The Chronicle of Broadway and me #127(Nine)

199612月@ロンドン(その4)

img_1311

『Nine』(12月18日15:00@Donmar Warehouse Theatre)は、フェデリコ・フェリーニ監督の映画『8 1/2』(1963年)のミュージカル化として知られる。当時の感想は、その辺りから入っている。

<資料によれば、フェリーニの映画『8 1/2』をミュージカル化しようと考えたのは作曲・作詞のモーリー・イェストンらしい。
演出・振付をトミー・テューンが担当(振付はトミー・ウォルシュと共同)、脚本をアーサー・コピットが書いた『Nine』は、1981/1982年シーズンのトニー賞で、作品賞、楽曲賞、演出賞など5部門で受賞している。
『8 1/2』のミュージカル化、いったいどんな作品だったんだろう、と、ずっと心に引っかかっていただけに、このリヴァイヴァルはうれしかった。

場所は『Cabaret』『Company』などの斬新なリヴァイヴァル上演で最近評判の倉庫劇場。
バレーボールのコート半分ほどのステージをコの字型に囲む数列しかない客席が1、2階に重なるようにしてあるだけの小さな劇場だが、今回の舞台も(と言っても、これまでの作品は観ていないが)刺激的に仕上がっていた。

映画監督グイド・コンティーニは新作の構想を練ると称してヴェネチアの温泉地に来ているが一向にアイディアが浮かばない。どころか、このところヒット作がまるで作れず、プロデューサーの女性からは厳しいプレッシャーを与えられている。
私生活では妻とも愛人ともうまくいかず、女と見れば粉をかけるものの心は満たされない。そして、彼の心にはいつも、子供の頃の女性たちの思い出がよみがえってくる。
そんな女たちにからめ取られた現実から逃れるように、思いつくままにカサノヴァの映画を撮り始めるが、その過程で女性たちとの関係が浮き彫りにされ、映画は破綻。
グイドよ、どこへ行く……。

というような話だと思います。
主人公をめぐる話でありながら、主人公がどこか狂言回し的であるところなど、『Company』に似ている印象を受けたが、こうした素材を独りよがりでないエンタテインメントにしてしまうアメリカン・ミュージカルの底力には驚かされる。
それを、こうした良質の舞台としてリヴァイヴァルさせたこのカンパニーも、ただ者ではない。

まずは装置(アンソニー・ワード)。
最初に目に付くのが、奥から舞台に覆い被さるように45度の角度で手前に傾いで吊り下げられている大きな鏡。所々に薄くサビが浮いている。
実はこれが半透明で、奥を明るくすると向こうに、天井にまで連なるコンクリートの壁と、そこをはい昇っていく鉄製の階段が見える。2階席の前には、これまた鉄製の回廊が巡らせてあり、舞台奥でその階段とつながっているし、舞台に降りてこられる階段も隅に付いている。
舞台中央には大きな丸テーブルがあり、白く塗られた鉄製のイスが十数脚用意されている。
うした装置を駆使して、舞台が、ホテルの部屋になり、駅になり、教会になり、運河になる(舞台一面に水が満たされる!)。
背景を変えることなく次々に場面を変えていく、その豊かな想像力が素晴らしい。
多彩な照明(ポール・ピアント)のアイディアがそれを助ける。
固定されたものの他に、テレビの取材を模して手持ちのライトで役者を追ったり、ロウソクや燭台を役者に持たせたりして、生々しい効果を生み出す。

生々しいと言えば14人の女優たち(ブロードウェイ初演では 21人だったらしい)。
主人公とその少年時代の2人の男優以外は全員女、というのがこの作品の特徴の1つなのだが、彼女たちが実に個性豊か。そして、間近に観るせいもあって肉感的。
全編を通じて際だったダンス場面というのはないのだが、彼女たちの動きそのものがダンス的で、官能的。それがこの舞台の最大の魅力と言えなくもない。

そんな女優陣の中でも一番印象に残ったのが、若い女優たちを従えてキャバレー・レヴュー風の歌を迫力いっぱいに歌ったフランス人プロデューサー役のサラ・ケステルマン。
年季の入ったパフォーマンスは凄みすら感じさせ、シビレた。

楽曲は、聴きようによってはパロディともとれそうなほど多彩で、そのキャバレー・レヴュー風やミシェル・ルグラン風、もっとオーソドックスなシャンソン風といったフランス風味から、カンツォーネ、オペラといったスパゲッティ風味までいろいろ。
そのどれもが味わい深く、さすがに楽曲作者の情熱で作られた作品らしい充実ぶりだ。

グイド役のラリー・ラムが、柄はピッタリだがやや声量不足だったのが、ほとんど唯一の難点だったかもしれない。
手際のいい視覚的に優れた演出はデイヴィッド・ルヴォー。

このミュージカルを観た翌日、『8 1/2』の主演男優マルチェロ・マストロヤンニが亡くなった。>

[考察03] ジーザスとエルヴィスのメンフィスな関係

1996年12月のロンドン観劇旅行で『Jesus Christ Superstar』を観て思いついた妄想気味の考察。
以下、旧サイトからの転載です。

<『Jesus Christ Superstar』初演の成功の陰にエルヴィス・プレスリーのメンフィス・セッションあり、というのが、今回ロンドンでひらめいた仮説。その話を少し。

1969年1月と2月にメンフィスのアメリカン・スタジオで行なわれたエルヴィスのレコーディング・セッションは、「In The Ghetto」(同年4月発売HOT100最高位3位)、彼にとって最後のNo.1ヒットとなった「Suspicious Minds」(同年8月発売)、「Don’t Cry Daddy」(同年11月発売HOT100最高位6位)という3曲のトップ10ヒットを生んだ充実したもので、録音されたあらゆる曲が、R&B、カントリー、ゴスペルなどがない交ぜになった、アメリカ南部ならではの素晴らしいサウンドで満ちている。
このセッションを足がかりに同年7月、エルヴィスは初めてラスヴェガスに進出し、翌1970年の映画『Elvis: That’s The Way It Is』(邦題:エルビス・オン・ステージ)で全世界に知られるようになるライヴの快進撃を始めることになる 。

一方の『Jesus Christ Superstar』は、まずレコードがヒットし、その後で舞台化される、という経緯をたどっている。資料を見ると、まずシングルの「Superstar」が1969年後半に、次いで2枚組のアルバムが1970年に発売され、それらの世界的ヒットを受けてコンサート形式のライヴ公演が全米を回り、1971年10月にブロードウェイの劇場に“ロック・オペラ”として登場している。
期的に見ると、『Jesus Christ Superstar』がエルヴィスのメンフィス→ラスヴェガスを後追いしているのだが……。

両者の関係性を類推する鍵は2つ。南部サウンドとライヴのスタイルだ。

『Jesus Christ Superstar』の楽曲のほとんどがゴスペルやR&Bを模して作られているのは一聴すればわかることで、例えば「Superstar」などは、はっきりと“ソウル・ガールズ”と謳った女性コーラス3人を従えてユダがシャウトする作りになっている。
が、直接的にエルヴィスを連想したのは、カントリー調バラード「Everything’s Alright」。これって「Suspicious Minds」じゃないか? そう思った。「Suspicious Minds」の中間部のスローになるところ。まんまじゃないけど、その雰囲気が。
そう考えると「Superstar」のスタイルも、ブラック・ミュージックからの直取りというよりも、同じエルヴィスのメンフィス・セッションの「Rubberneckin’」あたり、あるいは、その後のラスヴェガスでのライヴ・スタイルが元ネタ、という風にも思えてくる。とにかく、キーになる楽曲のサウンド作りが、あの頃のエルヴィス風なのだ。

ライヴのスタイルということで言えば、そもそもライヴ・コンサートの形式で舞台に上がった『Jesus Christ Superstar』は、純粋な舞台ミュージカルになっても歌手がハンドマイクを使っていた。そんな中、例えば、退廃の人ヘロデ王の役などの歌唱スタイルは、多分にエルヴィスのライヴの雰囲気をなぞっているように見える(『Joseph And The Amazing Technicolor Dreamcoat』のファラオにも影響が及んでいる)。
いずれにしても、1971年に、こうした南部ミュージック・レヴュー的ライヴというスタイルでブロードウェイに登場する背景に、エルヴィスのラスヴェガス公演の全国的認知があった、と考えるのは、さほど不自然ではないだろう。ロイド・ウェバー作品で、ここまでアメリカ南部の感じがするのは、後にも先にもこの作品だけなのだ。それだけに、これは、はっきりと“戦略”だっただろうと思うのだ。

『Jesus Christ Superstar』については、とかく題材のことが“テーマ”として意味あり気に語られがちだが(新約聖書の斬新な解釈だとか、キリストを人間として捉えた革新的ドラマだとか)、むしろ、こうした音楽状況にうまく乗るという戦略の方こそ語られるべきである気がする。そこに、案外ロイド・ウェバーの本質が潜んでいたりして面白いとも思うのだが。>

★from WEBsite Misoppa’s Band Wagon (Apr./1997)

elvis

『Jesus Christ Superstar』は、ロイド・ウェバーの母国イギリスではなく、まずアメリカで始まっている。その事実も、エルヴィスを含む、あの頃のスワンプ・ロックの流れに呼応しての戦略だったことの証左のように思われる。
ロイド・ウェバー、機を見るに敏。『The Phantom Of The Opera』の隠し味はユーロ・ビートだし。

The Chronicle of Broadway and me #126(By Jeeves)

199612月@ロンドン(その3)

img_1309

『By Jeeves』(12月18日19:45@Lyric Theatre)は、<アンドリュー・ロイド・ウェバーが、『Jesus Christ Superstar』に次ぐティム・ライスとのコラボレーション『Evita』にとりかかる前に、アラン・エイクボーン(作詞・脚本)と組んで作った 『Jeeves』(1975年4月開幕)のリメイク。と言っても、『Jeeves』は興行的に失敗、ブロードウェイには登場しなかった。>と当時の感想に書いてある。『Jeeves』ミュージカル化の発案自体はティム・ライスのものだったらしい。
以下、感想の続き。

『By Jeeves』は、『Jeeves』のエイクボーンが脚本に手を入れ、自ら演出に当たってのリメイクということで、まあ、作者の考える“あるべき姿”での再登場ということなのだろう。
イギリスの(ある階級にとっての)グッド・オールド・デイズを描いたミュージカル・コメディで、それなりの味わいはあったのだが、お行儀がよすぎて、“楽しい!”とはいかなかった。

1910年代(?)のロンドン(近郊か?)。教会のホールで開かれようとしているのは独身貴族バートラム・ウースター(通称バーティ)のバンジョー弾き語り独演会。ところが、いざ開演という段になってバンジョーがないことがわかる。
バーティに助けを求められた執事のジーヴズは、バンジョーを入手するまでの場つなぎに芝居をやりましょう、と提案。かくしてジーヴズの指揮の下、バーティの友人総出演の即興劇が始まる。
若い娘たち(内1人はバーティの元婚約者)と男たちの恋の苦難を、バーティが果敢に取り払っていく、という内容なのだが、虚実ない交ぜの誤解や嫉妬が渦巻いて大騒ぎになる。が、“演出家”ジーヴズの采配で、もちろん最後は丸く収まってチャンチャン。
うまい具合にバンジョーも届き、さあバーティの独演会が始まる……?

と、まあ、のんきな話で、それに合わせて楽曲もオールド・タイムな装い。半分がギルバート&サリヴァン的なオペレッタ風、半分がジャズ・ソング風、というところか。
ロイド・ウェバーにしてはいずれも素直な作風で、ユーモラスな挨拶の歌「The Hallo Song」や陽気な「Banjo Boy」などリズミカルな楽曲が特に好ましい仕上がり。この辺はエイクボーンの嗜好が強く出ているんじゃないのかなあ。

ところで、何が“お行儀がよすぎ”るかと言うと。
1).芝居部分がのんびりしている。役者は、やや誇張されたコミカルな役柄を過不足なくこなしてうまいのだが、その枠から出なさ加減が物足りない。つまり、演出が“お行儀がよすぎ”る。
2).加えて、芝居→歌→芝居→歌→芝居、という判で押したような構成も“お行儀がよすぎ”て単調な印象。
要するに、構造としてはプレイ・ウィズ・ミュージックに近く、しかもプレイ部分のノリが悪い。そのせいか、ノスタルジックと言うより古臭いという感じがしてしまう。

昨年秋から冬にかけて2か月ほどコネティカットでやっていたようだが、そちらの仕上がりはどうだったのだろう 。本家ロンドン版は、残念ながら以上のような理由で(少なくとも個人的には)当たりになり損ねた。>

byjeeves

バーティ役スティーヴン・ペイシー、ジーヴズ役マルコム・シンクレア。
『Jeeves』及び『By Jeeves』の原作はP・G・ウッドハウスの連作小説で、「執事ジーヴス」シリーズとして翻訳出版されてもいる(出版社によってジーヴズという表記もある)。また、ミュージカル『By Jeeves』自体も『天才執事ジーヴス』の邦題で後に翻訳上演された。
ちなみに、ミュージカル『Jeeves』の演出家はエリック・トンプソン。

The Chronicle of Broadway and me #125(Jesus Christ Superstar)

199612月@ロンドン(その2)

img_1307

『Jesus Christ Superstar』(12月17日19:45@Lyceum Theatre)は、すでに劇団四季で観ていたはず。なぜなら、その時の主演が山口祐一郎で、彼は1996年に四季を退団しているから。ま、それはそれとして、以下、当時の感想。

<11月に幕を開けた『Jesus Christ Superstar』。ウェスト・エンドでは初演(1972年8月)以来のリヴァイヴァルだという 。
アンドリュー・ロイド・ウェバーにとっては『Joseph And The Amazing Technicolor Dreamcoat』に次ぐティム・ライス(作詞)との2番目のコラボレーションで、彼らのブロードウェイ・デビュー作にして出世作だ (本格的舞台化は『Jesus Christ Superstar』の方が半年早い)。
四半世紀を経て世紀末のロンドンに登場した聖書ミュージカル(ジーザスが磔刑になるまでの7日間を描いている)は、コロシアムを模した装置が秀逸で、歯切れのいい演出と相まって、完成度の高い舞台に仕上がっていた。

舞台奥に、舞台を囲むようにコロシアムの内壁がある。床は中央が盛り上がったマウンド状になっていて、その中心部の畳3畳分ほどが上下移動可能。人物は、壁の正面部分にあるコロシアム出入口と舞台袖から登退場するが、2、3階のボックス席をつぶして足場が組んであって、そこにも出没する。さらに、舞台上に吊した橋が隠されていて、下がってくるとボックス席の足場と合体し、人が行き来する。
なぜコロシアムか。人々は、ジーザスを見殺しにしただけでなく、その受難を見世物のように興奮しながら観ていた、という隠喩だろう。。
冒頭、ジーザスとユダ以外のキャストが全員舞台に登場し、客席を挑戦的に見渡すのだが、それはあたかも、あなた方の座っているのはコロシアムの客席であり、これからジーザスの受難の一部始終を目撃することになるが覚悟はよろしいか、と言っているかのようだった。そして、あなた方も結局はジーザスを見殺しにする共犯者なのだと。
それを象徴するかのように、コロシアムの内壁最上段の左右に作った客席に現実の観客を入れていた。つぶしたボックス席の替わりという意味もあるだろうが(それにしてもあの席は観にくいだろうと思う)。

実を言えば、このミュージカルにつきまとう、そうした意味ありげな、もったいぶった感じが野暮ったくて嫌いなのだが、それにもかかわらず、仕掛けは凝っているがデザインは簡素な印象のこのセットと、スピーディな展開、それに効果的な照明とで、気分的に滞ることなく最後までぐいぐいと引っ張っていかれた。
演出は主にオーストラリアで活躍しているゲイル・エドワーズ、装置と衣装はジョン・ネイピア、照明はデイヴィッド・ハーシー。
ユダはズービン・ヴァーラ、ジーザスはスティーヴ・バルサモ。出演者の水準は高かった。>

jesuschrist2

当時、この作品とエルヴィス・プレスリーとの関連性を妄想気味に考証した「ジーザスとエルヴィスのメンフィスな関係」という文章も書いているので、そちらも近日中にアップします。

こちら

The Chronicle of Broadway and me #124☆(1996/Dec.)

199612月@ロンドン(その1)

3年ぶり2度目のウェスト・エンド(41歳)。

ちなみに、この観劇旅行の分から旧サイト(1997年5月1日正式オープン)で感想を公開し始めた。

12月17日 19:45 Jesus Christ Superstar@Lyceum Theatre Wellington St., WC2
12月18日 15:00 Nine@Donmar Warehouse Theatre Earlham St., WC2.
12月18日 19:45 By Jeeves@Lyric Theatre Shaftesbury Ave., W1
12月19日 15:00 Martin Guerre@Prince Edward Theatre Old Compton St., W1
12月19日 19:30 Scrooge@Dominion Theatre Tottenham Court Road, W1
12月20日 19:30 Jolson: The Musical@Victoria Palace Theatre Victoria St., SW1E
12月21日 14:30 Riverdance: The Show@Apollo Hammersmith Theatre Queen Caroline St., W6
12月21日 19:30 Oliver!@London Palladium Theatre Argyll St., W1

前回の目玉は何はともあれパティ・ルポンの『Sunset Boulevard』だったわけだが、この時は、そこまでの話題作はなかった。
あえて言えば、1996年のオリヴィエ賞ミュージカル作品賞受賞の『Jolson: The Musical』と、開けて1997年に同賞を受賞する『Martin Guerre』。それに、アンドリュー・ロイド・ウェバーの初期作品のリヴァイヴァル2本、『Jesus Christ Superstar』『By Jeeves』。
てことは、この年辺りがロンドンにおけるロイド・ウェバーの量的なピークだったのか。後の2本について、当時の感想に、<現地の劇場窓口に置いてある上演中の演目一覧表ロンドン・シアター・ガイドを開いてチェックすると、『Sunset Boulevard』の他、『Cats』『Starlight Express』『The Phantom Of The Opera』と、ロングランを続けるロイド・ウェバー作曲のミュージカルが3年前と変わらず並んでいるが、ここに1996年新たに加わったのがこの2本。>と書いている。
しかしながら、いろいろと面白かったのは、上で触れなかった作品だったりして、なかなか楽しい2度目のロンドンだった。

個別の感想は別稿で。

 

The Chronicle of Broadway and me #123(Noise/Funk[2]/How To Succeed In Business Without Really Trying[3])

再見の2本について簡単な追加感想を当時書いているので、最小限で掲載。

img_1301

Bring In ‘Da Noise, Bring In ‘Da Funk(Noise/Funk)』(6月25日20:00@Ambassador Theatre)

<5月に観た中で限定公演の『Chicago』を除けば最高だった、と言うか、これまで観た中でも最も創造的なミュージカルの1つだったのが、『Noise/Funk』こと『Bring In ‘Da Noise, Bring In ‘Da Funk』。トニー賞でも見事4部門(演出、振付、助演女優、照明)で受賞した。そのせいかボックス・オフィスでチケットが買えず、当日に限り午後2時半から売り出される2階後方席の$20チケットを並んで買ったのだが、1時半に行ったらすでに20人近く並んでいたという人気振り。

前回書かなかったことで言えば、トニーの助演女優賞を獲得したアン・デュケネイの多彩な唱法も楽しみの1つ。本来のブルーズ/ゴスペル的歌唱からビリー・ホリデイの物真似まで、聴き込むともっと面白いことが出てきそうな趣向が凝らされている。>

img_1300

How To Succeed In Business Without Really Trying』(6月26日14:00@Richard Rodgers Theatre)

『H2$』こと『How To Succeed In Business Without Really Trying』が7月14日で幕を閉じた。主演のマシュー・ブロデリックが一旦役を降りた時に客足が落ちたらしい。今回は、そのブロデリックが復帰していた。
観るのは3度目。前回(昨年6月19日)の印象が1回目(昨年3月22日)に比べて必ずしも芳しくなかったので、閉まる前にもう一度確かめたかったのだが、実によく出来ているのが改めてわかって、大いに楽しんだ。

ことに楽曲(フランク・レッサー)の繰り返しのうまさ。1度目に歌われる時と2度目とで、歌う人間や状況が変わっていて、歌の意味がまるで違ってくる。
典型的なのが「Been A Long Day」。
「(It’s)been a long day.」というのは「お疲れさま」っていうニュアンスじゃないでしょうか。つまり、時は退社時。場所はエレベーター前。同じ会社に勤める人物が3人、エレベーターが来るのを待っている。両端の2人(男女)はお互い相手に対して思ってることがあるが口に出せない。ところが真ん中の人物は全てお見通し。その人物が、「Now she’s thinkin’」と歌うと女性の方の心の中が歌になって聴こえ、「And he’s thinkin’」と歌うと男性の心の中が聴こえてくる。これがこの楽曲の構造。
3人とは、互いに相手に好意を持っている主人公とヒロインのローズマリー、間に立つのは2人を応援しているスミッティ女史。夕食に誘って欲しいローズマリーと、誘おうかなと考える主人公の仲を、女史がなんとか取り持とうとする場面。歌はじれったくも微笑ましい。
ところが、その3人がエレベーターで立ち去った後に出会う別の3人は、恐妻家の社長と秘書として入社した愛人、間にいてニヤニヤするのは出世を狙う社長の甥(妻の妹の息子)。弱みを握られた者と握った者によって歌われ、勢い楽曲は皮肉なムードに変わる。
あるいは「I Believe In You」の場合。
トントン拍子に出世する主人公を妬む人間は多い。そんな連中と一緒になった役員専用の洗面所で、鏡に向かってややナルシスティックに自分を励ます主人公の歌。つまり、ここでの“you”は自分のこと。
そうやって副社長にまで登り詰めた主人公だが、失敗して会社を大混乱に陥れ、姿をくらます。そんな主人公を思いやってローズマリーが同じ楽曲を歌う。ここでの“you”は、あなた(主人公)だ。
こうした、ミュージカルならではのひねりの効いた繰り返しが他の何曲かでもあり、そのアイディアにシビレる。

ブロデリック復帰後の『H2$』の話題の1つが、実生活でもガールフレンドだというサラ・ジェシカ・パーカーがローズマリーを演じていることだが、このローズマリーが実にいい。ちょっと怖いくらいイノセントで、でもチャーミングなローズマリーを、パーカーはかなり戯画的に演じて、役柄の輪郭クッキリ。オリジナルの配役では他の強烈なキャラクターの陰に隠れ気味だったのが、すっくと立ち上がって見えた。>

サラ・ジェシカ・パーカーとは、後に『Once Upon A Mattress』のリヴァイヴァルで再会する。

The Chronicle of Broadway and me #122(Curtains/Pilobolus Dance Theatre)

ミュージカル以外の2本をまとめて。

img_1298

『Curtains』(6月24日20:00@John Houseman Theatre)が上演されていたジョン・ハウスマン劇場は2005年5月にクローズしている。場所は、今で言うと、シアター・ロウやプレイライト・ホライズンズのある一角と、シグニチャー・シアターの間。再開発されて、今は大きなアパートメントが建っている。
以下、当時書いた『Curtains』の感想。

<『Curtains』はイギリス産。体が不自由になってしまった老人を抱える家族のブラックな笑いを含んだプレイで、たまらなくおかしいところもあるが、コメディとして観ると中途半端な印象。

設定は1987年のバーミンガム。年老いた母親の誕生日を祝うために集まる子供やその伴侶たち。しかし皮肉なことに、当の母親は、車椅子の不自由な生活を強いられているうえにボケの兆候もあって、出来れば安らかに死んでしまいたいと思っている。そこに、何年もの間ゆくえがわからなかった甘やかされて育った末娘が平然と帰ってきたりして、事態はしだいに混乱していく。

場内に入ると、居間を模したのセット中に車椅子に座った母親役が、(おそらく開場時から)蝋人形のように身動きもせずにいて、驚く。隣り合わせた中年の女性との開幕前の会話。
僕「Is she alive?」
女性「Maybe. I hope so.」
そんな際だった登場(?)だから、てっきり母親が主役なのだと思っていたら、第1幕の最後に娘に殺されてしまうので、さらに驚く。そして、その殺害場面が、作品中最も面白いのだ。
夜中に母親と2人きりになった娘の1人が、まず母親の飲み物に睡眠薬らしき物を入れようとする。が、思い直して直接口に入れることに。じっとしている母親の口を開いて、震える手で1錠ずつ飲ませていくが、迷う気持ちを振り払うように突然一気に口に含ませようとして、やはり止める。すると今度は、それまでおとなしくしていた母親が、自分からボリボリと薬をむさぼり始める。それを見た娘は、意を決してソファの上のクッションをつかみ、母親の顔に当て、押さえつける。ところが、苦しがって手足をバタバタさせる母親は、さっきまでは生きながら死んでいるように見えたのに、なかなか死なない。ぐったりと動かなくなるまでに5分はかかったと思う。
母親が薬をむさぼり食うところ、娘が必死で窒息させようとするのになかなか死なないところ、沈痛きわまりないシーンなのだが、これが笑える。悲しくておかしい。
この場面の充実振りに比べると、その殺人をめぐってドタバタする第2幕は、読み通りの展開で期待外れ。もっとも、イギリス式のユーモアが日本人観光客にわからなかっただけなのかもしれないが。>

img_1297

『Pilobolus Dance Theatre』(6月27日20:00@Joyce Theatre)の当時の感想には、「無邪気で“エッチ”なダンス・カンパニー」というタイトルを付けていた。以下、続き。

<いつも面白そうなダンス・カンパニーが公演しているジョイス劇場には一度行ってみたいと思っていたのだが、初めて観に行った公演が、こんなに楽しくて素晴らしかったのはラッキーだった。ピロボラス・ダンス・シアター。ダンサー6人の小さなカンパニーだが、ユーモラスでちょっと“エッチ”なパフォーマンスは、ワン・アンド・オンリーの魅力にあふれていた。

この日最初のナンバー(ナンバーという呼び方でいいのでしょうか)「Untitled」。ニューイングランド風のスカート丈の長い夏のドレスを着た女性が2人、のどかな風情で床に座っている。1人がゆっくり立ち上がると、もう1人も誘われたように立ち上がる。それを見た最初の女性が今度はグッと背伸びをする。すると、驚くことに3メートル近い高さになる。それまでニコニコしていたもう1人は一瞬顔をこわばらせた後、負けじとばかりに同じように背伸びする。3メートル近い女性2人が、草原を駆けめぐるように舞台上で軽やかに踊り出す。
種明かしをすれば、スカートの中で別のダンサーが肩車しているわけで、そのことは最初に女性が背伸びをした時に、一瞬ドキッとした後ハハーンとわかる。で、観ている方は、その上半身と下半身とのコンビネーションの絶妙さに感嘆しながらも、なんだかクスクス笑ってしまうのだが、ここにもう一つ隠し味がある。“足”役の2人のダンサーが全裸の男性なのだ。スカートが舞い上がった時にはっきり“それ”がわかる。
肉体の魅惑の誇示はダンスには付き物だが、ピロボラスの場合それは子供っぽい茶目っ気と背中合わせになっていて、親しみに満ちている。だがら、「うーむ、エロティック」というよりも「ふふ、エッチ♪」という印象。その後のナンバーも、男女共Tバック的サポーターを着けただけのほとんど全裸状態でからみあったりするのだが、どこか親しげな感じは変わらない。もちろんパフォーマンスそのものは技術的に高度であるに違いないのだが、むしろ、観ているうちにダンサー(や振付家)の“遊戯”に参加している気分になってきて、ニコニコウキウキしてしまう。
カーテン・コールに到っては、舞台一面に敷かれていたビニールの上に水を流し、ダンサーが1人ずつ両袖から思い思いのポーズで(水泳、サーフィン、昼寝……)飛沫を上げながら反対の袖まで滑っていくという楽しいもの。

ピロボラスは、1人あるいは少数の優れた指導者(振付家)がいて、その作品を実現するためにダンサーがいるというダンス・カンパニーではない、と思った。ダンサーが奉仕しているのでなく、心から楽しんで(苦しさもあるだろうが)踊っている、それが伝わってくるから、ニコニコウキウキさせられてしまうのだろう。
機会があったら、ぜひご覧あれ。>

今でも活動は続いていて、この(2019年)6月には、やはりジョイス劇場での上演が決まっているようだ。公式サイトはこちら