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八月納涼歌舞伎 第三部/新版 雪之丞変化@歌舞伎座 2019/08/12 18:30

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毎年、三部構成で若手を中心に座組みをし、様々な試みが行なわれる歌舞伎座『八月納涼歌舞伎』。今年は、その第三部が『雪之丞変化』(ゆきのじょうへんげ)。坂東玉三郎の演出・主演による「新版」だが、これが面白かった(脚色/日下部太郎、補綴/板東玉三郎)。

三上於菟吉(みかみおときち)の小説(1934年~1935年朝日新聞連載)を原作とする『雪之丞変化』は、こんな話。
江戸で売り出し中の中村菊之丞一座の人気女形・中村雪之丞は、敵討ちの誓いを胸に秘めていた。相手は元長崎奉行・土部三斎とその一味。彼らに陥れられ、財産も名誉も命までも奪われた長崎商人夫婦の子・雪太郎、というのが雪之丞の正体だった。三斎を江戸で見つけた雪之丞は、義賊・闇太郎の助けを借りて、悲願を果たそうとする。

映像化が複数あるが、観たことがあるのは1963年の市川崑監督版で、長谷川一夫が1935年~1936年の第1回映画化(林長二郎時代の三部作)以来の雪之丞を演じている。これが、市川崑ならではのシャープな映像と相俟って観応えのある出来。
長谷川一夫の雪之丞は妖艶。同時に二役で闇太郎を演じていて、こちらは鯔背(いなせ)な魅力全開、と見事な主役っぷり。
ついでに言うと、お侠な女スリお初に扮する山本富士子が素晴らしい。他に、昼太郎という闇太郎のとぼけたライヴァル役で市川雷蔵が出てきたり、勝新太郎や若尾文子も出てきて……。なんでも長谷川一夫の300本目の記念映画ということで、大映オールスター映画になっているらしく、悪役の土部三斎には重鎮、二代目中村鴈治郎が収まっている。

脇道に逸れたが、雪之丞にはそんな長谷川一夫のイメージがあったものだから、「新版」は意外だった。なにしろ、登場した雪之丞は、舞台上で意趣返しの刃傷沙汰を演じると敵討ちのことが頭に浮かんで我を忘れてしまう、という繊細な人物になっているのだ。

そのことが冒頭の劇中劇で明かされるのだが、その趣向がシャレている。
前述したように八月納涼歌舞伎は三部制なのだが、第一部の演目に『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)がある。監修(事実上の演出)が玉三郎で、中村七之助が女形の大役・政岡を演じている。
で、第二部を挟んで第三部。『雪之丞変化』の幕開きが菊之丞一座による『伽羅先代萩』の一場面という設定で、政岡が我が子千松を殺した八汐を刺すところ。政岡は雪之丞で、自身の敵討ちをイメージしてしまい、演技を忘れる。それを八汐を演じる先輩女形・星三郎に諫められ、我に返る。すなわち、雪之丞の秘密に迫るエピソードなわけだが、その配役。もちろん政岡=雪之丞は玉三郎。そして八汐=星三郎が、なんと七之助。朝から観てきた観客は、ニヤリとせずにはいられない仕かけになっている。
の趣向については、こちらにも書いたが、観客へのサーヴィスであると同時に、後進(七之助)を育て、かつ自身も新たな挑戦をするという二重三重の意図を感じて、楽しい

観客へのサーヴィスということで言うと、雪之丞と星三郎が“女形観”を語り合う場面もそう。
後輩の雪之丞(大先輩の玉三郎)と先輩の星三郎(若手の七之助)という逆転した立場そのものも面白いが、そこで語られるのが、七之助が実際に演じた、あるいは近々実際に演じる役の話だったりして笑いが起こる。歌舞伎座では、観慣れていない人たちの場違いな笑いがしばしば起こるが、この笑いは温かかった。

ま、ともあれ、そんなサーヴィス精神も見せながら、一方で大胆な映像使いで冒険もしてみせるのが、納涼歌舞伎ならでは。舞台奥のスクリーンだけでなく、複数の可動式パネルに、演技をする役者や踊る玉三郎が映し出される。舞台作品での映像使いについては賛否あると思うが、この作品に関しては功を奏した。
その映像使いのキモが、市川中車の五役。雪之丞の師匠・菊之丞、敵役・土部三斎、雪之丞を助ける闇太郎、雪之丞に剣法指南をする脇田一松斎、雪之丞を見守る孤軒老師、の五役を舞台と映像の両方で演じるのが市川中車で、よく計算されたタイミングはもちろんだが、映像でアップになった時の迫力とうまさが、長年その世界でやって来た、この人ならでは。ちなみに、生の玉三郎と映像の中車との会話シーンは、自然に見えたが、映像をその場で操作してタイミングを合わせているんだろうと思う。

「新版」の話そのものは、敵討ちと芸道の間で揺れる雪之丞が、宿願を果たした後、芸を究めていく決意を固める、という方向で収まる。が、まあ、そうしたテーマのようなものよりも、見せ場の多い面白い舞台として、納涼歌舞伎の中で成果を上げた作品だった。

 

リトル・ウィメン~若草物語~@シアタークリエ 2019/09/10 13:30

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丁寧に作られているし、よくできてもいる。翻訳(小山ゆうな)も訳詞(小林香)もこなれて自然だった。それだけに考えさせられた。日本の翻訳ミュージカルはこれでいいのか、と。

『リトル・ウィメン~若草物語~』は、2004/2005年シーズンにブロードウェイに登場した『Little Women』の翻訳上演作品。そのブロードウェイ版は2005年2月6日に観ている。
ジョー役サットン・フォスターと母親役モーリーン・マクガヴァーンの二枚看板だったが、印象に残っているのはフォスターの凧揚げシーンだけ。よくできているがピンと来ない、というのが正直な感想だった。
観客の多くも同じ思いだったのか、あまり評判を呼ばず、トニー賞授賞式前の5月22日にクローズ。プレヴュー開始が前年12月7日だったから半年もたなかったわけだ。トニー賞もフォスターの主演女優賞ノミネーションだけに終わっている。

ルイーザ・メイ・オルコットの小説『若草物語』『続・若草物語』を再構成する形で作られたミュージカルで、時代は南北戦争の頃。マサチューセッツに住む四姉妹とその母、その周辺の人々の話だが、中心になるのは次女のジョー。「女性が職業を持って働くことが稀であった時代に、小説家をめざして世の中に漕ぎ出そうと奮闘し、夢をつかんでいくジョー。その姿は、いまだ窮屈の多い現代を生きる我々にも勇気を与え、また彼女を取り巻く家族との絆は身近な人の大切さを改めて感じさせてくれるでしょう。」と、東宝公式サイトの紹介文にある。

今回、翻訳版を観て改めて思ったのは、狭い世界の話だな、ということ。地域的にも、マサチューセッツの自宅周辺とケープ・コッド、それにニューヨークのアパートメントと狭いが、人種的にも白人しか出てこない。それも、おそらく、ほとんどがWASP系だろう。
なので、主人公ジョーが既成の社会の枠を突き破って生きていこうとする姿は痛快だが、その社会の枠は、ここに登場しない人種や階層の人々にとっての方が厳しいものであるに違いない、という風に考えてしまう。14年前、9.11からまだ4年も経っていない時期のニューヨークで、この作品を観てピンと来なかったのは、そんな理由からだったことを思い出した。
とはいえ、ブロードウェイで観ていれば、そういうことに気づく。そういう世界のただ中に劇場があり、舞台上もそういう世界の一部だから。トランプ登場後の今なら、もっと感じるだろう。
が、2019年9月の東京・日比谷の日本人ばかりが演じている舞台上には、そうした歴史観や社会観は希薄だ。おそらく、観客の多くも意識していないだろう。
確かに、女性の社会進出というテーマや家族愛のドラマには国境や文化を超える普遍性があるかもしれない。だが、違和感の方はどうなんだろう。消えてしまうのか。19世紀後半の合衆国東部に生きた白人たちのドラマと、現代の日本人の人生とが、そんなに簡単に重なり合うものなのだろうか。そこには様々な「捻れ」があるのではないだろうか。もし、そうした「捻れ」をすっ飛ばして観客が共感を覚えているとしたら、それは明治以来の自分たちを準白人だとみなすこの国の風潮と深く関係しているのではないだろうか。……なんてところにまで思いが到って、落ち着かなくなる。
繰り返すが、よくできているだけに、よけいに考えさせられる舞台だった。

役者について……てか、宝塚出身の3人について少しだけ。
ジョー役の朝夏まなとはキャラクターぴったりで魅力があった。声もよく出ていたが、終盤やや荒れてきたのは出づっぱりだったからか。さらなる精進を期待したい。
なんと言っても母親役の香寿たつき。うまさに磨きがかかっている。声も、柔らかさが増して厚みも出てきた。これからも楽しみ。
長女役の彩乃かなみも安定感があった。観るのは退団後初かも。

いつものことだが、松井るみの装置が素晴らしかった。

カリソメノカタビラ~奇説デオン・ド・ボーモン~@浅草九劇 2019/09/19 14:00

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水夏希が出る、という以外の予備知識なしに観に行ったが、面白かった。
年10月に『SMOKE』を観て以来の浅草九劇。小さな劇場の座席配置を全く変えての上演。前回は四方を観客が囲んで劇場中央部分を舞台にしていたが、今回は一角から中央に向けて出島のように舞台がせり出した形。
の上で演じられるのは、実在の人物デオン・ド・ボーモンの虚実入り交じった物語。

デオン・ド・ボーモン。日本版ウィキペディアには、「シュヴァリエ・デオン」として記載されているが、そこには、「1728年10月5日~1810年5月21日」「フランスの外交官、スパイ、兵士」「本名シャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモン」「生涯の前半は男性として、後半を女性として生きた。」とある。
実際のデオン・ド・ボーモンがどうだったかは、さだかではないようだが、劇中のデオン・ド・ボーモンは、肉体的には女性だが精神的には男性のトランスジェンダーとして描かれている。それが作品を貫くテーマ。トランスジェンダーといった認識のない時代に生きたトランスジェンダーの生涯。『ベルサイユのばら』のオスカルから、さらに一歩踏み込んだ世界。
それを宝塚歌劇の男役トップだった水夏希が演じる、という趣向が、脚本・演出の荻田浩一にとってはツボな
のだろう。2014年7月に上演された『Attractive Concert 2014 蜃気楼~mirage~』という、水夏希主演、荻田浩一演出によるショウの中で採り上げたデオン・ド・ボーモンの物語を拡大しての、今回の作品らしい。

場の雰囲気は旅役者たちの寸劇といった感じ。狂言回し的役割を担う坂元健児が、話をテンポよく進めつつ、そうした空気をうまく醸し出す。凝っているが不思議にいびつなところのあるデザインの作り物めいた衣装も、旅芝居の気分。
出演者は計5人。水、坂元の他に、笠松はる、植本純米、溝口琢矢。みんな、うまい。
坂元はルイ15世のスパイ組織の一員で、デオン・ド・ボーモンをスカウトする役。溝口は後にカリオストロを名乗ることになる詐欺師。いずれもデオン・ド・ボーモンに愛情を抱く。
笠松はる、植本純米はコンビで複数役を演じる。植本がルイ15世の時には、笠松はその愛妾デュ・バリー夫人。植本がロシアの女帝エリザヴェータの時には、笠松はその衛兵。植本がルイ16世の時には笠松は、その夫人マリー・アントワネット。2人の役柄のジェンダーが錯綜するのは、もちろん意図的だろう。最終的にドラマは、トランスジェンダーであることに深い理解を示したマリー・アントワネットとデオン・ド・ボーモンとの心の交流に落とし込まれていくが、笠松演じるマリー・アントワネットが実によかった。
ちなみに、その辺りで『ベルばら』の裏話的展開になり、パロディめいた趣向もあるが、その案配も上品でいい感じ。
水夏希は口跡のいい役者ではないのだが、それを補って余りあるスターとしての魅力がある。加えて、動きがシャープ。こうした意欲的な役を演じると、そのよさが生きる。

音楽は斉藤恒芳。荻田浩一の歌詞を生かして巧みな仕上がり。安齋麗奈の演奏するキーボードによる伴奏も過不足なく効果的。オリジナル・ミュージカルとして充分な成果を上げていた。

[考察007] ロンドン産ミュージカルは“あざとい”

1999年7月に書いた「ウェスト・エンド・ミュージカル考」。牽強付会気味ではあるが、大筋はうなずいていただけるのでは。当時、そう思って発表したものだが、20年の時の流れを経た今、はたして……?
初めにお断りしておきますが、長いです(笑)。

<ウェスト・エンド・ミュージカルとブロードウェイ・ミュージカルの違いって、何だと思います?
日、ロンドン在住のミュージカル・ファンの方からメールをいただいて、ウェスト・エンドとブロードウェイのミュージカルの違いについて意見交換をしたのだが、その時ロンドン産ミュージカルについての考えを自分なりにまとめた。そして、その直後訪れた3度目のウェストエンドでの観劇で自分の分析の確かさを思い知った(笑)?
さて、ブロードウェイ・ミュージカルとはひと味もふた味も違うロンドン産ミュージカルの特徴とは……!?

★ヒネりのない伝記的内容とコンサート的ノリ

ひと言で言うと、ロンドン産ミュージカルは根本的に“あざとい”。
“あざとい”を広辞苑で引くと、
①思慮が浅い。小利口である。
②押しが強くて、やり方が露骨である。
とある。
ロンドン産ミュージカルの“あざとい”には、この両方の要素がある。
そして、その“あざとい”の背景には、ミュージカルを舞台芸術の中でワンランク低く見る観客の視線と、ブロードウェイに比べて製作費(劇場の使用料やギャラなど)が安くてすむという事実とがある。

具体例で行こう。
ロンドン産ミュージカルの話をする時に、たびたび引き合いに出すのが、『Buddy』
この作品、脚本は時間軸に沿って主人公(バディ・ホリー)の半生を追うだけでヒネりがなく(思慮が浅い)、見せ場はそっくりショウ的モノマネ演奏(小利口)、というお手軽なもので、装置などもチープ。当然のようにブロードウェイでは短命に終わったのだが、ウェスト・エンドでは劇場を移りながら今なおロングラン中で、コンサート的なライヴ演奏(押しが強くて、やり方が露骨)に観客は大ノリだ。

『Buddy』のような実在の歌手や役者を主人公にした伝記的作品は、ロンドン産ミュージカルの十八番で、数多く作られている。
実際に現地で観たのは、『Jolson: The Musical』(アル・ジョルスン)だけだが、日本語版を観た小柳ルミ子主演の『Judy Garland』(ジュディ・ガーランド)や宝塚の『Dean』(ジェイムズ・ディーン)も元はロンドン産だったし、ロイ・オービソン、エルヴィス・プレスリー、ジョン・レノンなんて人たちを採り上げた作品の新聞広告や看板をロンドンで見た。先日ブロードウェイでの公演がすぐに終わった『Malrene』(マレーネ・ディートリッヒ)もウェスト・エンドからやって来た舞台だった。
未見のものについては何とも言えないが、観たものは全て、基本的には『Buddy』と同じ作りになっている。すなわち、ヒネりのない脚本+モノマネ(あるいは名場面の再現)。
この辺、アメリカ産の実在モデルものは、『Always…Patsy Cline』『Dinah Was』のようなオフの小規模な作品であっても、切り口がもっと絞られている。オンのヒット作『The Will Rogers Follies』などになると、簡単には説明しきれないような複雑な構造を持っていたりもするのだ。

さて、『Buddy』には、そうした伝記的素材ということの他に、前述したコンサート的なノリという要素があり、これもまたロンドン産ミュージカルに多く見られる特徴だ。
観た中から例を挙げれば、『A Slice Of Saturday Night』『Hot Stuff』、そして今度ブロードウェイにやって来る『Saturday Night Fever』などがそうで、ドラマ部分とは関係なく歌や踊りの場面で観客が盛り上がる。特にカーテン・コールは総立ちで、文字どおりコンサート会場状態。
うがった見方をすれば、こうしたコンサート的場面をつなぎ合わせるためにストーリーをでっち上げたんじゃないか、と思えるほどだ。

実在の人物の伝記的作品もコンサート的ノリの作品も、根っこは同じで、要するに、ほぼワン・アイディアででき上がっている。
「バディ・ホリーそっくりに歌えるやつがいるんだけど、こいつを使って再現ドラマ風のミュージカルってどうだろう。最後にコンサート・シーンをくっつけて」(『Buddy』
「’50年代のロックンロールっぽい曲を書くの得意だろ。小さなクラブを舞台に『Grease』みたいなノリのやつを作らないか」(『A Slice Of Saturday Night』
「TVで人気の○○って、けっこう踊れるらしいんだけど、あいつにトラヴォルタのポーズさせたら絶対ウケるぜ」(『Saturday Night Fever』
全部想像だけど(笑)、こういう感じで作られているとしか思えない。

そういう意味で、いかにもロンドン産という舞台があったのを思い出した。最近『Little Voice』(邦題:リトル・ヴォイス)というタイトルで映画化された『The Rise And Fall Of Little Voice』。イギリスからやって来たこの舞台を5年前にブロードウェイで観たのだが、実に変わった作品だった。
形態は明らかにストレート・プレイなのだが、見どころは主役を演じる娘によるモノマネの歌なのだ。
男にだらしのないアル中の母親との2人暮らしの中で心を閉ざしてしまった少女、リトル・ヴォイス(話し声が聞こえないほど小さいから、こう呼ばれる)の心の安らぐ時間は、好きなレコードに合わせて歌を歌う時だけ、という設定で少女が歌うのが、ジュディ・ガーランド、エディット・ピアフ、ビリー・ホリデイ、マリリン・モンロー、バーブラ・ストライサンドなどのナンバーで、これがソックリ(特に最初の2人)。
初めは自分の部屋で歌っているだけだったのが、金儲けになるからと母親の愛人が企んで、少女がステージに立つことになるショウ場面があるなど、作品のねらいがどこにあるかは誰の目にも明らかだ。
これを“あざとい”と言わずに何と言う。

ここまで読んで、誰も納得していなのが目に浮かぶ(笑)。なにしろここには、アンドリュー・ロイド・ウェバー作品も『Les Miserables』も登場していない。ロンドン産ミュージカルと言えば、むしろ、そういうブロードウェイでもロングランを続けている作品を思い浮かべる人の方が圧倒的に多いにもかかわらず、だ。
ご心配なく。間もなく俎上に載せます。

★ロイド・ウェバーや『レ・ミゼラブル』の検証

まず言っておくと、そうした有名作品も、ほとんどが根本的には“あざとい”と考えている。ただ、『Cats』以降の何作品かは、スケールが大きかった(金がかかっていた)ために、人々にある種の感動を与え、ブロードウェイのミュージカルにも影響を及ぼした。
具体的に見ていこう。

まずはアンドリュー・ロイド・ウェバー作品から。

『Jesus Christ Superstar』(作詞/ティム・ライス)。
1971年10月に、ウェスト・エンドより先にブロードウェイで幕を開けたこの“ロック・オペラ”が元々はレコード作品だったことは、ごぞんじの通り。これはアメリカでのデータだが、シングル「Superstar」の発売が1970年1月(ポップ・チャート最高位14位)、同年11月にリリースされた2枚組のアルバムが翌1971年にNo.1になる。で、ブロードウェイに登場するまでの間、コンサート形式のライヴ・ツアーを全米で行なった。だから初演のキャストはハンド・マイクを使っていたわけ(この目では観てないけど)。
こちらにも書いたが、音楽的にスワンプ・ロックをいただいた趣のあるこの作品、1969年のメンフィス録音をきっかけに復活し、ラスヴェガスでのライヴを始めたエルヴィス・プレスリーにインスパイアされていると思う。それプラス、(イギリスのことは知らないが)アメリカで当時盛り上がっていた“ジーザス・フリーク”と呼ばれる人たちなどの新たなキリスト教運動。言い換えると、(ビートルズと同じくらい有名な!)キリストを主人公にした伝記的作品で、聖書の名場面が(ひねってはあるが)再現され、ノリはコンサート。

舞台化は2番目だがロイド・ウェバーの実質的な処女作と言われる『Joseph And The Amazing Technicolor Dreamcoat』(作詞/ティム・ライス)も、コンサート及びレコードが先行した作品。そのせいか、コンサート的ノリは『Jesus』と共通している。よく知られた聖書中の人物伝であるのも同じ。音楽的には、かなりストレートなポップ・ソングで、こちらにはエルヴィスのパロディ場面が登場する(エルヴィスの影は『Cats』にも表れている)。

興行的に失敗し、ブロードウェイには登場しなかった『Jeeves』(作詞・脚本/アラン・エイクボーン。後に『BY JEEVES』に改訂)については後述するとして、次が1978年ロンドン、1979年ニューヨークで幕を開けた『Evita』(作詞/ティム・ライス)。
スタンリー・グリーンの「BROADWAY MUSICALS Show By Show」によれば、この作品も最初はレコード用企画だったらしい。そして、舞台版の興行的成功には、シングルとしてリリースされた「Don’t Cry for Me, Argentina」のヒットが貢献したという。その流れは『Jesus Christ Superstar』とよく似ている。また、内容的にも、独裁者の妻として悪名が高いにもかかわらず地元では“聖女”(マドンナ !?)と崇められる主人公の人生の真実を暴く、というスキャンダラスな感触が共通している。
英語版上演を観たことがないので四季版を元に語るしかないのだが、この作品の“あざとい”ところは、そうしたスキャンダラスなヒロイン像を際立たせるというねらいだけで作られていることにある。そのため、主人公エヴァや狂言回しチェ・ゲバラのキャラクターに深みはなく、ある意味、荒唐無稽ですらある。
楽曲的にも、前述の「Don’t Cry for Me, Argentina」以外に際立ったものはなく、“南米っぽい”エキゾティシズムをねらったマガいものの印象が強い。
この作品で最も重要なのは、そうした中途半端な素材を強力にまとめ上げたハロルド・プリンスの演出の手腕では? “あざとい”ミュージカルも一流の演出家が手がければ整って見える、という1980年代への布石は、この時打たれたと見る。

後に『Song & Dance』に組み込まれるTV用の『Tell Me On A Sunday』(1979年)は、全く観たことがない。

1981年5月、ロンドンに『Cats』(作詞/T・S・エリオットに基づく)登場。ニューヨーク上陸は翌1982年10月。
“あざとい”ものも豪華に作ればうまくいく、という典型的成功例。そして、その背後に、“あざとい”発想を生かすべく、演出家(トレヴァー・ナン)と振付家(ジリアン・リン)に全力を出させ、資金を調達したプロデューサー、キャメロン・マッキントッシュが姿を現す。
しかし、この作品は冒険だったと思う。登場するのは全員、猫。でもって、けっして子供向けじゃない。しかも、話らしい話はない。ヘタをすれば、ただ“あざとい”だけの駄作になりかねない。
アンドリュー・ロイド・ウェバーの音楽は野暮ったくて好きではないが、それでも、『Cats』を作ったという一点で尊敬に値すると思う。これが、彼のかかわったミュージカルの中で最もオリジナリティのある作品だと断言する。
とは言え、この作品が結果的に成功を収めたのも、初演地がロンドンであったればこそだ。ウェスト・エンド版を観て確信したのは、そのことだ。
まず前提として、ロンドンでは上演のための基本的な費用が安いのでリスクが小さくて済む、ということがある。その上さらに、この作品のプロデューサー(マッキントッシュとロイド・ウェバー=リアリー・ユースフル・カンパニー)はこう考えた(に違いない)。
「ロンドンの客が相手なら、金のかけ方がそこそこでも、このネタで押し通せる。きっとウケるはずだ」
それを証明するのが、ウェスト・エンド版とブロードウェイ版の最大の相違点、すなわち、第2幕に出てくる大がかりな船のセットの有無だ。このセット、前者にはなく、後者にある。なぜか。ニューヨークでは豪華にしないとダメだと考えたから。裏返すと、ロンドンでは新奇さだけでもイケると読んだ。
そして、予想通りロンドンで当たりをとると、効果的な宣伝で大いに期待感を煽りつつ、1年半後、劇場を大改造して作り上げた(当時としては)超豪華な“ニュー”『Cats』を、ニューヨークにお目見えさせた(この辺の事情は大平和登著「ブロードウェイ PART2」に詳しい)。こうして、“あざとい”発想から生まれた作品も、金のかかったケレンという衣装をまとえば一流の仲間入りをすることができるという図式が生まれ、ミュージカルの世界も一気にバブルに突入する。

間に前述の『Song & Dance』(ロンドン1982年、ニューヨー1985年)を挟んで、次が『Starlight Express』(作詞/リチャード・スティルゴー)。
1984年にロンドンで幕を開けて大当たり(今でもヴァージョンを変え、劇場を移りながらロングラン中)、その評判を受けて1987年開幕のニューヨーク公演の前売りは記録的に伸びたが、いざ始まってみれば2年と続かなかった。こちらは、“あざとい”ものを豪華に作ったものの失敗した例。ちなみに、演出は『Cats』同様トレヴァー・ナンだが、プロデューサーは全く別。
猫に代わって登場するのは汽車。(ローラースケートを履いた)様々な国の機関車たちがレースで速さを競い合う、という話で、“友情・努力・勝利”的ドラマ展開も、恐ろしいほど単純化されたナショナリズムにのっとったキャラクター設定も、子供でさえ喜ぶかどうか怪しい杜撰(ずさん)なもの(機関車が男で女は食堂車などの客車だという振り分けも時代錯誤)。“あざとい”の連発だ。
観たのはブロードウェイ版で、ロンドン版にあるといわれる劇場内を周回するようなコースこそなかったが、機関車が走るための通路を何層にも重ねて天井の方まで組み上げたセットは壮観。しかし、初めは驚かされる豪華セットが、観ている内に無用の長物に見えてくるのは、後の『Sunset Boulevard』と同じ。

さて、ここで一旦ロイド・ウェバーを離れる。
キャメロン・マッキントッシュのプロデュースによる『Les Miserables』(作曲/クロード=ミシェル・シェーンベルク、作詞/ハーバート・クレッツマー)の登場だ。ロンドン上演開始が1985年、ニューヨークの正式オープンは『Starlight Express』より3日早い1987年3月12日。
1979年に作られたというフランス版については観たことがないので語れないが、英語ヴァージョンに色濃く見えるのは、『Cats』同様の、マッキントッシュ(プロデューサー)のハッタリであり、トレヴァー・ナン(演出家)の大きな素材をまとめ上げる手腕だ(この作品ではジョン・ケアードが共同演出)。『Les Miserables』を英米で通用する舞台に仕上げたのがこのロンドン版首脳陣だという推測は、この後の仕事でも見せる彼らの一貫した方法論から考えて、間違っていないと思う。そういう意味で、この作品を準ロンドン産ミュージカルと呼ぶことに異論はないだろう。
ところで、最終的にこのミュージカルほどのレヴェルで仕上がってしまうと、どこが“あざとい”のか見えにくくなってくるが、実に、あの長大な物語を一見しただけでは筋を追えないほどのダイジェストにして、たった2幕で上演してしまおうという発想そのものが、ブロードウェイ・ミュージカルにはない“あざとい”ものだ。もちろん、その要素はあらかじめフランス版が持っていたものだが、そうした要素に目をつけて資金を注ぎ込み、アッと驚くセットの数々でメリハリをつけて、観客に考える暇を与えないスピーディなスペクタクル・ミュージカルに仕立て上げるところに、ロンドン産ならではの“あざとい”感覚を見る。

さて、再びロイド・ウェバー作品。『The Phantom Of The Opera』(作詞/チャールズ・ハート、リチャード・スティルゴー、脚本/リチャード・スティルゴー、アンドリュー・ロイド・ウェバー)のオープンは、ロンドン1986年、ニューヨーク1988年。ここまで『Jeeves』以外ではクレジットのなかった脚本家名が、この作品以降登場。プロデューサーは再び、キャメロン・マッキントッシュとロイド・ウェバー(会社はリアリー・ユースフル・シアター・カンパニーと改名)に。
ケン・ヒル版を観れば明らかなように、現代においては半ば冗談でしかありえないような100年前のゴシック・ロマンを、マジなラヴ・ストーリーとして押し通してしまうところに、“あざとい”精神を見る。
その“あざとい”精神を生かすべく、効果的に金を使って“あざとい”セットを準備。ハロルド・プリンスにケレン味たっぷりの演出をさせたマッキントッシュの力技で、豪華で楽しみやすい、なおかつ文学的香りさえするかのような舞台ができ上がった。
現時点では、ロイド・ウェバー最後の成功作。

『Aspects Of Love』(作詞/ドン・ブラック、チャールズ・ハート、脚本/アンドリュー・ロイド・ウェバー)は四季版しか観ていない。ロンドン1989年、ニューヨーク1990年のオープン。リアリー・ユースフル・シアター・カンパニーの単独プロデュース作品。演出はトレヴァー・ナン。
四季版を観た限りでは、“あざとい”要素に乏しい。それが失敗の原因。こんな人間関係の上っ面をなでただけの脚本では、ケレンに変わりうる“あざとい”要素なしに当たる舞台になるわけがない。楽曲にもいつものハッタリがなく、せいぜい、前作『The Phantom Of The Opera』で徹底させた、執拗な繰り返しによるメロディの刷り込みが効果を上げていたぐらい。
おそらくロイド・ウェバーは、スティーヴン・ソンドハイムに対抗して、この作品を作ったのだと思う。神や猫や汽車や怪人ではない、普通の人間の登場する文学的ミュージカル。そこに彼の自分の才能に対する誤解がある。
人間的に深みのないロイド・ウェバーだからこそ“あざとい”ミュージカルを臆面もなく作れるのであり、それが彼の作品の魅力となっているのだ。したがって、どんなに逆立ちしても、彼にはソンドハイムのような作品は作れないし、逆にソンドハイムからは、ロイド・ウェバーのような“あざとい”ミュージカルは生まれない。それが持ち味というものだ。

巨大な失敗作『Sunset Boulevard』(作詞・脚本/ドン・ブラック、クリストファ・ハンプトン)のオープンは、ロンドン1993年、ニューヨーク1994年。プロデュースのリアリー・ユースフル・シアター・カンパニー、演出のトレヴァー・ナンは前作同様。
この作品で最も“あざとい”のは、息を飲むほど豪華な屋敷(上下動可)のセット。ところが、この仕掛けはロンドン公演で功を奏さず、辛い批評が出た。するとロイド・ウェバーは、出来の悪さを主演女優パティ・ルポンのせいにして、アメリカ公演ではグレン・クロースを起用。幕切れなどに手を加え、スター芝居に仕立てた。
しかし、ウェスト・エンド版にしろ、手を加えたブロードウェイ版にしろ、あの映画版を舞台で再現しようとする切り口に無理があるのと同時に、金のかけどころを間違っていた。
ロイド・ウェバーの過去の成功作は、発想の大元に“あざとい”部分があり、それをケレンにまで昇華させる形で資金をつぎ込んできた。ところが、この作品や次の『Whistle Down The Wind』などは、金をかけてあるセット自体が“あざとい”という本末転倒状態に陥っている。

そしてまた、こと金のかけどころに関しては間違いのなかったキャメロン・マッキントッシュも、似たような自家撞着を起こし始める。
『Miss Saigon』(作曲/クロード=ミシェル・シェーンベルク、作詞/アラン・ブーブリル)のヘリコプターのセットなど、まさに、そうした本末転倒の象徴だ。
1989年に幕を開けたロンドン公演はようやく終わりを迎えるが、1991年からのニューヨーク公演はまだ続いている。このミュージカルがなぜこれほどのロングランを記録するのか、大いなる謎なのだが、ともあれ、オペラ『Madama Butterfly』の枠組みをいただいて作り上げた作品の空々しさは、一方に同じプッチーニのオペラ『La Boheme』から生まれた『Rent』の生々しさがあるだけに、よけい際立つ。
ヴェトナム戦争に材をとったヴェトナム人とアメリカ人の悲劇を、フランス人とイギリス人が思いっきり感傷的に描いて感動させようとするのだから、“あざとい”と言う他ない。しかも、イタリア人が(エキゾティシズムをねらって)オペラにした日本人とアメリカ人の話を下敷きにしているのだから、二重の確信犯だ。
逆に言うと、そうしたエキゾティシズムに彩られた感傷的な悲劇というものが、欧米ではまだまだ有効だということか。

マッキントッシュはその後、『Five Guys Named Moe』という小品をロンドンからニューヨークに送り込むが、これはリズム&ブルーズのアーティスト、ルイ・ジョーダンの持ち歌を、ちょっとしたドラマ仕立てで並べていく半ばレヴューのような作品で、傾向としてはコンサート的ノリのもの。豪華さのない分、小さなヒットで終わった。
そして、シェーンベルク&ブーブリルと組んでブロードウェイ入りを目指した『Martin Guerre』は、明らかに第2の『Les Miserables』をねらった作品だったが、ロンドンでのロングランも終わってしまい、捲土重来を期して地方公演を行なっているという。これまた金のかかったセットのみに目が行く失敗作だった。

★“あざとい”ミュージカルの功罪

ロンドン産ミュージカルが根本的に“あざとい”背景には、ミュージカルを舞台芸術の中でワンランク低く見る観客の視線があると最初に書いたが、それがなぜなのかは正確なところはわからない。ただ、井野瀬久美惠著「大英帝国はミュージック・ホールから」(朝日選書)などを読むと、階級のはっきりしているイギリスでは、ミュージック・ホール(後にヴァラエティ・シアター)が労働者階級の娯楽の場であったことなどが関係しているのかもしれない、と思ったりもする。

初めてロンドンに行ったのは1993年の秋だが、劇場に行っていちばん驚いたのは、幕間になると食べ物売りが客席を歩いて回ることだった。その時に、ああ、この街の劇場文化はニューヨークとは違うんだ、と気づいた。以来、まだ都合3度しか訪れていないが、行くたびに空気の違いを肌で感じる。ロンドンの観客は、とにかくミュージカルは楽しければ、ノセてくれれば、あるいは驚かせてくれればそれでいいと思っているようだ。
そういう意味では、出世作『Jesus Christ Superstar』が偶然アメリカからスタートしたことがきっかけになったのかもしれないが、アンドリュー・ロイド・ウェバーは初めからブロードウェイにねらいを定めて作品作りをしていて、ウェスト・エンドでの公演はその試金石にすぎないと考えているように見える。特に『Evita』からはそうで、以降、金のかけ方が大きくなってきている。だから一見、他のロンドン産ミュージカルとは異質に見えるが、本質が同じことは前述してきた通り。
しかし、金をかけて豪華にすれば、観客にとっては別の楽しみが増えるのも確かで、それが1980年代の一連のヒット作につながったわけだ。見方を変えると、ロイド・ウェバー作品は豪華にしないとコケる可能性を大いにはらんでもいたわけだが、そうしたこととは関係なく、ニューヨークでも、金をかけた豪華なミュージカルに観客が慣れてきてしまうという事態が起こった。
一方に豪華なミュージカルがあれば、普通程度の舞台が貧相に見えるのは道理で、それがちょうど経済的なバブル期とも重なったために、各プロダクションとも争うように資金を注ぎ込み始め、結局は慢性的な回収不能状態を招くことになる。その反動が1996年の『Noise/Funk』『Rent』で、今プロデューサーたちは、豪華さの名残と本質的な新しさの狭間で揺れているように見える。『You’re A Good Man, Charlie Brown』などはその典型だろう。

功罪ということで言えば、こうした資金の面での影響は“あざとい”ミュージカルの“罪”だが、同時に“功”もあったと思われる。
これについてはリアルタイムで体験していないので想像だが、ノスタルジックな作品や規模の小さいレヴュー的作品、それにリヴァイヴァルが主流を占めるようになっていたブロードウェイに、ある種の風穴を開けたのが、一連の“あざとい”ロンドン産ミュージカルだったのではないだろうか。
もちろん、“あざとい”作品に追随する動きがすぐにあったわけではなく、おそらく影響は、自国産のしっかりしたミュージカルを作らなくては、という精神的な面で表れたと思われる。自作の見直しをして明日への糧にしようという意図があったと思う『Jerome Robbins’ Broadway』や、過去のブロードウェイ・レヴューのスタイルを借りながら国民的スターの生涯をミュージカルならではの方法論で描いた前述の『The Will Rogers Follies』などに、それは垣間見える。
もっとも、最近になって、『Jekyll & Hyde』など、直接ロイド・ウェバーに影響された作品も現れるようになったが。

本来が作曲家であるロイド・ウェバーと違って、プロデューサーのマッキントッシュは、ブロードウェイを目指した最近の新作はやはり失敗しているが、ロンドンではリヴァイヴァルを当てている。考えてみれば、ブロードウェイがミュージカルの頂点であるとは言え、別にロンドン産はロンドンで当たればそれでいいのだ。明らかに文化が違うのだし。
そしてロンドンには、初めからそういうスタンスで作られているミュージカルもあり、そちらの路線には“あざとい”面があまり見られない。その多くは、チャールズ・ディケンズをはじめとするイギリスの作家の作品を原作にするものであり、全くの新作であっても舞台をイギリスにしたローカルな作品であるのが特徴だ。『Jeeves』(→『By Jeeves』)もそういうイギリス臭の強い作品で、同時に、ロイド・ウェバー作品にしては珍しく“あざとい”ところがない。
やはり、自分の文化を扱う時には、作者も“あざとい”アイディア以前に考えるべきことが出てくるということなのではないだろうか。

ところで蛇足だが、今年のトニー賞の演出と振付部門を受賞した『Swan Lake』も、芸術の仮面をかぶってはいるものの、実はかなり“あざとい”作品だと思うのだが、どうだろう。>

The Chronicle of Broadway and me #214(Chicago[9])

19995月@ニューヨーク(その10)

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『Chicago』(5月8日20:00@Shubert Theatre)9回目の観劇について旧サイトに書いた感想。観劇から2年後の2001年7月に、少し振り返る感じで書いている。

<1999年5月の『Chicago』は、カレン・ジエンバのロキシーの観納めだった。
『Chicago』を去った彼女は、この年の秋、リンカーン・センターで限定公演の幕を開ける『Contact』に出演して結局トニー賞を獲ることになるわけだが、『Chicago』でのジエンバは、すでに『Steel Pier』でオリジナル・ブロードウェイ・キャストの主演を経験していたにもかかわらず、ツアー・カンパニーからスタートし、3人目のロキシーとしてブロードウェイ入りするという経緯もあってか、イマひとつ正当な評価を得ていなかったような気がする。例えば、ロンドンのオリジナル・キャストにすぎない、と言っては失礼か、ともあれミュージカル女優としての力量がジエンバに勝るとは思えないウテ・レンパーが鳴り物入りで(ブロードウェイに大看板が出た)ブロードウェイに迎えられたのに比べると。
しかし、ダンスにやや難のあった メリル・ヘナーからロキシー役を引き継ぎ、ヴェルマ役ビビ・ニューワースと五分に渡り合って、質的に苦しくなりかけた『Chicago』の舞台を再び盛り上げたのは紛れもなくジエンバであり、主要オリジナル・キャスト4人の1人として最後まで残ったニューワースが去った後も、さらにその後を受けたレンパーが降板した後も出演し続けた、その功績はけっして小さくない(そのあり方は、2代目ヒロインとして最後まで踊り続けた『Crazy For You』の時のよう)。
さて、1999年5月、ジエンバ以外の主要キャストは次の通り。ヴェルマ→ナンシー・ヘス、ビリー・フリン→ブレント・バレット、エイモス・ハート→P・J・ベンジャミン、ママ・モートン→メイミー・ダンカン=ギブズ、メアリー・サンシャイン→R・ビーン。
前回新たに加わっていたビリー・フリン役とメアリー・サンシャイン役以外が全員交替。観劇後のメモに、「ヴェルマの演技が派手に(野暮ったく)なり、そのダンスの技術に問題がある」ことと、「ママ・モートンが貫禄不足である」ことが書かれている。もっとも、そうした不満は、“最高だった頃に比べると”という注釈つきのものではあるが、ヴェルマ役ナンシー・ヘスがロングラン開始時以来のヴェルマ&ロキシー両役のスタンバイであり、ダンカン=ギブズが元々は女囚の1人を演じるアンサンブルのキャスト兼ヴェルマやママ・モートンのアンダースタディだったことを思えば、この頃かなりキャスティングに苦労していたことがわかる。
とにもかくにも、そうした時期の看板役者として使命を全うしたジエンバに、改めて拍手。>

なお、これ以前の『Chicago』の感想(あるいはキャストの動向)は次の通り。
1996年5月1997年1月1997年6月1997年12月1998年3月1998年6月1998年10月1999年1月

The Chronicle of Broadway and me #213(Savion Glover Downtown)

19995月@ニューヨーク(その9)

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『Savion Glover Downtown』(5月5日20:00@Variety Arts Theatre)について旧サイトに書いた感想。タイトルは「タップのチャーリー・パーカーか」。

<昨年の5月から6月にかけて行なわれた限定公演を観られなかった『Savion Glover Downtown』の再演。『Noise/Funk』が終わった後だっただけに、うれしかった。

サブ・タイトルが、“ライヴ・コミュニケイション”。
内容をひと言で言えば、タップのジャム・セッション。ドラムス(パーカッション)、ベース、キーボード、サックス/フルート、という編成のバンドと、タップ・ダンサー(レギュラー4人、プラス、不定期のゲストが何人か)とが、伴奏者と踊り手という関係ではなく、共演パフォーマーとして一緒に音楽とダンスを紡ぎ出す。そういう舞台だ(案内役のようにして、詩人も1人登場する)。
だから、スタイルとしては限りなくジャズに近い。それもビ・バップに、と思った。
ビ・バップとは……ビッグ・バンドで毎夜ダンスの伴奏ばかりやってることに飽き足らないジャズ・ミュージシャンが、仕事の後で小さなクラブに三々五々集まって、自分たちの楽しみ(あるいは腕試し)のために自由な演奏をやったのが始まりのコンボ・セッションで、短いテーマとコード進行だけが決まっていて、後はひたすらアドリブの応酬、というのが特徴的なスタイル。
少人数のバンドとのアドリブ主体のセッションという点と同時に、観客よりも自分たちのためという気分が濃厚なところも、この『Savion Glover Downtown』は、ビ・バップを連想させる。
そのせいか、このショウの牽引役であるセイヴィアン・グローヴァー(演出・振付)の姿が、ひたすら自身のアドリブを追求することで周りのミュージシャン連中をビ・バップの渦に巻き込んでいった孤高の天才サックス奏者チャーリー・パーカーとダブって見えた。

実は、こうしたことを強く意識したのは翌日の夜、 2度目の『Fosse』を観た時で、「ああそうか、セイヴィアンがパーカーで、フォッシーがエリントンなんだ」と思ったのだ。
デューク・エリントンはご存知の通りビッグ・バンドのリーダーとして長くジャズ世界に君臨した人だが、その音楽スタイルを象徴する彼自身の有名な言葉が、「バンドが私の楽器だ」というもの。腕利きのミュージシャンを集めて存分に力を発揮させつつ、最終的には自分の思い描くサウンドを作り上げる、というのがエリントンのやり方だった。
高度な技術を持つダンサーたちの肉体を使って、フォッシー・スタイルとしか言いようのないパーソナルな色合いの濃いダンス・ナンバーを作り上げたボブ・フォッシーの発想と、よく似ていると思いませんか。
こうした、規模は違うが振付家の個性が際立つダンス・ショウを続けて観て思ったのは、これからの振付家は引き出しの数だけでは勝負できないな、ということだ。なにか、ダンス・ナンバーを通して振付家その人の生き方が問われるような、そんな時代が来ているような気がしてならない。スーザン・ストロマンの苦戦はその反映だと思うのだが、ま、この話はまた別の機会に。

ところで、この『Savion Glover Downtown』によく似たスタイルの、小さなバンドとタップ・ダンサーたちによるショウを、何年か前にアッパーイーストの小さなクラブで観たことがある。そこで中心になっていたのがジミー・スライド。ブロードウェイ・ショウ『Black And Blue』にも出てきたヴェテラン・タップ・ダンサーで、『Noise/Funk』でも主役ダンサーが鏡の前で踊りながら彼の名前を口にする。
その小さなクラブで観たスライドのショウは週1回のスケジュールで行なわれていたようだが、こうした仲間内が集まるようなショウは、おそらく伝統的に昔からあるんじゃないか。そして、スライドと人脈がつながるグローヴァーたちもその種のショウに参加したことがある可能性は高いだろう。
そんなビ・バップが生まれた時のようなアフターアワーズ的な色彩の強いクラブのタップ・ショウを、グローヴァーは、小さいながらも劇場という異空間に登場させた。その意図はいったい何だったのか。
もちろん根底に、『Noise/Funk』を当てた勢いのある今なら、こうしたラフな構成のショウでも成り立つだろう、という興行的な読みがあったのは間違いない。加えて、グローヴァーはこう考えたんじゃないか。
「これまでは内輪のような限られた客を相手に、どちらかと言えば趣味のようにやっていたショウだが、劇場の舞台に載せることで次のステップへの実験の場にすることができるんじゃないか。それが同時に、自分たちのを活動資金を集める場にもなるなら、一石二鳥だ。」
そんなしたたかな意図を、この舞台から感じた。そして、グローヴァーの視線が、ひたすら自分たちブラック・エンタテインメント・コミュニティの内側に向かっていることも。

自分たちの過去と現在を総括してみせた『Noise/Funk』の次。その足がかりを、グローヴァーはこのショウでつかんだのだろうか。
別に大がかりでなくていい。地に足の付いた、それでいて全く新しいコンセプトのショウを観せてほしい。期待は限りなく大きい。>

その後ミュージカルの表舞台からは遠ざかっていたセイヴィアン・グローヴァーだが、2016年の『Shuffle Along, Or The Making of the Musical Sensation of 1921 and All That Followed』で、振付家としてブロードウェイに復帰した。

[Tony1999] 予想/結果と感想

前シーズンに続き旧サイトでやった2度目のトニー賞予想、そして結果と感想を再掲載。前回同様、「予想」と「結果と感想」とをまとめてアップしますので、若干の編集あり。ただし、予想や感想の内容には手を加えていません。
ちなみに、主演女優賞と脚本賞で候補になっている『Marlene』は、1999年3月30日プレヴュー開始で5月2日クローズ。観ていません。2年前にロンドンでオープンして当たった舞台の引っ越し公演のようです。

予想と結果の一覧は次の通り(は予想時のマーク。ニュアンスは、本命=審査員が投票しそう、対抗=案外これが獲るかも/獲ってくれないかな、といった感じ)。

[作品賞]
The Civil War
Fosse 受賞
It Ain’t Nothing But The Blues
Parade
[リヴァイヴァル作品賞]
Annie Get Your Gun 受賞
Little Me
Peter Pan
You’re A Good Man, Charlie Brown
[主演女優賞]
Carolee Carmello Parade
Dee Hoty Footloose
Bernadette Peters Annie Get Your Gun 受賞
Sian Phillips Marlene
[主演男優賞]
Brent Carver Parade 
Adam Cooper Swan Lake
Martin Short Little Me 受賞
Tom Wopat Annie Get Your Gun
[助演女優賞]
Gretha Boston It Ain’t Nothin’ But The Blues
Kristin Chenoweth You’re A Good Man, Charlie Brown 受賞
Valarie Pettiford Fosse
Mary Testa On The Town
[助演男優賞]
Roger Bart You’re A Good Man, Charlie Brown 受賞
Desmond Richardson Fosse
Ron Taylor It Ain’t Nothin’ But The Blues
Scott Wise Fosse
[楽曲賞]
Tom Snow, Eric Carmen, Sammy Hagar, Kenny Loggins & Jim Steinman Footloose
Jason Robert Brown Parade 受賞
Frank Wildhorn & Jack Murphy The Civil War
Jeanine Tesori Twelfth Night(play)
[編曲賞]
Ralph Burns & Douglas Besterman Fosse  受賞
David Cullen Swan Lake
Don Sebesky Parade 
Harold Wheeler Little Me
[脚本賞]
Dean Pitchford & Walter Bobbie Footloose
Charles Bevel, Lita Gaithers, Randal Myler, Ron Taylor & Dan Wheetman It Ain’t Nothin’ But The Blues
Pam Gems Marlene
Alfred Uhry Parade ◎ 受賞
[演出賞]
Matthew Bourne Swan Lake 受賞
Richard Maltby, Jr. & Ann Reinking Fosse 
Michael Mayer You’re A Good Man, Charlie Brown
Harold Prince Parade
[振付賞]
Patricia Birch Parade
Matthew Bourne Swan Lake 受賞
A.C. Ciulla Footloose 
Rob Marshall Little Me
[装置デザイン賞]
Bob Crowley The Iceman Cometh(play)
Bob Crowley Twelfth Night(play)
Riccardo Hernandez Parade
Richard Hoover Not About Nightingales(play) 受賞
[衣装デザイン賞]
Lez Brotherston Swan Lake 受賞
Santo Loquasto Fosse
John David Ridge Ring Round The Moon(play)
Catherine Zuber Twelfth Night(play)
[照明デザイン賞]
Andrew Bridge Fosse 受賞
Mark Henderson The Iceman Cometh(play)
Natasha Katz Twelfth Night(play)
Chris Parry Not About Nightingales(play)

★予想

<作品賞は『Fosse』『Parade』かしかありえない。あとの2作は候補になったのが不思議なくらい。
賞はおそらく生き残っている『Fosse』に行くと思うが、それで文句はない。ただ、個人的には、野心作をゼロから作り上げた『Parade』に1票を投じたい。

リヴァイヴァル作品賞は『Annie Get Your Gun』で決まりだろう。これもOK。『Little Me』に票を入れるのは、限定公演ながら、質的には充分に拮抗しうるものだったから。『You’re A Good Man, Charlie Brown』も内容は悪くない。が、ブロードウェイ作品としては金をかけなすぎた。

俳優に対する賞の予想はむずかしいが、主演女優賞だけは間違いなくバーナデット・ピータース。『Parade』のキャロリー・カーメロはドラマ・デスク賞で受賞したので報われたでしょう。
助演女優賞も堅いかもしれない。ライヴァルになるとすれば、『Fosse』のヴァレリー・ペッティフォードだが、クリスティン・チェノウェスにスター誕生の輝きが見えた。
主演男優賞の候補は3人が終わった作品からという異様な事態。だから『Annie Get Your Gun』に流れるという可能性もあるし、トム・ウォパットも悪くないのだが、ここはスターの熱演を讃えてマーティン・ショートに行くんじゃないか。迷うところだが、やはり難役を見事に演じきったこの人を推したい。
助演男優賞も迷う。『It Ain’t Nothin’ But The Blues』はお話にならないが、『Fosse』の2人をどう見るか。スコット・ワイズはトニー賞の常連だが、今回はバレエ界から来たリチャードスンの方に分がありそう。個人的にはマーティン・ショート並みの熱演・快演を見せたスヌーピーに1票。案外獲っちゃうかも。

楽曲は『Parade』しかないと思うが、政治的な動きがあるとすれば、『The Civil War』もないではない。未見の『Twelfth Night』だったらゴメンナサイ(笑)。

編曲もむずかしいが、質の高さなら『Parade』だと自分の耳が言っている(笑)。ただ、この辺は生き残ってる作品に流れる可能性も高い。

脚本は『Parade』しか考えられない。これが外れたら2度とブロードウェイなんかに行かないぞ(笑)。

演出はハロルド・プリンスしかないと思うが、なにしろ終わっちゃってるから、『Fosse』に行きそうな気がする。

振付は、その『Fosse』が候補から外れたから余計むずかしい。『Footloose』も生き延びさせたいと投票者が考えれば、投じるならこのカテゴリーしかない。僕としては、『Parade』の夢幻的な振付も捨てがたいが、楽しかった『Little Me』にここで 1票。

装置、衣装、照明は、候補の大半が観ていないプレイなので予想できません。

★結果と感想

『Swan Lake』の獲った部門以外、予想がドンピシャ(笑)。
特に役者関係。チェノウェス(助演女優賞)と一緒に助演男優賞を獲っちゃったロジャー・バート、おめでとう。『You’re A Good Man, Charlie Brown』のチケットが売れるといいね。
『Parade』の脚本は当然だけど、獲ってくれてホッ。これでまたブロードウェイに行かれます(笑)。楽曲も認められて、これはバンザイの部類でしょう。
『Swan Lake』の振付と衣装はともかく、演出はどうなんだろう。今回唯一の「?」でした。>