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八月納涼歌舞伎 第三部/新版 雪之丞変化@歌舞伎座 2019/08/12 18:30

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毎年、三部構成で若手を中心に座組みをし、様々な試みが行なわれる歌舞伎座『八月納涼歌舞伎』。今年は、その第三部が『雪之丞変化』(ゆきのじょうへんげ)。坂東玉三郎の演出・主演による「新版」だが、これが面白かった(脚色/日下部太郎、補綴/板東玉三郎)。

三上於菟吉(みかみおときち)の小説(1934年~1935年朝日新聞連載)を原作とする『雪之丞変化』は、こんな話。
江戸で売り出し中の中村菊之丞一座の人気女形・中村雪之丞は、敵討ちの誓いを胸に秘めていた。相手は元長崎奉行・土部三斎とその一味。彼らに陥れられ、財産も名誉も命までも奪われた長崎商人夫婦の子・雪太郎、というのが雪之丞の正体だった。三斎を江戸で見つけた雪之丞は、義賊・闇太郎の助けを借りて、悲願を果たそうとする。

映像化が複数あるが、観たことがあるのは1963年の市川崑監督版で、長谷川一夫が1935年~1936年の第1回映画化(林長二郎時代の三部作)以来の雪之丞を演じている。これが、市川崑ならではのシャープな映像と相俟って観応えのある出来。
長谷川一夫の雪之丞は妖艶。同時に二役で闇太郎を演じていて、こちらは鯔背(いなせ)な魅力全開、と見事な主役っぷり。
ついでに言うと、お侠な女スリお初に扮する山本富士子が素晴らしい。他に、昼太郎という闇太郎のとぼけたライヴァル役で市川雷蔵が出てきたり、勝新太郎や若尾文子も出てきて……。なんでも長谷川一夫の300本目の記念映画ということで、大映オールスター映画になっているらしく、悪役の土部三斎には重鎮、二代目中村鴈治郎が収まっている。

脇道に逸れたが、雪之丞にはそんな長谷川一夫のイメージがあったものだから、「新版」は意外だった。なにしろ、登場した雪之丞は、舞台上で意趣返しの刃傷沙汰を演じると敵討ちのことが頭に浮かんで我を忘れてしまう、という繊細な人物になっているのだ。

そのことが冒頭の劇中劇で明かされるのだが、その趣向がシャレている。
前述したように八月納涼歌舞伎は三部制なのだが、第一部の演目に『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)がある。監修(事実上の演出)が玉三郎で、中村七之助が女形の大役・政岡を演じている。
で、第二部を挟んで第三部。『雪之丞変化』の幕開きが菊之丞一座による『伽羅先代萩』の一場面という設定で、政岡が我が子千松を殺した八汐を刺すところ。政岡は雪之丞で、自身の敵討ちをイメージしてしまい、演技を忘れる。それを八汐を演じる先輩女形・星三郎に諫められ、我に返る。すなわち、雪之丞の秘密に迫るエピソードなわけだが、その配役。もちろん政岡=雪之丞は玉三郎。そして八汐=星三郎が、なんと七之助。朝から観てきた観客は、ニヤリとせずにはいられない仕かけになっている。
の趣向については、こちらにも書いたが、観客へのサーヴィスであると同時に、後進(七之助)を育て、かつ自身も新たな挑戦をするという二重三重の意図を感じて、楽しい

観客へのサーヴィスということで言うと、雪之丞と星三郎が“女形観”を語り合う場面もそう。
後輩の雪之丞(大先輩の玉三郎)と先輩の星三郎(若手の七之助)という逆転した立場そのものも面白いが、そこで語られるのが、七之助が実際に演じた、あるいは近々実際に演じる役の話だったりして笑いが起こる。歌舞伎座では、観慣れていない人たちの場違いな笑いがしばしば起こるが、この笑いは温かかった。

ま、ともあれ、そんなサーヴィス精神も見せながら、一方で大胆な映像使いで冒険もしてみせるのが、納涼歌舞伎ならでは。舞台奥のスクリーンだけでなく、複数の可動式パネルに、演技をする役者や踊る玉三郎が映し出される。舞台作品での映像使いについては賛否あると思うが、この作品に関しては功を奏した。
その映像使いのキモが、市川中車の五役。雪之丞の師匠・菊之丞、敵役・土部三斎、雪之丞を助ける闇太郎、雪之丞に剣法指南をする脇田一松斎、雪之丞を見守る孤軒老師、の五役を舞台と映像の両方で演じるのが市川中車で、よく計算されたタイミングはもちろんだが、映像でアップになった時の迫力とうまさが、長年その世界でやって来た、この人ならでは。ちなみに、生の玉三郎と映像の中車との会話シーンは、自然に見えたが、映像をその場で操作してタイミングを合わせているんだろうと思う。

「新版」の話そのものは、敵討ちと芸道の間で揺れる雪之丞が、宿願を果たした後、芸を究めていく決意を固める、という方向で収まる。が、まあ、そうしたテーマのようなものよりも、見せ場の多い面白い舞台として、納涼歌舞伎の中で成果を上げた作品だった。

 

The Toxic Avenger@Stage 1/New World Stages(340 W. 50th St.) 2009/04/11 20:00 & 2010/01/01 20:00 Rooms@Stage 2/New World Stages(340 W. 50th St.) 2009/04/12 19:00

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Peter And The Starcatcher同様、The Toxic Avengerも日本語版の上演が決まっているようなので、旧サイトに書いた感想を上げる。映画版の邦題で上演される模様。

<カルト人気を持つ同名映画のバカバカしくも破壊的な精神を受け継いで舞台ミュージカル化したのが『The Toxic Avenger』(映画邦題:悪魔の毒々モンスター)。今回(200947日~412日)のイチオシは、これですね。
モンスターになる主人公と彼が思いを寄せるヒロイン以外の役を3人の役者が演じてしまうのは、The 39 Stepsの向こうを張ったか。ことに、Urinetownの母親役ナンシー・オペルの早替わりは見もので、途中、歌舞伎『法界坊』の合体幽霊もどきの半々別人で登場する等、捨て身の大活躍。
脚本(ジョー・ディピエトロ)は、根源的な敬意があれば表面的な差別なんて問題じゃない、という成熟した文化的コンセンサスの下、あらゆる事象をとことん笑いのめす。
楽曲作者としてボン・ジョヴィのデイヴィッド・ブライアン(作曲)が参加。音楽的にも聴きどころは多い。
演出ジョン・ランドー(Urinetown)。>

9か月後に再見。<閉まることになったので再見した『The Toxic Avenger』。ナンシー・オペルはじめ、ほとんど変わらぬキャストで相変わらずの大暴走。何度観ても素晴らしい。>と書いている。
作曲デイヴィッド・ブライアン×作詞・脚本ジョー・ディピエトロのコンビは、同じ2009年に『Memphis』をブロードウェイに登場させて、翌年のトニー賞を獲る(作品・楽曲・編曲・脚本)。

上掲写真に並んで写っているので、同じ時期に同じ複合劇場で観たRoomsの感想も上げておく。

『Rooms』は2005年のNYMF(ニューヨーク・ミュージカル・シアター・フェスティヴァル→後にニューヨーク・ミュージカル・フェスティヴァルと改称)参加作品。それらしく、出演者は男女2人だけ。’70年代後半にグラスゴウでコンビを組んだ男女のミュージシャンが、注目を集め始め、ロンドン、ニューヨークと進出していき……。
簡単に言えば、成功と挫折を経て確かな愛をつかむ、という話。2人の熱演をシンプルで的確なバンド演奏が支え、 1幕90分間を濃密な4年間の人生に変えてみせる。
こういう舞台もなくちゃね、と思う。>

作曲・作詞スコット・グッドマン、脚本スコット・グッドマン&ミリアム・ゴードン。

Peter And The Starcatcher@Brooks Atkinson Theatre(256 W. 47th St.) 2012/06/02 14:00

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どうやら日本版が上演されるらしいので、旧サイトに書いた感想をアップしておきます。
ちなみに、文中にあるように、ストレート・プレイであるにもかかわらず観劇した理由は、同年のトニー賞で楽曲賞候補になったから。

<『Peter And the Starcatcher』(原作邦題:ピーターと星の守護団)は、同名小説(デイヴ・バリー&リドリー・ピアーソン著)の舞台化で、オフ(オフ・オフか?)のニューヨーク・シアター・ワークショップで上演された後にブロードウェイ入りしたようだ。
例のピーター・パン話の前日譚で、なぜピーターがネヴァーランド(“ないない島”ですな)に住むことになったか、が明かされる。そういう意味では、話の切り口は『Wicked』に似ていなくもない。雰囲気はまるで違うが。

演出は即興劇的で、12人の役者が、担当の主要な役とは別に様々な役や舞台装置(例えば「扉」や「窓枠」)に扮して“当意即妙”な演技を次々に見せていく。このあたりの感触は『The 39 Steps』に近い。
その流れで役者たちは、いかにも作り物めいた感じでミュージカルのように歌い、絶妙のコーラスを聴かせる。そんなわけで、トニー賞の楽曲賞候補(作曲ウェイン・バーカー、作詞リック・エリス)になったわけだが、むべなるかな。演奏がドラムス&パーカッションとキーボードの2人というシンプルさも、楽曲や舞台の内容と合っている。ちなみに、効果音も彼ら演奏家がジャストなタイミングで発しているのに感心した。

役者は、それぞれ個性を発揮して楽しかったが、中でも、結局トニー賞助演男優賞(プレイ)を受賞することになるクリスチャン・ボールが、鼻の下に靴墨(?)を塗って、まるでグラウチョ・マルクスが乗り移ったかのように傍若無人の活躍を見せて素晴らしい。>

クリスチャン・ボールは今作以前からブロードウェイに出ていたが、ここから一気にスターになった。
ちなみに、ヒロインはセリア・キーナン=ボルジャーで、トニー賞の候補。
「作詞」と書いたリック・エリスは脚本家で、すなわち今作では脚本がそのまま歌詞になっている。脚本家エリスのブロードウェイでのその他の仕事は、マーシャル・ブリックマンとの共作による『Jersey Boys』『The Addams Family』、そして『The Cher Show』。
装置、衣装、照明、音響でトニー賞受賞。

 

Chasing Raimbows: The Road To Oz@Paper Mill Playhouse(Milburn, NJ) 2019/10/24 13:30

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観劇当時アメリカで公開中だった(今年3月の日本公開も決まったようだ)ジュディ・ガーランドが主人公の映画『Judy』(邦題:ジュディ 虹の彼方に)が元にしているのが、舞台作品『End Of The Rainbow』。ジャンルとしてはプレイ・ウィズ・ミュージックに分類される作品だが、シドニーでプレミア上演され、ウェスト・エンド及びイギリス国内ツアーを経由してミネアポリスでトライアウトの後、2012年にブロードウェイにやって来ている。
同年3月に観たが、設定は1968年12月のロンドン。翌1969年6月22日に亡くなるガーランドの最晩年を描いている。彼女が「Over The Rainbow」を劇中で歌った『The Wizard Of Oz』(邦題:オズの魔法使)が公開されてから30年の後。それでも劇作家(ピーター・キルター)はタイトルに「Rainbow」と付けたくなる。ガーランドの全盛期は、「Over The Rainbow」以降に訪れるにもかかわらず、だ。ジュディ・ガーランドにとって、あるいはジュディ・ガーランドを知る者にとって、『The Wizard Of Oz』及び「Over The Rainbow」は。それほど大きな存在となるわけだ。結果的に。

れを前提にしての『Chasing Rainbows: The Road To Oz』。予備知識なしに観てもわかるのか、と思わないでもない表現もあるが、まあ、『The Wizard Of Oz』のマニアックな裏話『Wicked』が大当りする国において、それは愚問なんだろう。
いずれにしても、その『The Wizard Of Oz』に到るまでのガーランドが描かれるのが、この『Chasing Rainbows』。言ってみれば、『End Of The Rainbow』とは1組のブックエンドのような関係になる。ガーランドのけっして長くない人生を両側から挟む、という意味で。

「ジュディ・ガーランドの思い出は、四十年間にわたるその驚くべき功績と同じように多様なもののようだ。晩年の惨めな姿しか思い出さない人もいれば、彼女は永遠にオズの国のドロシーだという人もいる。」

「13人の女性の栄光と悲惨」という副題の付いたロビン・アーチャー、ダイアナ・シモンズ共著(塩川由美訳)による評伝本「墜ちたスター」 (原題:A Star Is Torn )のジュディ・ガーランドの章の書き出しだ。
晩年の惨めな姿というのが『End Of The Rainbow』の描くところだが、だからと言って、『Chasing Rainbows』がガーランドを永遠のオズの国のドロシーとして描いているわけではない。若くして亡くなった女優や歌手の人生をフェミニズムの視点で掘り起こした「墜ちたスター」に克明に記されているように、ガーランドの人生は生まれた時からいくつか問題を抱えていた。そして、それらは晩年に向かって深刻になっていく。その途上を『Chasing Rainbows』は目を逸らさずに描いている。
うでなくては、と思う反面、やはり、そうした負の部分を描かないとドラマにならないのか、とも思う。その辺が観客としても微妙なところなのだが、実は制作サイドもそこで迷ったのではないかと思われるフシがある。過酷な人生の予告編としてとことんシリアスにするか、全盛期を迎える直前の喜びを中心に描くのか……。全体にはよくできているこの作品に、どこか曖昧な印象が生まれたのは、そこを決めかねた迷いのせいだろう。

それが顕著になったのが終盤。
The Wizard Of Oz』の撮影に入るが、NGを連発するジュディ。激しく叱責する監督。が、MGMのボス、ルイス・B・メイヤーは、スターに向かって手を上げた監督をクビにする。そこで、映画で描かれるドロシーのキャラクターに違和感を覚えていたジュディが、普通の女の子にしては? と提案。それが受け入れられて映画は成功へと向かう。
監督交代は事実だが、理由は違うはずだ。そして、主人公のキャラクター作りについて、この(まだホンモノのスターではない)時点でのジュディの意見を採用するというのも、まず考えられない。とってつけた感の拭えない終わり方に見えた。

とはいえ、いろいろとよくできていたので、褒めておこう。
ずは、ジュディ・ガーランド役ルビー・レイコスの演技がいい。そっくりというわけではないにもかかわらず(そこがいい)、明らかにガーランドのヴァイタリティを彷彿させる力強い歌声。いきいきとした表情とはつらつとした動き。一転、日常的には自信なさげな少し猫背な立ち姿。そこに、あの頃のジュディがいるようだ(って、その頃こっちは生まれてないけど)。
タップからドラム演奏までホンモノ同様に多芸なミッキー・ルーニー役のマイケル・ウォーテラや、ドラマ的にも歌手としても重要な役割を果たす両親役のマックス・ヴォン・エッセン(父)とレスリ・マーガリータ(母)、貫禄の歌声を二役(ハリウッドの学校創設者/MGM社長秘書)で聴かせるカレン・メイソンのパフォーマンスにも、拍手を送りたい。
演出を兼ねるデニス・ジョーンズの振付も、『Crazy For You』を想起させる細かいアイディアがあって楽しいし、それをこなすアンサンブルの面々のダンスの質も安定している
実のところ、前述した曖昧さを除けば、脚本もガーランドの前半生を丁寧に追って、よくできている。書いたのは
マーク・アシート。ブロードウェイでは、第二次大戦下の日系アメリカ人を題材にしたミュージカル『Allegiance』に3人の脚本家の1人として参加していた人。ちなみに、原案は補作詞も手がけているティナ・メアリー・カサメント。

いずれにしても、このままブロードウェイにやって来ることはない気がするが、どうだろう。

 

End Of The Rainbow@Belasco Theatre(111 W. 44th St.) 2012/03/27 20:00

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『Chasing Raimbows: The Road To Oz』のアップに合わせて、こちらも、観劇当時に旧サイトに書いた感想をアップしておきます。

<ジュディ・ガーランドの最後の日々を描いた『End Of The Rainbow』は、オーストラリア産。一昨年(2010年)秋に、今回ブロードウェイでも主演しているトレイシー・ベネットを擁してウエスト・エンドに登場。半年ほど上演した後、2011年夏から秋にかけてイギリス国内ツアーに出て(って訳で昨年のロンドン行きの際には観られなかった)、今年(2012年)初めからミネアポリスでアメリカでのトライアウトを行なっていたらしい。

経済的に追い込まれ、不調であってもステージに立つしかないが、精神的にも不安定なジュディは、若い頃から常習化しているクスリとアルコールに逃避しがち。最後の夫となるミッキーと、コンサート・ピアニストであるアンソニーは、それぞれのやり方で彼女を助けようとするが、嫉妬心もあって反目し合っている。その狭間でズルズルとダメになっていくジュディ。

ロンドン産(オーストラリアはロンドンと同じ興行サーキット内なので準ロンドン産と言っていい)にありがちな“実録風そっくりショウ”の一種で、歌は劇中でガーランドの持ち歌として歌われることからして、ミュージカルと言うより“プレイ・ウィズ・ミュージック”。なので、1994年にやはりロンドンからブロードウェイにやって来た『The Rise And Fall Of Little Voice』を思い出した。どちらも、ヒロインがガーランドそっくりに歌うし(てか、こっちはガーランド役だから当然だが)、雰囲気が陰惨だし。
そもそも晩年(つっても亡くなった時は47歳!)のガーランドは、伝記の類を読んでいても読み進むのがつらくなるほど悲惨。逆に言えば、この舞台は観客の“怖いもの観たさ”の上に成り立っているわけで、そういう意味では、第2幕の“鬼気迫る”ライヴ・シーン(設定はロンドンのトーク・オブ・ザ・タウンというナイトクラブ)はクライマックスの一つではある。が、ドラマの中心は、あくまで前述の男性2人との葛藤であり、さらに言えば、最大の見どころは崩壊寸前のガーランドに成りきったトレイシー・ベネットの演技にある(トニー賞でプレイの主演女優賞候補になった)。付け加えておくと、悲惨な中にもガーランドの人としての魅力は感じられて、ユーモラスな部分もある。
という訳で、ミュージカル的な面白さを期待して観てはいけない舞台。>

Soft Power@Newman Theater/Public Theater(425 Lafayette St.) 2019/10/27 14:00

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一昨年ブロードウェイでリヴァイヴァルしたプレイ『M. Butterfly』の作者として知られる中国系アメリカ人デイヴィッド・ヘンリー・ホワンの作詞・脚本による新作ミュージカル。作曲と補作詞はジニーン・テソーリ(『Caroline, Or Change』『Fun Home』)。
これが、今や“ミュージカル大国”と化したらしい日本の住人にとっては、とてつもなく興味深い内容。日本の話はこれっぽっちも出てこないし、もちろん、作品の本質はそこにはないのだが。

いきなり作者のホワン(を演じるフランシス・ジュー)が出てきて、自分はもうこの国で生きていくことはできないのか? と嘆く。路上で暴漢に突然襲われたからだ(劇中の話になっているが、2015年に実際にブルックリンで起こった事件でもあるらしい)。そのことが、上海からやって来たプロデューサーから誘いを受けたミュージカル企画に参加する契機になる。
つまり、『Soft Power』自体が、現実を模したメタ・ミュージカル的作品であると同時に、その作品の中でもうひとつ別のミュージカルが作られる、という複雑な構造になっているわけだ。
さらに言うと、その劇中劇となるミュージカルがクセモノ。中国で大当りした映画のミュージカル化という設定なのだが、ヒロインは大統領候補ヒラリー・クリントンで、彼女と恋に落ちるのが上海からきたプロデューサー。で、クリントンとプロデューサーの関係は、逆『The King And I』とでも言うべきものになっていて、アメリカの“奇妙な”権力構造に異邦人である中国人が疑問を呈する。……だけでなく、劇中では実際に『The King And I』へのアジアからの反論的オマージュという意図をもって作られる……のだが、これが現実の観客の目にはどう観てもねじれたパロディに映る。というのも、ヒラリー・クリントン役のアリサ・アラン・ルイス以外は、劇中劇でアメリカ人を演じるのが中国系の役者たちで(中国で作っているという設定だから当然そうなる)、しかも妙に似合わない金髪のカツラを被っていたりするからだ(ご念の入ったことにクリントン役も金髪のカツラを被っている)。でもって、でき上がるミュージカルが、オーソドックスな作風の楽曲に乗って華やかなショウ場面が展開される’50~’60年代風の作りになっている(つまり、豪華だが時代遅れな感じになっている)のも、パロディ感に拍車をかける。さらには、ニューヨークが舞台なのにゴールデン・ゲイト・ブリッジが出てきたりもして、なんだかパラレル・ワールドに迷い込んだよう。
この劇中劇の発案は上海のプロデューサーで、ホワンは、その奇妙さに翻弄されながらも、自分の居場所を求めて劇作に集中しようと努力する……。

と、まあ、そんな風に二重三重にひねってある脚本が秀逸で面白い。アメリカ人としてアメリカに生まれながら、ここは自分の国なのだろうか、と改めて考えざるをえないアメリカの現実が、個人のアイデンティティと国家をめぐるリアルな寓話とでもいうべき作品を(現実の)ホワンに書かせた、ということなのだろう。

それを極東の閉鎖的な島国の住人が観るとどんな感慨を抱くか、という正面切った話は、とりあえず脇に置かせてほしい。
なぜなら、それ以前の話として、「中国人が思い描くミュージカルの中の典型的なアメリカ人を中国系アメリカ人が演じると奇妙に見える」という手法を、中国系アメリカ人としての自分(たち)の複雑な心境を描くにあたって用いる精神の、強靭さ、しなやかさに感服した時点で、極東の“ミュージカル大国”の観客としては、真面目にアメリカ人やフランス人を演じ続ける日本のミュージカルって何なんだろう、と考え込んでしまい、その先に進めなくなったからだ。

ちなみに、劇中ミュージカルの豪華さを表現するためだろう、オフにもかかわらず20人超えのオーケストラが編成されている。
演出リー・シルヴァーマン、振付サム・ピンクルトン。

観終わって帰り道に思ったのは、まさか、この作品までを翻訳上演はしないだろうな日本、ということ。まさか、ね。

 

The Wrong Man@Robert W. Wilson/MCC Theater Space(511 W. 52nd St.) 2019/10/25 20:00

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ロス・ゴランの書いた楽曲が素晴らしい。加えて、編曲がよく、振付がよく、演出がよく、役者がいい。ストーリーがさらに面白ければ、ブロードウェイに進出してトニー賞を獲ってもおかしくない。そんな風に言いたくなる作品だった。

’70年代ニュー・ソウルにラップを絡めたような感触か……と思っていると、ジェイソン・ムラーズや、時にはブルース・スプリングスティーンを感じさせたりもする音楽が、とにかく魅力的。
楽曲作者ロス・ゴランは、マルーン5、アリアナ・グランデ、ジャスティン・ビーバーから、セリーヌ・ディオン、イディナ・メンゼルに到る、幅広いアーティストに楽曲を提供、あるいは彼らと共作しているシンガー・ソングライター。
ミュージカル『The Wrong Man』は、楽曲作者アネイス・ミッチェル名義のコンセプト・アルバムという形でスタートを切った『Hadestown』同様、まずはゴラン名義のコンセプト・アルバムという形で世に出ている。という訳で、脚本を書いたのもゴラン。その後、2014年2月にロスアンジェルスでのゴラン本人によるソロ公演(ネットに上がっている画像を観る限りではギター弾き語り)を経て、今回のオフでの本格上演へと成長していったようだ。

オフ公演のゴラン以外の主要スタッフは、演出トーマス・カイル、振付トラヴィス・ウォール、音楽監修・編曲アレックス・ラカモア。この3人の緻密なコラボレーションが、ゴランの楽曲の魅力を存分に生かして舞台を一級品に仕上げている。
カイルは『Hamilton』でアンディ・ブランケンビューラー(振付)と組んで、アンサンブルを中心とするダンスと主要キャストの演技と流麗な場面転換とが一体になった躍動的な舞台を作り出したが、ウォールと組んでの今回も、10人程度の小さなカンパニーながら、やはり全体が流れるような動きを持つ。そして、『Hamilton』より規模が小さい分、振付がより細やかになっている印象を受けた。例えば、主人公と彼を誘惑する女性の気持ちを代弁するかのように登場する男女のダンサーが、近づいたり離れたりする踊りの中で、足首と足首を絡ませて離れていく身体を引き留め合う瞬間がある。その繊細さに思わず息を飲む。
そうした動きを支え、あるいは煽るのが、ラカモアの編曲による音楽。『Hamilton』『Dear Evan Hansen』の連続メガヒットで乗りに乗るラカモアの鮮度の高いアレンジと楽曲のつなぎが、作品の空気を濃密なものにする。

内容は、同名のヒッチコック映画(邦題『間違えられた男』)同様、犯罪の濡れ衣を着せられる男の話だが、違うのは恋愛絡みなことと意図的に冤罪を背負わされること。偶然知り合った女性と恋に落ちるが、彼女の元恋人が刑務所から出てきて、彼女を殺し、その罪を主人公に被せる。サスペンスフルではあるが、後半がやや退屈。そこを演出・振付・音楽でなんとか保たせている感じ。この作品の唯一残念なところ。

主人公を演じたのは『The Scottsboro Boys』『Violet』『Shuffle Along, or, the Making of the Musical Sensation of 1921 and All That Followed』『Carousel』のジョシュア・ヘンリー。恋に落ちる女性がシアラ・レネー。その元恋人が、ちょうど今(2019年12月17日~2020年1月19日)ブロードウェイでハミルトンを演じているライアン・ヴァスケズ。彼が主人公を演じる回もあったようだ。

ぜひともオリジナル・キャスト盤を出してほしい一作。

蝙蝠の安さん@国立劇場大劇場 2019/12/11 11:30

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当代幸四郎にぴったりの、当代幸四郎にしかできない狂言。丁寧に作られていて楽しい。

チャップリンの映画『街の灯』(City Lights)の舞台化、と聞いて新たな演目かと思っていたら、なんと、かつて歌舞伎化された作品の復活だという。それも、映画本編がアメリカで公開された(1931年)半年後に、海外で同作を観ていた(!)十五代目羽左衛門や二代目猿之助に取材し、映画雑誌に載った筋書きを頼りにして歌舞伎狂言作者・木村錦花が書き上げた脚本によって歌舞伎座で上演されたのだとか。主人公に、『与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)に出てくる脇役、蝙蝠安のキャラクターを借用してある。
その時に主演した十三代目守田勘弥の写真集を30年ほど前に当代幸四郎(当時染五郎)が入手し、そこに載っていた蝙蝠安姿の演目はなんだろう、と調べていったことから今回の復活上演につながった、と筋書きに書いてある。

復活上演の発案からも10年以上経つというのが、即席に作り上げることの多い日本の演劇世界にあっては、いい話。具体化は最近のことだろうが、その前に歌舞伎化があるので、練り直しの二重性が逆に功を奏したように見える。
浄瑠璃を使った伝統的な手法や歌舞伎らしい外連味も適度に加えられ、面白い舞台に仕上がった。
新悟、猿弥、吉弥、友右衛門といった脇も適役。

今月26日まで。
11時半からのAプロは白鸚の『盛綱陣屋』との2本立て。13日、20日、24日、25日はBプロとして19時から本作のみの上演もある。