire Tow Theater/Lincoln Center 2019/07/06 14:00

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ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098年~1179年)という実在の宗教家の半生を描く、多分に哲学的なテーマを孕んでいるミュージカル。

劇場はLCT3と略称される、リンカーン・センター内3つ目にして最小の演劇用劇場。ヴィヴィアン・ボーモント劇場の脇にあるエレヴェーターで上がったところにある。

小さな舞台の中央に直径5メートルぐらいの円筒が立っている。正面に小さな扉があり、母親に連れてこられた少女ヒルデガルトは、ここから中に入れられて30年間を過ごすことになる。
連れてこられた時の少女ヒルデガルトは等身大のパペットで、顔の部分に目も口もない。そのパペットが円筒の中に入り、扉が閉じられ、円筒が半周回転して内側が現れると、ヒルデガルトは、3人の役者が別々に抱えて操る、大きな「目」と「口」と「右手」のパペットに姿を変えている(パペット・デザイン/アマンダ・ヴィラロボス)。
いろいろと尋常でない始まり方。これだけで観客は、神秘的で濃密な世界に誘い込まれる。

この円筒は修道院の象徴のようで、調べると、神聖ローマ帝国ドイツ王国のディジボーデンベルクというところにある男子修道院ザンクト・ディジボードの敷地内に、近くで隠遁生活を送っていた修道女ユッタ・フォン・シュポンハイムが女子修道院を建てた、とある。
その修道女ユッタが、自身が亡くなる日まで30年間ヒルデガルトを育てる。修道院内における2人の日々の「問答」のようなやりとりが、この作品の主な内容。
もっとも、ヒルデガルトは、その30年とユッタについては多くを語っていないらしく、それが作者の興味を惹き、この作品を作る動機になったようだ。

その作者(作曲・作詞・脚本・共同編曲)が、ユッタ役で出演もしているグレイス・マクリーン。
物語の内容は前述のように、なにやら哲学的で、正直よくわからないのだが、音楽は魅力的。印象としては、知ってる中で言うと、Salyu×Salyuとかに近い。ポリリズム的なビートと繊細に絡み合うコーラス。バンドの編成は、キーボード/ベース、チェロ、ドラムス、それにアラブ系の撥弦楽器カーヌーン。
実は、ヒルデガルト自身も楽曲作者として知られているらしく(古代ローマ時代以降最初の女性作曲家だとか)、その作品は後年レコーディングされて今も(主にキリスト教信者にだろうが)広く聴かれているようだ。今回のグレイス・マクリーンの楽曲にも、その影響は感じられる。

宗教、音楽の他に、医学や劇作でも才能を発揮したというヒルデガルト。女性が社会の表に出ることが困難だった時代に活躍した不思議な賢女の物語を、女性たち(5人のキャストのみならず、スタッフも女性が大半)が想像力を駆使して混乱の現代に描き出してみせる。その濃密な空気感が、音楽と共に観客の心に染み入る。そんな舞台だった(演出/リー・サンデイ・エヴァンズ)。

The Chronicle of Broadway and me #203(Saturday Night Fever)

19993月@ロンドン(その5)

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Saturday Night Fever(3月18日19:30@London Palladium Theatre)は、概説で「たぶんブロードウェイ入りは目指していない」と書いたものの、その後ブロードウェイ入りが発表された演目。「客席から熱波」のタイトルで旧サイトに書いた感想。

<「たぶんブロードウェイ入りは目指していない」と書いた予想が大外れ。とにもかくにも大西洋を渡って、ある意味では“帰郷”を果たすことになった『Saturday Night Fever』(映画版邦題:サタデー・ナイト・フィーバー)舞台版。
元はもちろん、すっかり復活したジョン・トラヴォルタの出世作でもある 1977年のアメリカ製映画。若い世代のために念のために申し上げれば、日本に空前のディスコ・ブームと「フィーバー」という言葉をもたらしたのが、この映画だ(正確に言えば、それ以前にも、「フィーバー」という語は楽曲タイトルとして洋楽好きには知られていたが、新聞の見出しにまで使われるようになったのは、映画『Saturday Night Fever』のヒット以降)。
この映画、スタンリー・グリーンの「ハリウッド・ミュージカル映画のすべて」(原題:Hollywood Musicals Year By Year/音楽之友社)で紹介されているが、登場人物が歌わないという点において従来のミュージカル映画とは一線を画する(登場人物が歌わずにバックに流れる楽曲に乗って踊るというスタイルは、後に『Flashdance』『Footloose』等に引き継がれていく)。新たなダンス映画の嚆矢でもあったわけだ。
日本公開は翌1978年で、封切りで観たが、ディスコ・ミュージックというお気軽なイメージとは裏腹に、中身がニューヨークを舞台にしたほろ苦い青春のドラマだったのが意外だった。
さて、『Saturday Night Fever』舞台版。
「たぶんブロードウェイ入りは目指していない」と書いたのは、いかにもロンドンで受けそうな作品だったからで、特徴は“コンサート的なノリ”。観客もまた、それを期待していることが、開演早々にわかる。
往年のヒットソングのオンパレードとも言うべき序曲が流れ始めるだけで客席が湧くのだが(映画版の挿入歌が公開当時、次々にヒットした)、その興奮が、主人公の登場で早くも最初のピークを迎えるのだ。こんな風に。

舞台上には摩天楼を思わせるセット。オーケストラの演奏する序曲に合わせて変化する照明。熱くなった観客は、今にも歌いだしそう。いや何人かは確実に歌っている(笑)。そして序曲はしだいに盛り上がっていき……終わった瞬間、中央の巨大なビルのセットが突然真っ二つに割れる。
そこに立っているのが、赤いシャツの幅広エリを白いスーツの上に出して着ている主人公。もちろんポーズは、人差し指を突き立てた右腕を天に向けて伸ばし、腰を微妙に左にひねった“例の”やつ。
キャーッ!!(客席から湧き起こる悲鳴のような歓声)
それを合図にキャストがワッと舞台に出てきて、いきなり「Stayin’ Alive」の大饗宴になる。そしてナンバーの締めでは、踊りまくった役者たちが、主人公を中央に舞台最前列に横 1列に並び、下手側から上手に向かって、次々に“例の”ポーズをキメていく。
再び、キャーッ!!

表現の深みや芸術性は求めず、そういう娯楽作品なんだと割り切ることができれば、まずは楽しんで観ていられる。それが『Saturday Night Fever』舞台版。
というわけで、この手の“ロンドンもの”に対する免疫のできてきた身としては、多大な期待を抱かずに観て、それなりに楽しんだ。みなさんも、観る時は“お祭気分”でどうぞ。

ストーリーは映画とほとんど同じ。
ブルックリンに両親と妹と一緒に住むイタリア系の青年トニーは、小さな商店に雇われて地道に働いているが、土曜の夜だけはパリッとした服に着替えて、仲間と一緒に地元のディスコ“2001オディッセイ”に出かけていく。そこで、息苦しい家庭や退屈な仕事を忘れて、誰にも負けないダンスをすることだけが彼の生き甲斐なのだ。
ガールフレンドのアネットをパートナーに、次のコンテストも優勝を狙うトニーだったが、ある日、ステファニーというダンスのうまい娘と出会い、強引にパートナーにしてしまう。ところが、ステファニーはマンハッタンに住む上昇志向の強い人間で、ブルックリンで“ジモティ”として生きるトニーとは波長が合わない。
それでも、なんとか壁を乗り越えてコンテストに漕ぎ着けた2人は見事なダンスを披露、ライヴァルのプエルトリカン・カップルを抑えて優勝する。しかし、トニーの目には(観客の目にも)明らかに身びいきの判定に見え、「勝ったのは君たちだ」と、賞金をライヴァルに譲ってしまう。
その夜遅く、ヤケになったトニーは、ステファニーと組んで以来なんとなく疎遠になっていた仲間たちと、いつものようにヴェラザノ橋(ブルックリンとスタッテン島とを結ぶ橋。映画を観た頃はてっきりブルックリン橋だと思っていた)で悪ふざけしていたが、仲間の1人が川に落ちて死ぬのを見て、深い喪失感を味わう。
橋のたもとのベンチで1人打ちひしがれるトニーに、そっと寄り添ってくれたのは、どこからともなく現れたステファニーだった。

見どころは、やはりディスコでのダンス・シーンということになるだろう(下手にバー、上手のやや高いところにDJ ブース、上には中央にミラーボールが組み込まれた天井、というセットが巨大なディスコを現出させるが、金がかかっているに違いないのにチープに見えるのは、あの時代の気分を再現しているからか)。
しかし、この作品のダンスは全体に、キメのポーズはくっきりしているが、それ以外は特筆すべきものではない。言い方を変えると、派手だがアイディアに乏しい(演出・振付/アーリーン・フィリップス)。とは言え、コンテスト場面でのライヴァル・カップル(ダリン・クロスビー、ララ・コスタ)のダンスは、映画同様ダイナミックで迫力があった。

主演のアダム・ガルシアはオーストラリア出身で、経歴を見ると、『Tap Dogs』を作ったタップ・カンパニーの創設メンバーだったらしい。そんなわけで、フェロモンの多さではトラヴォルタにかなわないものの、精悍な魅力があり、ダンスのキレはいい。
もっとも、それ以前にイギリスでは、TVドラマの人気者として知られているらしく、それが登場シーンの叫声につながるわけで、シャツを着替えるシーンで上半身裸になっても歓声が起こるあたりは、まさにアイドルのノリ。しかし、ほとんど出ずっぱりで熱演するガルシアの魅力は大きく、彼が降りた後の舞台がどうなったか、興味のあるところではある。
して、ブロードウェイ公演のトニー役は?

誰が主演するにしろ、この作品、海を渡ってニューヨークの批評家たちを相手にしてしまっては、苦戦を強いられること必至だと思うのだが、さて、吉と出るか凶と出るか。>

文中に出てくる“例の”ポーズがおわかりにならない方は、上の劇場写真の看板に描いてある、タイトルの左右のイラストをご覧ください。

ブロードウェイ版は、この年の秋に登場。気になるトニー役の紹介は、その公演の感想に譲るが、トニーにフラれるアネット役のことは書いておく。それが、Pretty Womanに出ている(もうすぐ「出ていた」になる)オーフェで、彼女はFootlooseや、この年4月に始まって短命に終わるThe Gershwins’ Fascinating Rhythmに次いで、このブロードウェイ版Saturday Night Feverに出演。同作に途中参加したアンディ・カールと出会って、結婚することになる。
その出会いを当人たちが語る映像(「Broadway First Dates」)がこちら

The Chronicle of Broadway and me #201(Animal Crackers)

19993月@ロンドン(その3)

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『Animal Crackers』(3月15日19:45@Lyric Theatre)について、「マルクス兄弟そっくりショウ」のタイトルで書いた旧サイトの感想。

<マルクス兄弟の、3作目(最後)のブロードウェイ舞台(1928年)にして2本目の映画化作品(1930年)『Animal Crackers』(邦題:けだもの組合)のリヴァイヴァル。
舞台でも映画でも前作となる『The Cocoanuts』(邦題:ココナッツ)の楽曲がアーヴィング・バーリンの手になるのは有名だが、こちらはバート・カルマーとハリー・ルビーの共作。脚本は前作同様、ジョージ・S・カウフマンとモリー・リスキンド。
その『The Cocoanuts』の(確か1997/1998年シーズンの)ニューヨークでのリヴァイヴァルを観逃していたので、この公演に出会えたのはうれしかった。

興味は 2つ。
①生でマルクス兄弟(の“そっくりさん”)を観てみたい。
②マルクス兄弟のミュージカル・コメディ舞台版がどんなものだったか、気分だけでも知りたい。

早い話、マルクス兄弟の作品はマルクス兄弟だから面白いわけで、新たな解釈で他の誰かが演じることのできる通常の作品のリヴァイヴァルとは、本質的に異なる。つまり、どこまで行っても“そっくりショウ”ではあるわけだ。
ヴァーチャルなマルクス兄弟体験、という変則的な観劇。
だから、全ては①の部分にかかっている。

ここまで書いて気づいたけど、今回の話、マルクス兄弟を知らない人にはまるでわかんない話ですね。ま、いっか(笑)。このまま進めます。これを機会にヴィデオでご覧になってください。

で、①について結論から言うと、かなり満足させられた。

似ている。特にハーポ。
登場するなり、コートからフォークやナイフをジャラジャラ落とす。それも、まだ出るの? という感じで際限なく。
自分の足を他人に抱えさせる“クセ”も、実に素早く、しつこい。盗みの技も同様。
女の子を追いかけ回す時の、ちょっとキレてる笑顔も、演技とは思えないくらいで、少し怖い。
ハープ演奏の代わりにノコギリ演奏を披露するが、これはご愛敬といった程度。
こちらの言語能力の問題もあって、しゃべらないハーポがいちばんわかりやすいということもあるが、なりきりの度合いが最も高く、凄みがあった。

グルーチョ(グラウチョ)とチコもよく似ているが、時折、役者の素の顔が出ることがあった。
と言うのも、客の反応を見ながら、この 2人はアドリブを繰り出す。そうすると、基本的にしゃべり芸だから、脚本にない部分はどうしても“地”が出るわけ。
しかし、こういう芸の人たちは、過激なぐらいに客をいじる。デイヴィッド・シャイナーとビル・アーウィンの『Fool Moon』を観た時にも思ったが、客も承知しているから、としか言いようのないほどの“乱行”を客席にまで入り込んで、しつこくやる。
そういう芸風には、ロンドンの小振りな劇場は似合っていると言えなくもない。

さて、興味の②だが、こちらに関しては、フロア・ショウのようなすっきりした一杯セットで演じられるので、オリジナル舞台の気分とはずいぶん違うのではないかという気がした。
それでも、アンサンブルの役者たちが何度も見せるスラップスティックな動きには、ヴォードヴィルの香りが漂っていた。ただし、舞台の本質的な性質上、どうしても“再現”というニュアンスがつきまとってはいたが。

最後に、ミュージカルとしてどうだったかと言えば、うーんこんなもんかな、というところ。
結局、マルクス兄弟(しつこいが、の“そっくりさん”)の芸を見せる舞台であって、構造としては、その一部としてミュージカル場面がある。つまり、コメディ>ミュージカル、なので、ミュージカルとして特にどうこうというアイディアがあるわけではない。しかも再現だし。4人組のバンドの音も、ちょっとショボかった。
笑えて楽しいという点では、もちろんOK なのだが。

なお、ホンモノがやったオリジナルの舞台・映画には、もう1人の兄弟ゼッポも登場していて、この舞台にも彼の演じた役はあるのだが、おそらく、そっくりにしても意味がないからだろう、プログラムの“The Brothers”の項には加えられていない。

グルーチョ(グラウチョ)=ベン・キートン、チコ=ジョーゼフ・アレッジ、ハーポ=トビー・セジウィック。>

ハーポ役のトビー・セジウィックは、後に『The 39 Steps』『War Horse』の「movement」演出家として名を馳せることになる。

The Chronicle of Broadway and me #200(Cats)

19993月@ロンドン(その2

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Cats』(3月16日15:00@New London Theatre)のロンドン版について、「解けたヴィデオ版の謎」のタイトルで旧サイトに書いた感想。関連する映像化『Cats』のリポートも上げておきます。新たな映画版の公開を暮れに控え、絶妙のタイミングでのアップかな、と(笑)。

<ようやくわかった。たぶん。
ヴィデオ版『Cats』最大の謎が。

ところで、『Cats』って、みんなどこで体験してるんだろう? 推測では、次の順に多いのではないかと思う。

1) 日本(劇団四季)
2) ブロードウェイ
3) ウェスト・エンド

2番目と3番目の順位はちょっと確信ないが、ま、いいや。知りたいのは、 1) 、 2) 、 3) をどのくらいダブって観ているか、ということ。『Cats』は、『Les Miserables』『The Phantom Of The Opera』ほど追いかけるファンがいない気がするから、案外1か所という人が多いんじゃないのかなあ。
で、違うんですねえ、これが。やっと観ることのできた“本場”ウェスト・エンドの『Cats』ブロードウェイ版とけっこう違う。その違いに、ヴィデオ版『Cats』の謎が隠されていた、というのが今回の本題。
両方観たことのある人には「何を今さら」な話だが、実はブロードウェイ版には、ウェストエンド版しか観たことがない人に「You ain’t seen nothin’ yet!」と言いたくなるほど規模の大きいセットが登場するのだ。

劇場のサイズが違う(ウェスト・エンドの方がやや小さい)。劇場の雰囲気も違う(ウェスト・エンドは体育館ぽい)。ウェスト・エンドはステージ上にも客席があり、開演前にその客席共々ステージが半回転する(これは品川で観た日本版も同じ)。
……など、始まる前からいろいろと違いはあるが、最大の違いはヴィデオ版の問題の箇所、第2幕のGus the Theatre Catの回想シーン。

ヴィデオ版についてのリポートで、こう書いた。

「問題は、Gus the Theatre Cat。
(中略)Gusがメインになるシークエンスに出てくる回想の活劇シーンがなくなっているのに驚いた。
活劇シーン=役者猫 Gus が栄光の日々を思い出して演じる海賊物語。この劇中劇でGusが扮するヒーローの役名がGrowltiger。で、Gusに付き添うようにしているJellylorumが演じるヒロインがGriddlebone。
というわけなのだが、このシーン、第2幕最大の見せ場(時間的にもいちばん長いと思う)であるにもかかわらず、この映像版からは削られている。あの大がかりな船のセットにかかる経費を嫌ったのだろうか。
それでもこの映像版を作ったロイド・ウェバーの真意は何?」

“あの大がかりな船のセット”、あの時点では何気なくそう書いたが、これ、実はウェスト・エンド版しか観てない人には何のことだかわからない事柄だった。ウェスト・エンドの劇場には、あのセットが“ない”のだ。
そこから導き出したヴィデオ版の“活劇シーン”カットの真相。
「ロイド・ウェバーは、ウェスト・エンド版とブロードウェイ版の規模の違いを、できれば知られたくないと思った」
どうだろう、この推理。

問題のシーン、具体的にセットがどう違うかと言うと……。

ウェスト・エンド版=ステージ床に船の形で埋め込まれたライトが灯り、それを船に見立てる。
ブロードウェイ版=手前に傾斜した舞台奥の壁の一部が、タラップ状にステージに向かって大きく開きながら下りてくると、そこがリアルな大型船の甲板のセットになっている。

ウェスト・エンド版しか観てない人、驚きました?
雲泥の差と言っても言いすぎではない気がする、このセットの違い。実際に両方の劇場に足を運んで、ああ違うんだ、と体験する分にはあまり問題ないと思う(実感として)。でも、ヴィデオで観て「自分が劇場で観たのとまるで違う!」となると、ちょっと釈然としないんじゃないだろうか。
ブロードウェイ版規模のセットにするとウェスト・エンド版を観ていた人が釈然としないのはもちろんだが、逆に、ウェスト・エンド版的セットにすると、ブロードウェイ版を観た人が「なんでこんなショボいんだ? 手抜きだ!」という否定的意見を持つことが充分考えられる。でしょ?
そこで悩んだアンドリュー・ロイド・ウェバーは、「うーん……このシーン、カット!」と言った。これが真相(笑)。

個人的には、この手作り感の残る“本場”の『Cats』、嫌いじゃない。“問題の”活劇シーンも、観客が想像力をかき立てる余地があると考えれば、むしろ好ましいとも思える。やはり、ここが出発点だけに、新しい面白い舞台を作ろうとした空気が、今でも漂っているように感じられるのだ。
それに、猫たちのしゃべるイギリス的猫語も、ほの暗い小宇宙にピッタリ来る感じがするし。味があって、いい。

ところで、ヴィデオ版でもう1つ「謎」として採り上げた、登場猫の名前の問題だが、ヴィデオと違って、ブロードウェイ同様ここでも Gus は Asparagus のことで、同一猫だった。しかし、その他の猫の役名の違いは複雑で、ウェスト・エンド版は、ブロードウェイ版ともヴィデオ版とも微妙に違っている。>