The Chronicle of Broadway and me #273(Thou Shalt Not)

2001年10月@ニューヨーク(その2)

IMG_2415

 『Thou Shalt Not』(10月7日19:30@Plymouth Theatre)について、「ストロマンの再挑戦」というタイトルで旧サイトに書いた感想です。長いです。

<自分の中に抱えている表現欲求と、自分の磨き上げてきた表現技術との間に、テイストの違いがある。
 ってことなんじゃないのかなあ。

 スーザン・ストロマン。
 1991年夏に、その振付作品、『And The World Goes ‘Round』(演出スコット・エリス)をオフ・ブロードウェイで観て以来、気になる人物だった。……などと今さら改めて言うまでもない。
 翌1992年のトニー賞ミュージカル作品賞受賞作『Crazy For You』(演出マイク・オクレント)が決定打となって、以降、1994年大型リヴァイヴァル『Show Boat』(演出ハロルド・プリンス)、同年マディソン・スクエア・ガーデンの『A Christmas Carol』(演出マイク・オクレント)、1996年にヒット映画の舞台化『Big』(演出マイク・オクレント)、1997年オリジナル企画『Steel Pier』(演出スコット・エリス)、と、次々と話題作に振付家として関わり、初めて演出にも挑戦した1999年『Contact』がそのシーズン(1999/2000年)のトニー賞作品賞を受賞。その後、立て続けに手がけた演出/振付作品、リヴァイヴァル『The Music Man』(2000年)、『The Producers』(2001年)が連続してヒット。ことに後者は、昨シーズン(2000/2001年)のトニー賞作品賞を得て、彼女自身も演出賞を受賞(脚注参照)。
 表舞台に登場して10年で、文字通り、ブロードウェイ一の売れっ子演出家/振付家となった(ストロマンは、他にオペラやバレエ、コンサートの演出も手がけている)。

 ところで、約1年半前、『Contact』の感想の最後に、こう書いた。

 「パーソナルな部分を、これまでになくハッキリ見せた演出作品が好評を得たことで自信を持ったに違いないストロマンが、今後どんな舞台を作り出すのか、楽しみだ。」

 その“パーソナルな部分”について、同じ感想の中で、こう書いている。

 「抑圧された男女の愛。これまで誰も言及したことがないのではないかと思うが、ストロマン作品の根底には、間違いなくこれがある。
 (中略)
 『Steel Pier』などは、ある意味、全編その空気で満ちていたと言ってもいい。ただし、ユーモラスな味つけに乏しかったので色合いが違って見えたが。
 おそらくは彼女の中にある資質なのだと思うが、そうした屈折した要素が、ストロマンの振付を、ただ引き出しの多いだけの器用なもので終わらせていないのだ、と思う。」

 『Crazy For You』に代表される華やかな振付の背後に、そうした陰影に満ちた部分があることを確信したのは『Contact』でだが、上でも触れているように、『Steel Pier』には、その気配が濃厚だった。しかし、その時は、題材選びの失敗だろうと思っていた。なので、「ユーモラスな味つけに乏しかったので色合いが違って見えた」なんていう裏返しの見方をしている。
 今、こうして、『Thou Shalt Not』が登場してみると、その流れがよくわかる。『Crazy For You』から『The Producers』に到るメイン・ストリームとは別系列の、ストロマンのホンネ路線。

 この路線の作品には、ストロマンが企画そのものを起こしたことを示すクレジットがプレイビルにある(以下、タイトルの後のカッコ内参照)。
 それまでの実績を背景に、商業ペースで果敢に自らの表現欲求にストレートに挑んだのが『Steel Pier』(concieved by Scott Ellis, Susan Stroman and David Thompson)。それが失敗に終わったので、リンカーン・センターと組んで、少し装いを変えた実験作として提出したのが『Contact』(by Susan Stroman and John Weidman)。その予想以上(たぶん)の成功を受けて、再度リンカーン・センターの協力を得て、ブロードウェイの劇場でもう1度直球勝負に出たのが今回の『Thou Shalt Not』(by Susan Stroman, David Thompson and Harry Connick, Jr.)。
 ストロマンの再挑戦、実るのか。

 まず言っておくと、観たのは、まだプレヴュー公演。正式オープンは今月(10月)25日だった(2002年1月6日までの限定公演)。なので、どんどん手直しがなされることだろう。
 しかし、この段階で、解決のむずかしい大きな問題があるように見えた。

 「Thou shalt not」。聖書などに見られる古い言い回しで、日本語に訳すと、「汝~するなかれ」。例えば、「汝、姦淫するなかれ」、とか。
 ストーリーはこうだ(原作はエミール・ゾラが1867年に書いた小説「Therese Raquin」だが、時代と場所の設定を変えてある)。

 第二次大戦が終わって2年経ったニューオーリンズ。フレンチ・クォーターのジャズ・クラブに、出征していたピアニスト、ローランが久しぶりにやってくる。仲間に促されて思い出話を始めるローラン。女の話だと聞いて、よくある話だろと茶化す仲間に、いや、あんな女は他にいない、と沈痛な表情になる。その女とは……。
 テレーズ。船でニューオーリンズに戻ってきたローランが、庭で洗濯物を干しているのを見かけて惹かれた若い女。
 話しかけながら近づいたローランは、その母親に追い払われそうになるが、偶然にも、そこは、昔なじみのカミーユの家だった。病弱で仲間の少ないカミーユはローランに格別の好意を示し、そんな息子を溺愛する母親は、ローランを受け入れ、彼女の経営する居酒屋でピアノを弾かせる。それをいいことに、テレーズを口説くローラン。
 すげなくするテレーズに、母親の目を気にしているのか、と問うローラン。彼女はホントの母親じゃないわ、と答えるテレーズ。
 「彼女はカミーユの母親。そしてカミーユが私の夫なの」
 身寄りのないテレーズは、養ってもらう代償としてカミーユと夫婦になっていたのだ。
 この告白で堰を切ったようにあふれ出す欲情。テレーズたちの寝室で求め合う2人。
 周りの目を盗んで関係を続けるローランの心に、テレーズは、カミーユ殺害の芽を植えつける。
 そして、マルディ・グラの日。カミーユを連れ出した2人は、祭の喧騒を離れて湖にボートを漕ぎ出し、事故に見せかけてカミーユを湖に突き落とす。(第1幕終わり)

 死体安置所に出向いて、カミーユの死体を確認するローラン。息子の死にショックを受けて倒れ、半身不随、言葉も不自由になる母親。カミーユの葬儀。そしてテレーズとローランの結婚。
 晴れて夫婦となり、堂々とベッドインできるようになった2人だったが、そこにちらつくカミーユの影。テレーズは怯え、ローランはいらだつ。半ば植物人間化しているのをいいことに、母親の前でもカミーユのことで言い争う2人。
 が、ある日、親しい人たちが集まっている居間で、母親がスクラブル(アルファベットを並べて言葉を作るゲーム)の牌を動かして2人の悪事を暴こうとする。すんでのところで食い止めるローラン。
 客たちが帰った後、緊張に耐えきれなくなったテレーズは、自らを刺して死ぬ。
 そして……、仲間の前でこの話をし終えたローランも、取り出した拳銃で自分の頭を打ち抜く。

 ここで思い出すのは、やはりニューオーリンズを舞台にした作品、『Jelly’s Last Jam』(1992年)や『Marie Christine』(1999年)のこと。どちらも、現世的には幸福になっていくとは言えない主人公の運命に、生誕地ニューオーリンズに息づく、ヴードゥに象徴されるアフリカ発カリブ海経由の異教的な力が強く影を投げかけていて、それを描く音楽やダンスの濃密さが、そのまま作品の魅力になっていた。
 『Thou Shalt Not』の楽曲作者(作曲・作詞・編曲)は、ストロマンや脚本のデイヴィッド・トンプソンと共に企画を練ったニューオーリンズ出身の売れっ子ジャズ・ミュージシャン、ハリー・コニック・ジュニア。でき上がった楽曲は魅力的で、劇的な効果をていねいに考えた重層的な編曲も含めて、音楽全体の表情が豊か。なにより、作り手がネイティヴなので、ニューオーリンズ色が借り物でなく、劇場音楽の専門家がそれ風に作った音楽とはひと味違う、懐の深さがあるのがいい。
 そうした音楽のよさにもかかわらず、舞台全体は、躍動しない。ことに第2幕は、ほとんど停滞している印象だ。

 目に見える最大の問題は、物語とダンスとが必ずしも有機的に結びついていない、というところにある。
 ストロマンが、振付家としての能力を最大限に発揮して作り上げたに違いない、熱のこもったダンス・シーンが数多くあるのだが、それらが、どうにも空回りしているように見えてしまうのだ。
 例えば、テレーズとローランの最初のベッドインは、ベッドのフレームを巧みに使ったアクロバティックにしてセクシャルなダンスで表現されて見応えがあるし、初登場シーンのテレーズの、鬱屈して解放されたがっている心をせつなく表わす裏庭でのソロ・ダンスも、洗濯物の布を使ったアイディアによって、抽象的すぎない生々しい魅力を持ったものに仕上がっている。
 しかし、こうした芸術性の強い作品にあっては、例えば『Crazy For You』『The Producers』のようには、ショウ場面が独立して存在しえない。言い換えると、前後の話と関係なくショウ場面の面白さを楽しむということができにくい。したがって、ショウ場面には、それ自体の完成度と同時に、流れの中での物語との有機的な結びつきが、より強く求められる。そこがうまくいっていない。
 物語は、決して清教徒的な倫理劇ではないはずだ。もしそうだとすれば、ニューオーリンズを舞台にした理由がわからない。ハリー・コニック・ジュニアの音楽でやりたかったから? そんな安直な理由じゃないだろう。マルディ・グラの場面で出てくるヴードゥ的な雰囲気といい、死者として立ち現れるカミーユの存在といい、やはりニューオーリンズという土地の醸し出す“混沌”の香りを意識しての舞台設定だと考えるのが妥当だろう。
 であるなら、ねらいは、“地獄の淵の恋”とでも呼ぶべき底知れない情欲を描くところにあったと思う。
 しかし、ストロマンの振付は、そうした物語の中にあっては、凄みが足りない。表現の仕方は高度で、けっして単純なわけではないのだが、しかし、わかりやすいのだ。ダンスの意味が、感情より先に頭で理解できてしまう。よく言えば、明快ということなのだが、その明快さが、ここでは裏目に出ている。

 この問題、実は、ホンネ路線の前々作『Steel Pier』にもあった。そして、成功した前作『Contact』の中にもあったのだ。

 『Steel Pier』の場合は、マラソン・ダンスという設定が舞台上のダンスのイメージを限定してしまうという企画から来るミスが、まずあった。同作の感想から引用する。

 「このミュージカルの最大の誤算は、素材の選び方にあったのではないか。
 ダンス・ミュージカルにするためにマラソン・ダンスを選ぶ。そのせいで逆にダンス場面の印象が広がりを失ってしまった。
 ミュージカルにおけるダンス場面の魅力は、ドラマ部分からの非日常的な飛翔にある。それが、マラソン・ダンスというドラマの側の枠でイメージを限定された。いくら踊っても、それは悲壮なマラソン・ダンスという競技の中のことなのだ。
 (中略)
 ドラマを離れて全員が開放的に踊るシーンが1つでもあれば。
 (中略)
 そんなシーンが1つあるだけで全体の印象がずいぶん変わると思うのだが。」

 この時点では、まだ、ストロマンの振付に華やかさを求めていたので、“非日常的な飛翔”の方向性を明るい方に考えているが、裏返して考えると、現実的なドラマ部分から深い混沌への“非日常的な潜行”となる可能性だってある。今思えば、『Thou Shalt Not』同様、『Steel Pier』のダンスに求められていたのは、より深く暗い世界への“潜行”だったのだ。それが欠如していたために、いくつか見応えのあるダンス・シーンを持ちながら、全体としては中途半端な舞台になってしまった。と、そういうことだろう。

 そして、『Contact』2度目の観劇の感想から。

 「第2幕(=第3部)にやや難あり、という印象も同じ。ダンサーたちが踊っている間、バーテンダーと話していたり、思い悩んだりしている主人公の男(ボイド・ゲインズ)が(まあ、ドラマ的には意味がなくはないものの)、手持ち無沙汰な感じに見えてしまうのが惜しい。それに、踊れない男を演じるゲインズが本当に踊れないのが、やはりもどかしい。」

 第3部を冗長に感じた原因。直接的には主人公の男が踊れなかったからだが、それ以前に、主人公の孤独感を描ききるだけの深みのあるダンスが、あそこになかった、ということがあるのではないか。
 さらに、あえて邪推すれば、『Contact』が短い作品による3部構成だったのは、自身の“パーソナルな部分”をストレートに映し出す“長編”の物語を支えきるだけの自信が、振付家としてのストロマンに、まだ、なかったからなのではないだろうか。

 振付家としてのストロマンの資質。それは、やはり、ブロードウェイの伝統にのっとった華やかさと洗練の中にある、というのが現時点での結論。
 そのことは、前述の『Marie Christine』の演出・振付を手がけたグラシエラ・ダニエルと比較してみれば、よくわかる(彼女もまたストロマン同様、振付家から演出家になった)。

 「ヒスパニックの血を引くダニエルが見つめているのは、欧米の近代合理主義が置き去りにしていった、人間の中に太古から宿る、例えば情念とでも呼ぶべきようなもの。それを、説明したり解き明かしたりするのではなく、ダニエルは、歌と踊りによってもう1度舞台上で呼び覚まそうとしている。そう思える。」(注:グラシエラ・ダニエル初期演出作品について旧サイトに書いた文章より)
 そうした“わからない”魅力が、ストロマンには、ない。あるいは、今のところ、それを自分で把握しきれていない。でなければ、表現する方法を持っていない。
 その理由が、彼女が(ヨーロッパ系)白人であることによるのかどうかはわからない。が、ニューオーリンズという文化が複雑に交錯する土地を舞台にする作品を手がけるには、彼女の中に蓄積されている文化が、例えばグラシエラ・ダニエルと比べると、重層性に乏しい、ということは言えそうだ。
 正式オープンした『Thou Shalt Not』は10日後に観るが(※本稿執筆2001年10月31日)、結果はともあれ、再挑戦するスーザン・ストロマンの心意気やよし。だが、進むべき道は他にあるのかも。

 出演者では、カミーユの母親を演じたデブラ・モンクが素晴らしかった。これまで、そのよさが今ひとつわからなかったのだが、今回、これまでにない柔らかい歌い方を聴いて納得した。うまい。押し出しの強さだけじゃなかったんだ。
 ヒロイン、テレーズを演じるのは『42nd Street』のペギー・ソーヤー役、ケイト・レヴェリング。難易度の高いダンス・ナンバーも数多くこなし、大熱演。
 ミュージカル初出演作『The Music Man』から移ってきたローラン役、クレイグ・ビアーコは、歌は問題なし。……だったが、アクション・シーンでノドを打って、一時的に歌えなくなったというニュースを見た。大丈夫か。ダンスは、うーん。周りがうまいからなあ。
 というわけで、アンサンブルのダンスは見事。

 中心軸のズレた3重の回転舞台を頭脳的に使って、人物やセット(特にボート!)を巧みに動かす装置のアイディアが素晴らしい(装置トーマス・リンチ)。
 照明も、この段階ではやや精密さに欠けるところもあったが、微妙なニュアンスに富んで、表現力豊か(照明ピーター・カゾロウスキー)。

 (脚注)トニー賞振付賞は、対象外の『A Christmas Carol』以外で全てノミネーション、『Crazy For You』『Show Boat』『Contact』『The Producers』で受賞。ちなみに、受賞しなかった『The Music Man』『Contact』と同シーズンのノミネーション。>

 カミーユ役がノーバート・レオ・バッツだったことを書き添えておく。

The Chronicle of Broadway and me #273(Thou Shalt Not)” への16件のフィードバック

コメントを残す