The Chronicle of Broadway and me #183(Villa Villa)

19989月~10月@ニューヨーク(その4)

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『Villa Villa』(10月2日20:00@Daryl Roth Theatre)について、「空駆ける奇人たち」のタイトルで旧サイトに書いた感想。

<今年のニューヨークでトニー賞以降のいちばんの話題作と言えば、実はこれ。オフ・ブロードウェイの正体不明のパフォーマンス・ショウ『Villa Villa』(ヴィーシャ・ヴィーシャ)。
開演2時間前から劇場窓口で売り出される限定の20ドルチケットを買おうと並んだが、残念ながら15人ほど前で売り切れ。時間に余裕があるなら、早くから並んでこのチケットを手に入れることをオススメする。なにしろ座席がないんだから。つまり、値段による観劇条件の違いは全くなし。安く買わなきゃ損です。

劇場の建物は、ユニオン・スクエアに面した、元は銀行だったもの。その地下(バー付き)で待つことしばし。時間が来て、案内係の誘導で上がっていくと、空間が開ける。
広さはテニス・コートぐらい。周囲を暗幕で囲ってあり、照明は一角にハロゲンライトのようなものが1つだけ。天井は……。ここがポイント。3メートルぐらいの高さに“天井”があって、材質は“紙”。
さあ、ここから先。どこまで明かしていいものか。
もしかして、すでにいろんなところで情報が漏らされてるのだろうか。

演じているのは、デ・ラ・ガルダというグループで、プログラムによればブエノスアイレスで結成されている。『Villa Villa』は、1995年にフランスでプレヴュー、ブエノスアイレスでオープンした後、ヨーロッパ、カナダとツアーを行ない、今年6月ニューヨークに上陸した。
その内容は……。
ひと言で言えば、フライングのショウ。そこに様々な趣向が施してある。
その趣向を面白いと思うかどうか、やってる方から言えば、面白がらせられるかどうかが勝負。意外に意見の分かれるところかもしれないが、空駆ける前半に関しては文句なく楽しんだ。
問題は、空駆ける奇人たちが一旦地上に降り立ってからの展開。
ここから観客の“参加度”が高くなって、楽しみ方に個人差が出てくる。なるほど、それで待合いフロアにバーがあったわけか、と合点がいく。はっきり言って後半は、ビールでもひっかけて積極的に盛り上がった方が“得”ってことかもしれない。
構成を緻密にすればもっと凄くなるのに、なんて考えながら観てると、ちょっと入り込めなくなる。
それでも、その体技+体力は驚嘆すべきもの。話題になるのもよくわかる。

明かしてもいいのは、このぐらいでしょうか(笑)。
なにはともあれ、自分の目で確かめてください。ちなみに料金は最高でも45ドル。観れば高いとは思わないでしょう。>

“紙”の“天井”の向こう側で何かが起こっている……吸血鬼が飛んでいるような! そんな気配から始まるのがうまい。そのうち、“紙”の“天井”の上に何かがパラパラっと落ち始め、突然、“天井”を突き破って人が落ちてくる。
の後、来日公演もあったし、映像もアップされていたりするので、もう明かしちゃいますが、『Villa Villa』の始まりは、そんな風(記憶が正しければ)。あとは、ロープで吊り下げられた奇人たちが、飛び交い、壁を駆け上り、縦横無尽に動き回る。
音楽は、アフリカ色の濃い詠唱とパーカッシヴな足踏み、だったと思う。
後半は、ぐっしょり濡れた奇人たちが地上に降りてきて、観客に抱きついたりする。確か、空中に連れ去られる客もいたな。

この人たちは、後に、『Fuerzabruta』で再登場する。

なお、このダリル・ロス劇場には、入ってすぐのところに小ぶりなDR2と呼ばれる劇場もあって、通常はそちらが使われている。面白い子供向けミュージカルをやっていることが多いので要チェック。

The Chronicle of Broadway and me #182(Dinah Was)

19989月~10月@ニューヨーク(その3)

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『Dinah Was』(9月29日20:00@Gramercy Theatre)について、「もっと歌ってちょうダイナ」というタイトルで旧サイトに書いた感想。

<ブルーズ/ジャズ・シンガーとして’50年代を中心に活躍したダイナ・ワシントン。彼女を主人公にした伝記的ミュージカル『Dinah Was』は、オフで5月に幕を開けた。
昨年9月に観た『Always…Patsy Cline』の時にも書いたが、この『Dinah Was』も、伝記的とは言っても例えばブロードウェイでは全く当たらなかったロンドン産のバディ・ホリーもの『Buddy』に代表されるような、話は時間軸に沿って流れ、見どころは演奏のソックリ・ショウのみ、というような単純な作りの作品ではない。
しかし、ミュージシャンにスポットを当てたミュージカルの場合、どうしても観客が歌のソックリ度(及び姿の相似度)を意識して観てしまうのも確かで、その点、オリジナル・キャストのイヴェット・フリーマンは非常によく似ていたらしい。
が、9月に入って主役が交替した。
新たなダイナ役は、1996/1997年シーズンに『The Life』でトニー賞を獲ったリリアス・ホワイト。トニー賞受賞以前から迫力たっぷりの歌に定評のあった彼女がとにかく歌いまくるこの舞台、むしろ『Lillias Is』とでも呼びたくなるほどで、ダイナに似てるかどうかについては、まるで気にならなかった。

1959年、ラスヴェガスのサハラ・ホテル。自身のショウのためにやって来たダイナは、宿泊を拒否される。当時のアメリカでは、黒人が白人のホテルに泊まることなど考えられないことだったのだ。
しかし、ダイナは入館を要求してロビーに置いたスーツケースの上に座り込む。そして彼女の回想が始まる……。
厳格な母の下で抑圧されていた少女時代、奔放で屈折した恋愛の数々、歌手としての成功に伴うストレス……そういったシーンが、現在進行形のホテルのシーンに挟まって現れる。
そしてクライマックスは、そのホテルでのショウ場面。

実はこの話、そんなに面白くはない(脚本オリヴァー・ゴールドスティック、演出デイヴィッド・ペトラーカ)。
有名なスターの私生活が必ずしも幸福ではなかったというのは常套と言ってもいいくらいのものだから、それを劇的に見せるには、エピソードの掘り下げや構成の技が必要だろう。
前述した『Always…Patsy Cline』は、 1ファンを狂言回しにする新鮮な構成で、バンドを除けば 2人しか登場しない小規模なミュージカルをうまく成立させていた。
また、大所帯のブロードウェイでは、ジーグフェルド・フォリーズのスターの人生をジーグフェルド・フォリーズのスタイルで見せるという、メタ・ミュージカルとでも言うべき複雑な仕掛けのある構成を持った『The Will Rogers Follies』や、ジャズ・ピアニストの生涯に人種内差別という新たな切り口を持ち込みつつそれをタップ・ダンスで表現するという荒技を駆使した『Jelly’s Last Jam』などが見事な成果を見せていた。
それらに比べると、『Dinah Was』の(1959年の)現実→回想→現実→回想→現実という構成は、スリルに欠ける。また、助演が4人いて、男性3人が2役ずつ、女性1人が4役をこなすというのも、ややせわしなく、チープな印象を残す。
だもんで、せっかくのホワイトも実力を持て余し気味。

いっそ、最初から最後までラスヴェガスのホテルでのショウという設定にしたらどうだったんだろう。で、舞台上に幻想の過去が現れる。歌ってる最中に母親が登場して、そんな堕落した歌は止めろと言ったり、バンドの中に突然昔の恋人が現れてソロをとったり……。
そうすれば、構成としても面白い上に、ホワイトの歌をもっとじっくり味わえる楽しい舞台になったように思えるのだが。

劇中最も盛り上がったのがホワイトが歌う場面でなかったというのも皮肉。
ホテルのメイドに扮した助演シビル・ウォーカーがダイナに呼ばれてステージに上がり、歌ってごらんと言われるシーン。初めはおっかなびっくりで怖ず怖ずと蚊の鳴くような声だったのが、しだいにノッてきて、最後はすごい迫力でシャウトする。
それまで一度も彼女が歌ってなかっただけに、ここはウケた。

レンガ壁が奥に向かって観音開き式に動く装置(マイケル・イヤーガン)は、舞台を、ホテルのロビーからアポロ劇場、レコーディング・スタジオ、TV スタジオ、ラスヴェガスのステージなどに変化させるのに貢献していたが、こうした大がかりな仕掛けなしで同じ舞台をいくつもの場所に見せた『Always…Patsy Cline』の据え置き装置の方が刺激的だと思った。

バンドは、ピアノ、ベース、ドラムス、木管、トランペットの5人。芝居の達者なバンドマンが多いが、ここでもドラマーが、ちょっとしたコミカルな芝居でいい味を発揮していた。

1924年生まれのダイナは1940年前後からプロとして歌い始め、’50年代には“ブルーズの女王”として成功を収めたが、パッツィ・クラインが飛行機事故で亡くなったのと同じ1963年に、クスリとアルコールの過剰接種でこの世を去っている。享年39歳。
39歳で死んだ、というナレーションに観客が、オー! と嘆声を漏らすのを聞いて、時が流れたこともあるだろうが、観に来ているアメリカ人の多くはダイナ・ワシントンのことを詳しく知っているわけではないんだな、と思った。>

後に、イヴェット・フリーマンの演じるオリジナル・キャスト盤を聴いたが、それほど似ているわけではなかった。ま、そもそもワン・アンド・オンリーなダイナ・ワシントンに似せようとすると、モノマネ感が強くなり過ぎてミュージカルとしての質が下がる気がするので、それでいいのだと思う。

また、脇役たちが複数の役をこなすのが「ややせわしなく、チープな印象」と感じたのは、同じような状況でも面白く見せる舞台を観てきた今では、演出の問題なのだとわかる。

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The Chronicle of Broadway and me #181(Swan Lake)

1998910月@ニューヨーク(その2)

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『Swan Lake』(10月3日14:00@Neil Simon Theatre)は、ちょうど新演出版とやらが来日しているマシュー・ボーン(演出・振付)版のニューヨークお目見え公演。「怪しき白鳥たち」のタイトルで旧サイトに書いた感想。

<一昨年暮れに訪れたロンドンで評判が高かったのが、チャイコフスキーの古典バレエ『Swan Lake』の白鳥を男ばかりが演じるというバレエ・パフォーマンス。その時はほとんどソールドアウト状態だと聞いたので観るのはあきらめたのだが、その好評を背負っての約1年半後のニューヨーク期間限定公演、プレヴュー開幕前から期待感が高く、こちらのチケット売れ行きも好調のようだった。
観たのは正式オープン5日前のプレヴュー。とは言え、公演を重ねて練り上げられてきた作品、すでに仕上がっているように見えた。……のだが、実のところ、イマイチ核心をつかみきれず、ちょっととまどった、というのが正直な感想。
観るまでは、単純に『Swan Lake』を男ばかりで演じる舞台なのかと思っていたが(そういう舞台も別にありますが)、違った。
改めて考えてみれば元のストーリーをアレンジしてあるのだが、改変の度合いが大きく、全く別のオリジナル・ストーリーを用意したのかと思うほどだった。

元の『Swan Lake』はこんな話。
21歳の誕生日を迎える王子が狩りに出かける。彼はまだ自由を謳歌したいのだが、狩り場に現れた女王は、慣例に従って彼が妃を迎えなければならないことを思い出させる。
その日、王子は湖で、人間に姿を変えた白鳥と恋に落ちる。実は白鳥は、魔法使いによって変身させられたさる国の王女で、童貞の青年と結ばれれば呪いは解けるという。
翌日の夜会。女王は王子を次々と妃候補に引き合わせるが、白鳥を想う王子は首を縦に振らない。ところが、最後に到着した男爵の娘をひと目見て、王子は心を奪われる。彼女は白鳥にそっくりだったのだ。
しかし、それは男爵に化けた魔法使いの罠で、陰謀に気づいた王子は本当の白鳥の許に駆けつける。が、時すでに遅く、白鳥は命を絶たなければ永遠に白鳥でいるしかなくなる。意を決した王子は白鳥と共に湖に身を投げる。その瞬間、魔法使いも力を失い、消え去る。

とてもわかりやすい。したがって、安心してバレエの妙を楽しむことができる。

今回の『Swan Lake』も王子の話で、王子+白鳥+女王のある種の三角関係という大枠も、元の『Swan Lake』と同じ。
なのだが、これがわかりにくい。もちろん、目の前で起こっていることはわかるのだが、その背景、動機とか因果関係とかが見えない。そんなの気にしないでパフォーマンスを観ていけばいいのだろうけど、ストーリーがあるとどうしても追ってしまうので、なんだか消化不良。核心をつかめない、と言ったのはそういうことだ。

大まかに言うと、こういう話。
時はどうやら現代。
子供の王子が巨大なベッドで眠っている。そこに悪夢のように白鳥が現れる。という導入部があって、場所は再び王子の寝室。今度の王子は成人している。成人はしているが子供っぽい。
この王子が、なぜか母である女王から疎まれている。でもって、この女王が多情な印象。だから、母と息子の間にもなにやら歪んだセックスの匂いがする。
ともあれ、女王と王子はそれぞれエスコートの男性とガールフレンドとを連れてバレエ見物に出かける。このバレエの内容が、白鳥ではなく蝶なのだが、どこか『Swan Lake』を思わせる。しかし、タッチはコミカル。この観劇は王子のガールフレンドの不作法が原因で混乱の内に終わる。
この後、王子はいかがわしいクラブへ出向き、酔っぱらってさんざんな目に遭う。
そして街の公園。ベンチでうなだれる王子の前に白鳥たちが現れ、舞う。
ここまでが第1幕。
第2幕はかなり元の『Swan Lake』に近い。と言うのは、各国の王女たちが集う宮殿でのパーティがメインだからだ。
このパーティに、やはり白鳥にそっくりの“男”が現れ、フェロモンを振りまいて混乱に陥れる。
最後は軟禁されたとおぼしい王子の寝室。ベッドの中(枕の下)から例の白鳥が現れ、ベッドの下から出てきた他の白鳥の攻撃から王子を守り、そして消えていく。

おそらく、第1幕前半は、大人になりきれない王子を描いているのだと思う。そこには、もしかしたら現代の英国王室に対する揶揄やなんかが入っているのかもしれない、とも思う。が、そうなるとよけいわからない。
ただ言えるのは、コミカルさが野暮ったい感じがするということ。だもんで、第1幕は後半の白鳥たちの登場までは、かなり退屈。
が、公園での白鳥たちの踊りには異様な力がみなぎっていて、迫力たっぷり。ただ、それが何を表現しているのかが見えなくて、困った。
第2幕は、前述したようにパーティ場面がほとんどで、元の『Swan Lake』同様、様々な踊りが繰り広げられて観応えがある。ここはストーリーを考えずにダンス・レヴューだと思って観ていられるので、楽しい。

そんなわけで、踊りの場面に関しては面白かったが、作品全体の趣向はと言うと、ねらいがよくわからず、残念ながら楽しみきれなかった。>

どうなんですかね、新演出。観る予定はありませんが。

The Chronicle of Broadway and me #180★(1998/Sep./Oct.)

19989月~10月@ニューヨーク(その1)

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26度目のブロードウェイ(42歳)。

この時は、<予定に入れていた新登場作『Little Me』『Footloose』のプレヴューが、前者は到着した日に、後者はその翌日に延期を発表。ままあることとは言え、まさか2本とも観られないとは。さすがにショックだった。>というわけで、上の写真は『Footloose』準備中のリチャード・ロジャーズ劇場
、<新ネタは、ロンドンからやって来たバレエ・パフォーマンス(?)『Swan Lake』と、オフの『Dinah Was』『Villa Villa』(ヴィーシャ・ヴィーシャ)の 3本>プラス<前回の『Sweet Charity: The Concert』のような一夜限りの特別イヴェント>『My Favorite Broadway』、という案配。
以下、観劇リスト。

9月28日 20:00 My Favorite Broadway@Carnegie Hall 888 7th Ave.
9月29日 20:00 Dinah Was@Gramercy Theatre 127 E. 23rd St/
9月30日 14:00 Bring In ‘Da Noise, Bring In ‘Da Funk@Ambassador Theatre 215 W. 49th St.
9月30日 20:00 Rent@Nederlander Theatre 208 W. 41st St.
10月1日 19:30 Cabaret@Kit Kat Klub 124 W. 43rd St.
10月2日 20:00 Villa Villa@Daryl Roth Theatre 20 Union Square East
10月3日 14:00 Swan Lake@Neil Simon Theatre 250 W. 52nd St.
10月3日 20:00 Chicago@Shubert Theatre 225 W. 44th St.

作品の感想はそれぞれ別項で。

 

The Chronicle of Broadway and me #179(Chicago[6])

19986月@ニューヨーク(その8)

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『Chicago』(6月13日20:00@Shubert Theatre)は6度目。カレン・ジエンバのロキシーを観に(上掲写真右上がジエンバ)。旧サイトに書いた感想です。

前回、絵に描いたようにすれ違ったカレン・ジエンバのロキシーと、代役で観られなかったヒントン・バトルの悪徳弁護士ビリー・フリンが無事顔をそろえた『Chicago』は、主演クラスが、アン・ラインキング降板以来の新たなバランスをようやく獲得して、ロングラン街道をまだまだ突き進みそうな気配。
こうしてみると、やはり問題は、ラインキングの後釜メリル・ヘナーが踊れなかったことにあったのだとわかる。
3代目ロキシーとなったカレン・ジエンバは、踊りの実力は折紙付きだし、同役を演じていたツアー・カンパニーからのブロードウェイ入りだから、それなりのレヴェルでこなすだろうとは思っていたものの、彼女のファンとしては、ラインキングとのキャラクターの違いが実は心配だった。なにしろラインキングの存在感は尋常じゃなかったから。
が、案ずるより産むが易し(って産むのはこちらじゃないが)。ジエンバはジエンバのロキシー像を作り上げて、ヴェルマ役ビビ・ニューワースにひけを取らない魅力を発揮していた。
それに、このジエンバ✕ニューワースのコンビネーション、初演のグウェン・ヴァードン(ロキシー)✕チタ・リヴェラ(ヴェルマ)と印象が近いんじゃないかなあ。最後のデュオ・ダンス・ナンバー2連発、「Nowadays」と「Hot Honey Rag」での調和具合は、ラインキングとニューワースが質的に違っていただけに(それはそれでスリリングだったが)、このコンビがこれまでで一番だと感じた。

生存する男優でただ1人のトニー賞3回受賞者(とプレイビルに書いてある)ヒントン・バトルも、強力だった前任者ジェイムズ・ノートンとは違った魅力で大いに楽しませてくれた。
見せ場も微妙に変わっていて、やはりダンス・シーンの比重が高くなっている。貫禄があるのはノートンと同じだが、体の切れはヒョウ並みで、アンサンブルを従えて動く時も一番シャープに見える。彼がオリジナル・キャストでもトニー(主演男優賞)を獲っただろうと思わせる素晴らしい出来だ。

前回は違和感をぬぐい切れなかったロキシーの夫役アーニー・サベラも、こちらが慣れたせいもあるのだろうが、新たなキャラクターとして溶け込んできた。アンサンブルもずいぶん入れ替わってきているが、おそらく、このぐらいのキャスト水準、舞台のテンションで進んでいけば、しばらく『Chicago』は安泰だろう。>

「しばらく」どころじゃない安泰ぶりはご承知の通り。

The Chronicle of Broadway and me #178(Sweet Charity: The Concert)

19986月@ニューヨーク(その7)

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『Sweet Charity: The Concert』(6月15日20:00@Avery Fisher Hall)について、「初夏の夜の夢」というタイトルで旧サイトに書いた感想。

<エイズのための 2つの基金、American Foundation for AIDS ResearchとBroadway Cares/Equity Fights AIDSの募金を目的とした“チャリティ”のための『Sweet Charity: The Concert』
たった1回だけ行なわれたこの特別公演は、まさに“初夏の夜の夢”。舞台上には“超”を付けても大げさじゃない豪華出演者がズラリとそろって、素晴らしい芸を披露してくれた。
1966年に開幕したオリジナルの『Sweet Charity』は、演出・振付を手がけたボブ・フォッシーが出産休養明けの妻グウェン・ヴァードンのために企画したミュージカルだと言われている。作曲サイ・コールマン、作詞ドロシー・フィールズ、脚本ニール・サイモン。油の乗り切ったスタッフとヴァードンの好演で愛すべき作品に仕上がった(つっても、もちろんその舞台は未見だが)。
アラン・ジェイ・ラーナーの著書「ミュージカル物語」によれば、「一九六五-六年のヒット作はたった三本だけ」で、608回の上演を数えた『Sweet Charity』は3つ目として挙げられている。残る2つは『Man Of La Mancha』と『Mame』で、それぞれ’60年代で3番目と5番目のロングランを記録するメガ・ヒットだった(振付賞のフォッシー以外、トニー賞はこの2作が独占)。

フェデリコ・フェリーニ監督映画『Le Notti Di Cabiria』(邦題:カリビアの夜)の舞台をニューヨークに移し替えたもので、主人公のチャリティは、男の客の相手をして踊るボールルームのダンサー(「Ten Cents A Dance」の世界ですね)。いつか今の暮らしから抜け出そうと思っているが、気のいい彼女は今日も男にだまされ、金だけ盗られてセントラル・パークの池に突き落とされる。ところが、偶然有名映画スターと知り合ったあたりから運勢が上向いてきて、堅気の青年オスカーと恋に落ちる。プロポーズされたチャリティは、ダンサー仲間から祝福されて結婚届けを出しに行くが、彼女の職業を知ったオスカーは最後になって後込みしてしまい、全てはご破算になる。それでもチャリティは気を取り直して、また生きていこうと自分を励ます。

コンサート形式の上演というのは、要するに、装置を簡略化して芝居はセリフのやりとりに留め、歌を中心に進めていく舞台で、同じリンカーン・センターで行なわれたスティーヴン・ソンダイムの『Follies』コンサート版をヴィデオでご覧になった方はイメージがわかるかと思う(シティ・センター“アンコールズ!”シリーズも同様のコンサート形式のリヴァイヴァル)。
ステージにはフル・オーケストラがいて、演技は舞台の前方でのみ行なわれる。

まずは、そのフル・オーケストラを従えて、リスペクトの大きな拍手の中登場した作曲者サイ・コールマンが、ピアノで前奏曲を演奏して舞台は幕を開ける(幕はないが)。

冒頭、前述したようにチャリティは池に突き落とされる形で舞台下に落ちるのだが、再び舞台に這い上がってきた時に、アレッと思う。なんだかひと回り大きくなっている!?
って、早い話、人が入れ替わっているのです。
は、チャリティを演じる女優は、 5人! もいるのであります。

その顔ぶれは、デビー・アレン、ドナ・マケクニー、ビビ・ニューワース、チタ・リヴェラ、そしてグウェン・ヴァードン。全員がチャリティ役経験者。
デビー・アレンが演じたのはトニー賞リヴァイヴァル作品賞を獲った1986年版。ドナ・マケクニーはフォッシー生前最後のプロダクションとなった1987年の国内ツアー版。ビビ・ニューワースが演じたのは地方公演版だが、1986年ブロードウェイ版でダンサー仲間ニッキーを演じてトニー賞獲得。チタ・リヴェラがチャリティを演じたのもツアー版だが、1969年のシャーリー・マクレイン主演の映画版でニッキーを演じているのはご存知の通り。
そんな流れからか、ニューワースとリヴェラは今回ニッキー役も受け持っているが、さらにニューワースはやはりダンサー仲間のヘレンまでも演じるという大車輪(ということはつまり、“あの”「Big Spender」のダンサーの列にビビとチタの両方がいる!)。
とにかくこの個性豊かなスター女優5人が、入れ替わり立ち替わりチャリティとして登場して、歌い踊るわけだが、時には複数のチャリティが同時に舞台上で踊ったりもするという大盤振る舞い。しかも、見せ場の1つである、チャリティ、ヘレン、ニッキーが3人で踊る「There’s Gotta Be Something Better Than This」の場面では結局はチャリティ役3人が踊っているわけで、もう何と言うか、お祭り状態だ。
しかし、そんな中でも、やはりグエン・ヴァードンはスペシャルな存在。もちろん観ている側の思い入れもあるのだが、いくら歳を取ってもやっぱりこの人こそがチャリティだ、というオリジナルの輝きは失われていない。
ヴァードンが登場したのは第1幕も中盤過ぎ。映画スターの部屋で歌う「If My Friends Could See Me Now」のシーン。
もちろん出てくるだけで客席は大騒ぎ。おなじみの歌を歌い終わった時も、拍手拍手拍手なのだが、その歌の後、映画スターの恋人が戻ってきてチャリティはクローゼットに隠れる。ところが、セットがキャスター付きの簡易なものだったため、ちょっと寄りかかる形になった時にズルズル動いて、クローゼットの向きが変わってしまった。よろけるヴァードン。が、潜んでいるのがバレては大変とばかりに、すぐにクローゼットのセットごと元の位置に引き寄せて、何事もなかったようにドア越しに耳を澄ませてみせる。それがまたユーモラスで、劇場は笑いの渦。彼女ならではの一景だった。

チャリティ役同様複数のキャストがいるのがオスカー役。ジム・デイル、ジョン・マクマーティン、ブライアン・ストークス・ミッチェルの3人が登場する。
こちらは、経験者はマクマーティンのみ。初演舞台及び映画版でオスカーを演じている。デイルはおそらく、サイ・コールマン作曲のミュージカル『Barnum』の主演だったことからの起用だろう。ミッチェルは作品を通じての関係は見当たらないが、とりあえず今シーズン最も旬なミュージカル男優(『Ragtime』)の1人であることは間違いない。

残りの主な出演者を挙げてみよう。

ヒントン・バトル。ベティ・バックリー。ドム・デルイーズ。ウーピー・ゴールドバーグ。ロバート・グーレ。チャールズ・ネルソン・ライリー。メリサ・トメイ。6月7日にクローズした『The Life』(’90年代の『Sweet Charity』?)から、チャック・クーパー、パメラ・アイザックス、リリアス・ホワイト。
アンサンブルには、その『The Life』を中心に、『Chicago』『Ragtime』など進行中の舞台からも多数が参加。コッチ、ディンキンズという2人の元市長が顔を出すのはご愛敬としても、ヴァードンやマクマーティン同様オリジナル・キャストだったという人もいたりして、なんだかすごい。おまけに、ブロードウェイ・ゴスペル・クワイアという大人数のコーラス隊も登場する。

怪しげな教祖として大コーラスをバックに「Rhythm of Life」で快演を見せるバトルや、渋いスター俳優に扮して「Too Many Tomorrows」を甘く歌うグーレ、『The Life』での役柄そのままに「Baby Dream Your Dream」をデュエットするアイザックスとホワイトのコンビも印象に残ったが、なんだかんだでこれまで出会えなかったベティ・バックリーにいちばん感銘を受けた。
彼女、ソロではなく、「I Love to Cry at Wedding」で、デルイーズにハーモニーを付けるような形で歌うだけなのだが、その生声(PA通してますが)の魅力たるや、さすが、のひと言。大したもんです。
場面としては、前述した「Big Spender」、そして、フォッシーの振付の技が最も発揮される無言のダンス・シーン「Rich Man’s Frug」がやはり見もの。前者は『The Life』のキャストを中心にしたダンサー陣が大人数でズラリと並び、デリケートさにはやや欠けるきらいはあったもののコッテリした迫力があって、客席からは感嘆の笑いを含んだ叫声が起こるほどだった。逆に後者は、緻密な振りを長時間にわたって繰り広げるナンバーで、神経症的な集団の動きが、今の目で観ても刺激的。

それにしても、これだけの大人数をきちんと捌いていく演出は見事(ジョン・ボワブ)。振付の再現(キャスリン・ドビー)と合わせて、拍手を送りたい。まとめ上げるに際しては、ヴァードンの尽力もずいぶんあったようだが。

しかし、幸福な気持ちで劇場を去りながら思うのは、1回きりのチャリティのためにこれだけのキャストとスタッフが集まり、お祭り気分とはいえ質的にも充実した舞台を作り上げるアメリカのミュージカル界ってなんて素晴らしいんだろう、ということだ。ここには、ミュージカルに対する愛情と誇りと志と実力が全てある。うらやましい。>

The Chronicle of Broadway and me #177(Hedwig And The Angry Inch)

19986月@ニューヨーク(その6)

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『Hedwig And The Angry Inch』(6月14日19:00@Jane Street Theatre)について、「ロック・ライヴ+1人芝居」のタイトルで旧サイトに書いた感想。

<チェルシー地区の南側、ハドソン川にほど近いところにある小さなホテル、リヴァーヴュー。タイタニックの生き残りの船員を収容したとか、作家のメルヴィルがフロントで働いていたとかっていう逸話があるという(後者は噂の域を出ないようだが)。
そこのボールルームを改造した劇場で上演されているのが、『Hedwig And The Angry Inch』。アウター・クリティクス・サークル賞で最優秀オフ・ブロードウェイ・ミュージカルに選ばれたこともあって、6月の段階で、なかなかチケットが手に入らないほどの人気を得ていた。そんな貴重な観劇なのに、12時『The Wind In The Willows』、15時『High Society』と続いた日曜日変則 3連チャンのラストの19時公演。さすがに疲れが出て、途中何度かウトウトしてしまった。もったいない。

それと言うのも、心地よいロックのビート+歌→しゃべり→ビート+歌→しゃべりの繰り返しという構成が、否応なく眠気を誘うのですよ。言ってみれば、歌付きの1人芝居なわけで、集中してセリフを聴く状態じゃない異国の人間にとっては、なかなか厳しい状況なのであります。

カンザスのトレイラー・パーク(トレイラー・ハウスの駐車地)に住むヘドウィグは、旧東ドイツからやって来た性転換者。だからドラァグ・クイーン(女装愛好者)と言うのは正確には当たらないが、まあでも、見た目はドラァグ・クイーン。実は、性転換手術に失敗している。
そのヘドウィグが、4人組のバンド“アングリー・インチ”を従えて繰り広げるライヴの中で、自分の過去と心情を語っていく。
“アングリー・インチ”ことチーター(実在のバンド)の演奏する楽曲が魅力的。作曲・作詞は、バンドのメンバー、スティーヴン・トラスク。
トラスクと、脚本を書きヘドウィグを演じるジョン・キャメロン・ミッチェルとの出会いから、この作品は生まれたらしい。
ミッチェルは『The Secret Garden』(1991)に出ていた時の清廉な印象が鮮やかだっただけに、今回の変貌ぶりには驚いた。もっとも、繊細さを感じさせる点は共通していて、ヘドウィグの漂わせる濃密な孤独感は、彼自身が内包しているものなのかもしれないと思った。
舞台には、もう1人、ヒゲをはやした強面のヴォーカリストが登場するが、そのハイトーンが非常に素晴らしい。また、注意していれば途中でわかるかと思うが、最後にちょっとしたドンデン返しがある。>

ウトウトしていただけあって、断片的にしかわかっていない感想(苦笑)。
もっとも、映画版のように場面が変わるわけでもないし、ブロードウェイ版のように装置に凝っているわけでもないんで、眠気がなくても、どこまで理解できたか……。
その後、映画版も日本公開され、日本での翻訳上演も繰り返されているようだから、内容はすでにご承知かと思うが、一応、ざっくりとだが説明しておく。

ヘドウィグの半生を時間軸に沿って整理すると、幼少期→青年期(性転換/結婚/破局)→熱愛期(恋愛/破局)→現在(復讐)の4期に分かれる。
幼少期。ベルリンの壁のできた日の東ベルリンで、アメリカ人の父とドイツ人の母の下、ヘドウィグ(当時はヘンゼル)誕生。幼い頃、父から性的虐待を受ける。父が去る。英米の音楽に没頭する。
青年期。駐留軍のアメリカ兵ルーサーに求婚される。結婚してアメリカに渡る(東ベルリンを出る)ために性転換手術を受けるが失敗。股間にアングリー・インチ(怒れる1インチ)が残るが、母の名前(ヘドウィグ)とパスポートをもらって渡米。カンザスのトレイラー・パークに住む。結婚1年目にルーサーが去る。その日、ベルリンの壁が崩壊。
熱愛期。ささやかなバンド活動の傍ら、ベビーシッター先で知り合った青年トミーと恋に落ちる。トミーに音楽を教え込み、次々に曲を作る。が、愛し合おうとした時にアングリー・インチに気づいたトミーは去る。そして、トミー・グノシスを名乗り、ヘドウィグの、あるいはヘドウィグと書いた楽曲を独占してスターになる。
現在。楽曲に対する権利を主張する訴えを起こし、アングリー・インチというバンドを組んで、トミーにつきまとうように、彼の公演先にある小さな店でライヴを行なっている。

こうしたあれこれが、現在の地点のライヴ会場でのMCで断片的にわかっていく。

当時の感想に書いていないが、よく覚えているのは、ヘドウィグが時折、舞台袖にある鉄の扉を開けて悪態をついていたこと。その向こうの大会場でトミー・グノシスが公演をやっているという設定で、扉を開くと演奏だか歓声だかが光と共に聞こえてきたと思う。
ヒゲをはやした強面のヴォーカリストの名はイツァーク。クロアチアのザグレブ出身で、ヘドウィグの現在の夫。実はドラァグ・クイーンという設定だが、この舞台では最後に女優であることが明かされる。虚実ない交ぜ。演じていたのは映画版と同じミリアム・ショア。
演出ピーター・アスキン、振付ジェリー・ミッチェル。

話の上で、最終的にヘドウィグ&アングリー・インチのニューヨーク・デビュー公演という設定になっていることが、あの場末の劇場での上演に特別な雰囲気を与えていたことは想像に難くない。その意味でも、ブロードウェイ版は別物だと感じた。
ちなみに、楽曲のよさを一番うまく伝えているのは、優れたアニメーションの力を借りた映画版かも。
なお、楽曲は、ヴァージョンによって少しずつ違っている。

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