The Chronicle of Broadway and me #317(La Bohème)

2003年1月@ニューヨーク(その3)

 『La Bohème』(1月7日20:00@Broadway Theatre)については、観劇時に旧サイトに『Man Of La Mancha』と併せて感想を書いている。その『La Bohème』部分を転載する。導入部は『Man Of La Mancha』の感想とダブります。

<『Man Of La Mancha』と『La Bohème』と言えば、どちらも名作の誉れ高い、よく知られたミュージカルとオペラだ。そういう作品のリヴァイヴァル上演(『La Bohème』がトニー賞でリヴァイヴァル作品扱いされることが先日発表された)で、キャスティングと並んで目を惹くのは、演出と深く関係する装置だろう。
 過去の上演に倣うのか、新機軸を打ち出すのか。装置によって、舞台の印象はガラリと変わるはずだ。
 そして、ここに取り上げた両者は、共に斬新な装置をデザインした。結果、『Man Of La Mancha』は作品の面白さが半減。逆に『La Bohème』は、作品に新たな息吹きが与えられた。
 その分かれ目はどこにあったのか、というのが今回の話。

 映画『Moulin Rouge!』(邦題:ムーラン・ルージュ)の監督バズ・ラーマン演出の『La Bohème』がブロードウェイで上演される。こんなにワクワクするニュースは最近なかった。
 あの夢幻的世界を、劇場の舞台で見せてくれるのだろうか? 見せてくれるとすれば、どんなやり方で? 興味は尽きない。

 オペラ『La Bohème』は1度だけ観たことがある。1993年1月6日@メトロポリタン・オペラ・ハウス。映画『Moonstruck』(邦題:月の輝く夜に)が好きだったので1度観たいと思っていたなんて話はどうでもよくて(笑)、その豪華さ、特に第2幕の大群集に驚いた。
 初演は1896年。舞台はパリ。若く貧しい詩人ロドルフォとお針子ミミとの青春悲恋物語。
 2人はめぐり合って恋に落ちるが、病に冒されているミミを貧しい自分では救えないとロドルフォが身を引く。ミミも彼の真情を知り一旦は別れるが、死に瀕して再びロドルフォの元を訪れ、見守られながら短い生涯を終える(『Moulin Rouge!』と酷似)。サブストーリーとして、ロドルフォと同居する画家マルチェッロとその元恋人ムゼッタとの“やけぼっくい”物語も描かれる。
 ラーマン版の舞台は1957~1958年のパリ。通常オペラ版より半世紀とちょっと新しい。『Rent』を 20世紀末ニューヨーク版『La Bohème』と考えるなら、その両者の中間に位置する時代設定。戦後の経済復興途上、アメリカナイズが始まっているパリ。モダンさとノスタルジーとが交じり合う、というところがラーマン好みなのではないだろうか。

 ブロードウェイ劇場を訪れるのは11年前に『Miss Saigon』を観た時以来。半端にアール・デコを模したような外観が野暮ったい劇場なのだが、表を飾る赤い「La Bohème」のイルミネーション(上掲写真左端)が蠱惑的で、期待がふくらむ。
 劇場に入ると、なんと、幕の上がっている舞台上に、表と同じ大きな「La Bohème」のイルミネーションが置いてある……。と、よく観ると綴りが少し違う。舞台上にあるのは「L’amour」。似た言葉を似たデザインで仕上げたイリュージョン的イルミネーション。早くもラーマン・マジックが始まっている。

 そのイルミネーションを含め、今回も、ラーマンの演出を支えているのは、『Moulin Rouge!』の時と同様、緻密に計算された見事な装置(キャサリン・マーティン)、衣装(キャサリン・マーティン、アンガス・ストラシー)、照明(ナイジェル・レヴィングズ)だ。
 装置は全体にくすんだ色調で、わずかにイルミネーションや看板などがアクセントになっている渋いもの。照明は淡く白っぽいものが主体で、陰影を強調するような、側面や背後からの照射が多く、ほの暗く寒々しい舞台に静謐な美しさを与える。
 これが基調。貧しいが純粋な若者たちの心情を反映するかのような、古き佳き時代のモノクロ映画的世界の現出だ。
 そんな中にあって、思わぬ金が手に入って主人公たちが街に繰り出す第2幕だけは例外的に華やか。METの舞台では高低差のある立体的なセットの上に数多くのエキストラが登場したが、ここでも、街中のカフェに人々が集まっての大騒ぎで、通りにはローラースケートで走る子供やマーチング・バンドも登場。周囲は深い陰影に満ちているが、複数のイルミネーションが点灯し、一際明るいカフェの店内に集う客の中の何人かが着ている赤や黄や白といった衣装が、集中した照明の下で鮮やかに際立つ。モノクロ画像の一部を人工彩色したかのように。
 こうした、ややノスタルジックで精巧な画像作りが、『La Bohème』の時代がかった悲恋物語を現代に成立させるために欠かせなかったのは明らかだ。

 しかし、今回の『La Bohème』の演出でより重要なのは、“人力主義”の強調だ。
 前述の「L’amour」というイルミネーションの裏側には主人公たちの住みかである屋根裏部屋があって、両者は可動式の台に載っているのだが、芝居が始まるに当たって、その台が向きを変える。その動力が、舞台に上がったスタッフの人力なのだ。以降、装置の移動はもっぱら人力。第1幕と第2幕の間、第3幕と第4幕の間の舞台転換など、幕を閉じることなく、スタッフが装置を動かす一部始終を観客に見せる。それも、字幕にわざわざ「Scene Change」と映し出して。
 また、第1幕の後半、その台の上で演じられるロドルフォとミミの芝居に下から照明を当てる場面があるのだが、これも人力。ランタンのような手持ちライトで舞台に現れたスタッフが役者を照らす。
 こうした装置や照明における“人力主義”の強調は、(オペラ・ハウスと比べての)劇場の規模の小ささや舞台の見た目のノスタルジックさとあいまって、劇場全体を“昔ながらの芝居小屋感覚”で包み込む効果を生んでいる。結果、ラーマン版『La Bohème』は、ちょうどシアター・コクーンや平成中村座で中村勘九郎らが演じる歌舞伎の古典がそうであるように、その“昔ながら感”とは裏腹に(あるいは、“昔ながら感”ゆえに、か)、イキイキと観客に迫ってくる作品に生まれ変わっている。

 ところで、ラーマン版『La Bohème』も、通常版同様イタリア語で上演される。そんなわけで、英訳を読ませるために前述のように字幕装置があるのだが、そこに映し出される字幕が面白い。
 まず、訳の言葉遣いが現代的。時にコミカルと言っていい。
さらに、これがユニークなのだが、字幕の書体が多様。太かったり、丸っこかったり、斜めになっていたり。
 つまり、歌われているイタリア語はオリジナルのままでありながら、字幕では、かなりポップな表現をしているのだ。
 この字幕表現も、作品に現代感覚を与える点で大きな働きをしている(訳者のクレジットなし。ラーマン自身か)。

 なお、週8回公演のオペラなので当然だが、ロドルフォとミミはトリプル・キャスト、マルチェッロとムゼッタはダブル・キャスト。
 観た回は、ロドルフォがデイヴィッド・ミラー、ミミがエカテリーナ・ソロヴョーヴァ、マルチェッロがユージン・ブランコヴォーヌ、ムゼッタがジェシカ・コモー。
 意図的に役の年齢に近い若い役者ばかりを集めているのも、オペラとしては珍しいのかも。

 余談。
 貧しく若い青年たちの悲恋物語に豪華なオペラ・ハウスは似合わない、そう考えた末の今回のラーマン演出……と考えたかったのだが、ラーマン版『La Bohème』の初演は 1990年のシドニー・オペラ・ハウスらしいから、この推理は怪しいようだ(笑)。>

 文中に出てくる「中村勘九郎」は亡き「十八代目中村勘三郎」のこと。当時は襲名前だった。

 普段は買わないパンフレットを、美しさに負けて買ってしまった。A4よりひと回り大きい。表紙と、舞台上に置かれる「L’amour」のイルミネーションの、上から、製作中、セット模型、上演中の写真。

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