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八月納涼歌舞伎 第三部/新版 雪之丞変化@歌舞伎座 2019/08/12 18:30

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毎年、三部構成で若手を中心に座組みをし、様々な試みが行なわれる歌舞伎座『八月納涼歌舞伎』。今年は、その第三部が『雪之丞変化』(ゆきのじょうへんげ)。坂東玉三郎の演出・主演による「新版」だが、これが面白かった(脚色/日下部太郎、補綴/板東玉三郎)。

三上於菟吉(みかみおときち)の小説(1934年~1935年朝日新聞連載)を原作とする『雪之丞変化』は、こんな話。
江戸で売り出し中の中村菊之丞一座の人気女形・中村雪之丞は、敵討ちの誓いを胸に秘めていた。相手は元長崎奉行・土部三斎とその一味。彼らに陥れられ、財産も名誉も命までも奪われた長崎商人夫婦の子・雪太郎、というのが雪之丞の正体だった。三斎を江戸で見つけた雪之丞は、義賊・闇太郎の助けを借りて、悲願を果たそうとする。

映像化が複数あるが、観たことがあるのは1963年の市川崑監督版で、長谷川一夫が1935年~1936年の第1回映画化(林長二郎時代の三部作)以来の雪之丞を演じている。これが、市川崑ならではのシャープな映像と相俟って観応えのある出来。
長谷川一夫の雪之丞は妖艶。同時に二役で闇太郎を演じていて、こちらは鯔背(いなせ)な魅力全開、と見事な主役っぷり。
ついでに言うと、お侠な女スリお初に扮する山本富士子が素晴らしい。他に、昼太郎という闇太郎のとぼけたライヴァル役で市川雷蔵が出てきたり、勝新太郎や若尾文子も出てきて……。なんでも長谷川一夫の300本目の記念映画ということで、大映オールスター映画になっているらしく、悪役の土部三斎には重鎮、二代目中村鴈治郎が収まっている。

脇道に逸れたが、雪之丞にはそんな長谷川一夫のイメージがあったものだから、「新版」は意外だった。なにしろ、登場した雪之丞は、舞台上で意趣返しの刃傷沙汰を演じると敵討ちのことが頭に浮かんで我を忘れてしまう、という繊細な人物になっているのだ。

そのことが冒頭の劇中劇で明かされるのだが、その趣向がシャレている。
前述したように八月納涼歌舞伎は三部制なのだが、第一部の演目に『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)がある。監修(事実上の演出)が玉三郎で、中村七之助が女形の大役・政岡を演じている。
で、第二部を挟んで第三部。『雪之丞変化』の幕開きが菊之丞一座による『伽羅先代萩』の一場面という設定で、政岡が我が子千松を殺した八汐を刺すところ。政岡は雪之丞で、自身の敵討ちをイメージしてしまい、演技を忘れる。それを八汐を演じる先輩女形・星三郎に諫められ、我に返る。すなわち、雪之丞の秘密に迫るエピソードなわけだが、その配役。もちろん政岡=雪之丞は玉三郎。そして八汐=星三郎が、なんと七之助。朝から観てきた観客は、ニヤリとせずにはいられない仕かけになっている。
の趣向については、こちらにも書いたが、観客へのサーヴィスであると同時に、後進(七之助)を育て、かつ自身も新たな挑戦をするという二重三重の意図を感じて、楽しい

観客へのサーヴィスということで言うと、雪之丞と星三郎が“女形観”を語り合う場面もそう。
後輩の雪之丞(大先輩の玉三郎)と先輩の星三郎(若手の七之助)という逆転した立場そのものも面白いが、そこで語られるのが、七之助が実際に演じた、あるいは近々実際に演じる役の話だったりして笑いが起こる。歌舞伎座では、観慣れていない人たちの場違いな笑いがしばしば起こるが、この笑いは温かかった。

ま、ともあれ、そんなサーヴィス精神も見せながら、一方で大胆な映像使いで冒険もしてみせるのが、納涼歌舞伎ならでは。舞台奥のスクリーンだけでなく、複数の可動式パネルに、演技をする役者や踊る玉三郎が映し出される。舞台作品での映像使いについては賛否あると思うが、この作品に関しては功を奏した。
その映像使いのキモが、市川中車の五役。雪之丞の師匠・菊之丞、敵役・土部三斎、雪之丞を助ける闇太郎、雪之丞に剣法指南をする脇田一松斎、雪之丞を見守る孤軒老師、の五役を舞台と映像の両方で演じるのが市川中車で、よく計算されたタイミングはもちろんだが、映像でアップになった時の迫力とうまさが、長年その世界でやって来た、この人ならでは。ちなみに、生の玉三郎と映像の中車との会話シーンは、自然に見えたが、映像をその場で操作してタイミングを合わせているんだろうと思う。

「新版」の話そのものは、敵討ちと芸道の間で揺れる雪之丞が、宿願を果たした後、芸を究めていく決意を固める、という方向で収まる。が、まあ、そうしたテーマのようなものよりも、見せ場の多い面白い舞台として、納涼歌舞伎の中で成果を上げた作品だった。

 

[Tony2020] freestyle love supreme@Booth Theatre(222 W. 45th St.) 2019/10/24 19:00 David Byrne’s American Utopia@Hudson Theatre(141 W. 44th St.) 2019/10/26 21:00

 

 

 

この2作品がトニー賞に関わってくるかどうかは、カテゴリーの関係もあり、今のところわかりませんが、とりあえずの話題作。こちらにリポートを書きました。

また、これらに続いて登場する予定の“音楽的”注目作について、無料配信音楽誌ERISの第28号に書きました。併せてお読みいただければ幸いです。

[Tony2020] Tina: The Tina Turner Musical@Lunt-Fontanne Theatre(205 W. 46th St.) 2019/10/23 20:00 The Lightning Thief: The Percy Jackson Musical@Longacre Theatre(220 W. 48th St.) 2019/10/27 18:30

 

 

2019/2020シーズン秋のブロードウェイ新登場ミュージカル2本について、こちらにリポートを書きました。読んでみてください。
『Tina』は6月にロンドンで、『The Lightning Thief』は2017年3月にオフの劇場で観た作品。なので、できれば観ないですませて、その時間、他の作品にあてたかったのですが、観なきゃ観ないで気になるという(苦笑)。
なお、『The Lightning Thief』は1月5日までの限定公演となっています。

God Of Stars~食聖~/エクレール ブリアン@東京宝塚劇場 2019/10/03 18:30

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紅ゆずるは、けっして器用な役者ではない。与えられた役になりきるのではなく、どんな役も紅ゆずる以外の何者でもないキャラクターにしてしまう。そういう感じ。
ことにトップになってからは、そうだ。そこが素晴らしい。

よく考えると、普通の人間じゃない役が多かった(笑)。『オーム・シャンティ・オーム~恋する輪廻~』のオーム・カプールはリインカーネイション、「RAKUGO MUSICAL」と銘打った『ANOTHER WORLD』の康次郎は成仏しそこねた死人、「異次元武侠ミュージカル」『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀』の凜雪鴉(りんせつあ)は別世界の超人、そして、今作『God Of Stars~食聖~』のホン・シンシンも元々は天界の人。多少の差異はあれ、いずれも深刻な状況を跳ね返して我が道を行くキャラクターだ。加えて義に厚い。とにかく、変わった設定に個性のもたらす力技で説得力を与えていく、そんな役者だ。
「先生」方もそれを知ってか、けっこう無茶振りしてきた。こうした超「人間」的なものだけじゃなく、例えば、菊田一夫の古臭い『霧深きエルベのほとり』のカール・シュナイダーなんて、紅ゆずるなればこそのパワーで現代でも観ていられる人間になったと思う。

『God Of Stars~食聖~』は、宝塚歌劇の公式サイトによれば、「紅の集大成的な作品にしたい」ということで、『オーム・シャンティ・オーム~恋する輪廻~』『ANOTHER WORLD』『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀』の要素を採り入れた……と、これは作者である小柳奈穂子の言葉。さすが、わかってやってらっしゃる。
脚本自体の仕上がりは80点ぐらいの出来だが(例えば、華形ひかるとケンカ別れした紅ゆずるが綺咲愛里の屋台の前で倒れて、結果、かつて敵対していた彼女たちの味方になる件とか、都合よすぎ)、それを乗り越える紅ゆずるの力を計算に入れた上で、細部にこだわらず荒唐無稽なストーリーにしたのが功を奏した。ストーリーの説明は省略させていただきます(笑)。ヒャダインによるテーマ曲もイメージぴったり。
礼真琴演じる普段は引っ込み思案だけど調子に乗るオタクの設定もハマって面白く、綺咲愛里もこれまでで一番と思わせる出来。

酒井澄夫作・演出のショウ『エクレール ブリアン』は一転して端正な仕上がり。これもまた紅ゆずるの個性のひとつ。よかった。
中でも、歌劇団のショウの後半に必ずと言っていいくらいに挿入される、尺の長い全員によるダンス・シーン。名場面が多いが、今作のラヴェルのボレロをモチーフにしたナンバーも印象に残った(音楽/𠮷田優子、振付/若央りさ)。
それにしても、紅ゆずるの、ちょっと蛇を連想させもする、しなるような「手」の動きの素晴らしさ。忘れがたい。

君の輝く夜に~FREE TIME, SHOW TIME@日本青年館ホール 2019/09/05 14:00

君の輝く夜に

元ジャニーズ(稲垣吾郎)、元宝塚(安寿ミラ/中島亜梨沙)、元四季(北村岳子)という、現代日本ミュージカル界を象徴するようなキャスティングのショウ。
惹かれたのは、楽曲がオリジナルであることと、その作曲者が佐山雅弘(昨年11月に逝去)であること。そして、安寿ミラと北村岳子が出ていること。とはいえ半信半疑でチケットを取った。結果、緩くはあったが、けっこう楽しく観た。

まず、開演前からバンドが舞台上にいて演奏しているのがいい。
ピアノ(佐山こうた)、ギター(三好“3吉”功郎)、ベース(バカボン鈴木)、パーカッション(仙波清彦)のリズム隊にヴァイオリン(高橋香織)が加わった腕利きのクインテットが、気持ちよくスウィングしている。佐山こうたは佐山雅弘の子息。
数曲スタンダードを演奏の後にバンドの手前に半透明のパネルが下りて、舞台上は飲食店の店内になる。

イメージとしては千葉か神奈川の海から遠くない土地。幹線道路脇にあるドライヴイン・レストラン兼モーテルが舞台。店の経営者兼シェフ兼店員(北村)と3人の客(稲垣、安寿、中島)の1泊2日の物語で、途中に話と関係なく4人によるショウ場面が挟まる。
物語の方は、10年後の同じ日にこの店で会おうと約束していたという稲垣の元恋人が現れるのかどうか、という興味を中心に回る。もっとも、観客にしてみれば、北村、稲垣、中島の順で登場し、最後に出てくる安寿が稲垣の待っている相手でないことがわかった瞬間に、元恋人は100%現れない計算になるのだが。
ともあれ、劇中では3人の女性が、諦めがちになる稲垣を励ましつつ夜中の12時までは待とうという話になる。で、その時間を過ぎたらみんなで飲もう、と。実に緩い(笑)。

緩いにもかかわらず飽きずに観ていられるのは、4人のイメージに合わせたキャラクター設定と、それに沿った細かいやりとりや、歌われる楽曲の内容が面白いから。それも、「欧米か!」とツッコミたくなるような洒落た方向に持っていくんじゃなく、やや下世話な感じで終始するのがいい(アジフライの歌とか)。一途なチャラ男(10年前の恋人を待ちつつ、目の前の女性をそれとなく口説かずにはいられない)稲垣吾郎を触媒にして3人の女性がそれぞれ個性を表す、という構造もわかりやすい。
でもって、期待通りに北村岳子と安寿ミラが持ち味を発揮。冗談めかしてるけど本気なのとグイグイ稲垣に迫ったりする北村。クールで謎めいていながら自ら中高年と開き直って見せる安寿。この2人の若干「素」をまぶしての掛け合い場面は作品のハイライトだ。
最終的に稲垣が全員にフラれるというオチも、らしくキマってスッキリ。

幕間なしの約2時間。休憩を入れるとダレるだろうという判断も的確(笑)。たまには、こういうのもいい。
作・演出/鈴木聡。

 

 

怪人と探偵@KAAT神奈川芸術劇場 2019/09/15 18:00

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テーマ曲が東京スカパラダイスオーケストラ、音楽監督が島健、という情報でチケットを取った『怪人と探偵』。スカパラのテーマ曲は短いインストで、カッコいいけど呆気なかったが、島健の編曲は(ことに終盤)大いに盛り上げてくれた。
とは言うものの、途中までは、うーむ、と思いながら観た。

森雪之丞の「作・作詞・楽曲プロデュース」ミュージカル第3弾『怪人と探偵』。タイトルから想像がつくように、中身は、江戸川乱歩が創造した怪人二十面相✕明智小五郎のミュージカル。なのだが、観ていて、「怪人」にはもう1つ意味があることに気づいた。
ミュージカルで怪人と言えば、『The Phantom Of The Opera』。俗世間に背を向けた怪人が愛する女性を手に入れようとして起こる悲劇、という物語の骨子が全く同じ。
そのことに気づかされるのが大階段での仮面舞踏会シーン。ファントムの「Masquerade」のイメージそのまま。意図的なオマージュなのだと思うが、どうだろう。

そうした構造が明らかになる後半が面白い。ヒロインを秘密のアジトに連れ去るとか、まんまやってる感じでニヤニヤする。
前半は、秘宝奪取の予告だのなんだの、二十面相モノのデフォルトともいうべき要素に則ったドタバタの展開で、ダンスやイリュージョンぽい演出も挿入されるが、やや退屈。というのも、人間関係がまだよく見えていないからで、ドラマのないところで大騒ぎになっても盛り上がらない。『The Phantom Of The Opera』の前半の怪人による騒ぎが面白いのはオペラ座乗っ取り騒動があるからで、ここはやはり、二十面相と明智とヒロインの関係を(謎として伏せる部分は伏せたままでもいいので)何らかの形で初めに提示しておくべきだったのではないだろうか。

後半が面白くなる理由の1つに、二十面相の被害者を装っていた悪徳エセ富豪夫婦、今拓哉と樹里咲穂の存在もある。途中で正体がバレそうになって彼らがユーモラスに活躍し始めるのだ。主役級がしんねりむっつりなキャラクター設定な上に、明智周辺の人物が数が多い割に個性に乏しいので、彼ら2人が活きる。ことに樹里咲穂。こういう役をやらせると光る。
ちなみに、このコンビ、養女を利用して金儲けしようとする辺りも含め、テルナディエ夫妻の印象。これも意図的か。

楽曲(作曲/杉本雄治)は、よくこなれているし、曲調にヴァラエティもあり、メリハリもある。この1曲! という目玉には欠けるが、悪くない。

ただ、『The Phantom Of The Opera』がそうであるように、この怪人の物語にも深みはない。行動の動機として、二十面相が俗っぽい正義に対する憤りを表わしはするが、掘り下げもその辺りまでだ。そもそも乱歩の原作世界が“深み”といった概念とは無縁のところで成立しているわけだから、それでいいのだろう。俗世間に背を向けた怪人が愛する女性を手に入れようとして起こる悲劇。それで充分なのかもしれない。
とはいえ、二十面相が初めて我々の前に姿を現した昭和十年代前半に似ているであろう不穏な空気の立ちこめる現代の日本に生きる観客としては、彼に、時の権力をアッと言わせるような活躍をしてほしいと願わずにはいられない。執筆中止に追い込まれた戦前の意趣返しの意味も込めて。そこが物足りないと言えば物足りなかった。
……のだが、最後に暗示されたのは怪人の密かな勝利か。だとすれば次があるのか。楽しみに待とう。

(追記)
書き忘れてましたが、オケは録音でした。とても残念。

FACTORY GIRLS~私が描く物語~@赤坂ACTシアター 2019/10/08 13:00

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主人公サラ・バグリーは実在の人物で、『リトル・ウィメン~若草物語~』の原作者ルイーザ・メイ・オルコットと同時代に、やはりマサチューセッツ州周辺で生きた。生まれはオルコットより26年早い1806年。亡くなったのはオルコットの1年後の1889年。
女性の権利について先進的な考えを持っていたオルコットが、紡績工場で働く女工たちのリーダーとして労働条件改善のために動き、その後も様々な社会活動に身を投じたバグリーのことを知っていた可能性は充分にある。
いずれにしても、『FACTORY GIRLS~私が描く物語~』は、そんな時代(南北戦争勃発前後)のアメリカの、社会意識に目覚めていく女性たちの物語。そこには、『リトル・ウィメン~若草物語~』では描かれなかった、より過酷な生き方を強要される工場労働者たちが登場する。だからと言って、『リトル・ウィメン~若草物語~』以上の深みを獲得しているかというと、そうでもない。その原因は……?

クレイトン・アイロンズとショーン・マホニーの共作による原型ミュージカル『Factory Girls』は、まず、2009年のNAMTフェスティヴァル・オブ・ニュー・ミュージカルズで上演されたらしい。その後、2016年の初頭にフィラデルフィアの小劇場でリーディングによる公演があった、という記事も見つけた。
それが、ここに来て、「日本のクリエイティブ・チーム」と「共作し、世界に先駆け上演する」ことになったのは、現地で出資者が見つけられなかったからか(「」内は公式サイトより引用)。
以下、自分が出資者なら、という仮定で考えてみる。

『Ragtime』というミュージカルがある。1997年暮れにブロードウェイでプレヴューを開始、2000年1月までロングラン上演された。2009年には別のプロダクションによるリヴァイヴァル版もブロードウェイに登場した。
19世紀から20世紀に変わる頃のニューヨーク周辺を舞台にして、急速に進展していく資本主義社会の渦の中で生きる(最初期移民)WASPと(強制移民)アフリカ系と(後発移民)ユダヤ系に象徴される様々なアメリカ人たちの運命を描いたミュージカルで、初演では、スケールが大きいが故に名手テレンス・マクナリーの脚本をもってしても細部にまで充分には手が届かない感があったが、それでも、アメリカという国(の歴史)を重層的に表現するという意味において一つの頂点を示した作品ではあった。
それを基準に考えると(後発の作品は先行作と比較されざるをえないから)、『Factory Girls』の世界は狭く、一面的だ。ここで描かれるのは、あくまでアメリカ東部の白人社会の一角で起こった出来事。同時代に他のどこかで起こっている何かを想起させるような重層性は持たない(話題は出てきても表面的)。軸になる、利益を上げるために女工を酷使する会社VS.人間らしい生活を望む女工たちという対立構造は、資本主義社会の重要な案件ではあるが、それだけでは、観客の好奇心を喚起するという見地からすると物足りない。
もちろん、そこに今日的な「#MeToo」の要素を見出すことは可能だが、あまりに両者の対立関係が「#MeToo」の典型すぎて、ドラマとしては逆に図式的に見えてしまい、意外性に乏しい。
つまり、出資案件としては、興行的には題材そのものに魅力を感じにくい。

では、人間ドラマの方はどうか。
サラ・バグリーと並んでダブル主人公的なハリエット・ファーリーという、これまた実在の人物が出てくる。紡績工場で働いていたが、女工たちの文集のような雑誌の編集を手がけるようになり、彼女たちの憧れの存在となる。バグリーもファーリーに憧れて、その工場にやって来るのだが(史実かどうかは不明)、やがて2人は道を分かつ。女性の発言の場としての雑誌を守るために工場との対立を避けるファーリーと、労働条件改善のために工場と戦うバグリー。ここがドラマの鍵になる。と、まあ考える。出資者なら。
で、そこを盛り上げるためにはどうすればいいか。逆算すると出てくるアイディアは、バグリーとファーリーの、この工場に到るまでの人生の断片を描き、2人が結びついた後に道を分かつ理由の伏線を観客にわかりやすく張っておくことだろう。それがサスペンスを生むから。
しかしながら、そういった彼女たちの過去に関する表現は、具体的エピソードとしてはまるで出てこない。
そもそもバグリーが全く立体的に描かれていない。語り手(の回想という形式になっている)がバグリーの前向きなキャラクターについて観客に向けて説明するし、その通りにバグリーは行動するが、その動機づけといったものは、漠然とした正義感以外には、あまり見えてこない。実家の窮状が語られたりするものの、屈折は感じられず、だから描きにくいのかもしれないが、見方を変えると、バグリーには面白みがないとも言える。
むしろ、主人公としては二番手な扱いのファーリーの方が、苦悩が多い分、
ていねいに描かれている。それでも掘り下げが足りないが(彼女には深いトラウマがありそうに見えたのだが)。この辺が、実在の人物を登場させるオリジナル・ストーリーの限界なのか。
いずれにしても、バグリーとファーリーの同志的な結束とその決裂、という芯になるドラマを盛り上げていくべき手が打たれていない。
一方、周囲の女工たちの描かれ方も、何人かを個別に特徴づけようとしてはいるが、全体として見ると表面的で、悲惨な話も挿入されるが、例えば『Les Miserables』のフォンテーヌが働いていた工場場面などと比べると、人間の裏表を感じさせるような現実味がない。
加えて、男性たちも、ぼんやり観ていたんでは誰が誰なのか区別がつかないぐらいに個性がない。この作品の中では彼らは記号的でもいいのだが、それなりにドラマの中で演じるべき役割が与えられるべきで、気弱な協力者に見える狡猾な策謀家とか(ファーリーの婚約者がそうかと思ったが違った)、なにか観客に驚きを与える存在がほしいところだ。
要するに、ドラマのポイントが絞り切れておらず、意外性のあるエピソードも乏しい。そのため、全ての人間関係が紋切り型に見える。結果、女工VS.工場という物語の枠組みだけが強調され、興行的には魅力を感じにくい作品となる。出資者としては、という話だが。

では、なぜ、「日本のクリエイティブ・チーム」と「共作し、世界に先駆け上演する」ことにしようという出資者が日本から現れたのか。
日本版『FACTORY GIRLS~私が描く物語~』の公式サイトのクレジットには「音楽/詞:クレイトン・アイロンズ&ショーン・マホニー」と書かれていて、元版の脚本家の名前がなく、「日本版脚本・演出:板垣恭一」とある。それから推して、アイロンズ&マホニーが脚本も書いていたと思われるが、もしかしたら、出資者は「共作」による日本版の脚本で改善可能と踏んだのかもしれない。
が、結果としては、「共作」段階での練り上げが足りていないと言わざるをえない内容に終わっている。このままでは世界進出はおぼつかないだろう。
柚希礼音でこの題材、という意欲は買うが(それで観に行ったようなものだが)、作品としてはかなり不満足な仕上がりだった。

ちなみに、アイロンズ&マホニーの楽曲は可もなく不可もなし。ただ、彼らを「ブロードウェイの新進気鋭ソングライティング・コンビ」と形容するのは、両者ともにブロードウェイでの実績のない現時点では無理がある。

リトル・ウィメン~若草物語~@シアタークリエ 2019/09/10 13:30

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丁寧に作られているし、よくできてもいる。翻訳(小山ゆうな)も訳詞(小林香)もこなれて自然だった。それだけに考えさせられた。日本の翻訳ミュージカルはこれでいいのか、と。

『リトル・ウィメン~若草物語~』は、2004/2005年シーズンにブロードウェイに登場した『Little Women』の翻訳上演作品。そのブロードウェイ版は2005年2月6日に観ている。
ジョー役サットン・フォスターと母親役モーリーン・マクガヴァーンの二枚看板だったが、印象に残っているのはフォスターの凧揚げシーンだけ。よくできているがピンと来ない、というのが正直な感想だった。
観客の多くも同じ思いだったのか、あまり評判を呼ばず、トニー賞授賞式前の5月22日にクローズ。プレヴュー開始が前年12月7日だったから半年もたなかったわけだ。トニー賞もフォスターの主演女優賞ノミネーションだけに終わっている。

ルイーザ・メイ・オルコットの小説『若草物語』『続・若草物語』を再構成する形で作られたミュージカルで、時代は南北戦争の頃。マサチューセッツに住む四姉妹とその母、その周辺の人々の話だが、中心になるのは次女のジョー。「女性が職業を持って働くことが稀であった時代に、小説家をめざして世の中に漕ぎ出そうと奮闘し、夢をつかんでいくジョー。その姿は、いまだ窮屈の多い現代を生きる我々にも勇気を与え、また彼女を取り巻く家族との絆は身近な人の大切さを改めて感じさせてくれるでしょう。」と、東宝公式サイトの紹介文にある。

今回、翻訳版を観て改めて思ったのは、狭い世界の話だな、ということ。地域的にも、マサチューセッツの自宅周辺とケープ・コッド、それにニューヨークのアパートメントと狭いが、人種的にも白人しか出てこない。それも、おそらく、ほとんどがWASP系だろう。
なので、主人公ジョーが既成の社会の枠を突き破って生きていこうとする姿は痛快だが、その社会の枠は、ここに登場しない人種や階層の人々にとっての方が厳しいものであるに違いない、という風に考えてしまう。14年前、9.11からまだ4年も経っていない時期のニューヨークで、この作品を観てピンと来なかったのは、そんな理由からだったことを思い出した。
とはいえ、ブロードウェイで観ていれば、そういうことに気づく。そういう世界のただ中に劇場があり、舞台上もそういう世界の一部だから。トランプ登場後の今なら、もっと感じるだろう。
が、2019年9月の東京・日比谷の日本人ばかりが演じている舞台上には、そうした歴史観や社会観は希薄だ。おそらく、観客の多くも意識していないだろう。
確かに、女性の社会進出というテーマや家族愛のドラマには国境や文化を超える普遍性があるかもしれない。だが、違和感の方はどうなんだろう。消えてしまうのか。19世紀後半の合衆国東部に生きた白人たちのドラマと、現代の日本人の人生とが、そんなに簡単に重なり合うものなのだろうか。そこには様々な「捻れ」があるのではないだろうか。もし、そうした「捻れ」をすっ飛ばして観客が共感を覚えているとしたら、それは明治以来の自分たちを準白人だとみなすこの国の風潮と深く関係しているのではないだろうか。……なんてところにまで思いが到って、落ち着かなくなる。
繰り返すが、よくできているだけに、よけいに考えさせられる舞台だった。

役者について……てか、宝塚出身の3人について少しだけ。
ジョー役の朝夏まなとはキャラクターぴったりで魅力があった。声もよく出ていたが、終盤やや荒れてきたのは出づっぱりだったからか。さらなる精進を期待したい。
なんと言っても母親役の香寿たつき。うまさに磨きがかかっている。声も、柔らかさが増して厚みも出てきた。これからも楽しみ。
長女役の彩乃かなみも安定感があった。観るのは退団後初かも。

いつものことだが、松井るみの装置が素晴らしかった。