The Chronicle of Broadway and me #341(Chicago[13])

2003年7月~8月@ニューヨーク(その4)

 『Chicago』(7月31日20:00@Ambassador Theatre)をアンバサダー劇場移転後に初観劇。久しぶりに長い感想を旧サイトに書いています。その理由は……以下でご確認ください 。
 図らずも、キャスティングの細かい分析(推測)になっています。

『Chicago』 の感想では、他の作品と違ってキャストのことをよく書く。その理由も何度も書いているが、ここでも繰り返しておくと――。

 リヴァイヴァル『Chicago』のような10年に1本ともいうべき舞台の場合、その充実度が非常に高い分、ちょっとしたバランスの乱れで並のヒット作程度の印象になってしまうということだ。それでも実は、けっこうよくできた舞台なのだが、最初の凄みを知っていると物足りなさを感じてしまう。
 特に『Chicago』は、役者に関しては、主役4人の個性と技が傑出していて、なおかつアンサンブルのダンサーたちのレヴェルも高いという、個人芸の集成のような舞台だったから、それを維持していくのは大変なことだろうとは思っていた。(1998年3月観劇の感想から)

 ――という認識があり、であるならば、『Chicago』がどのようなキャスティングでロングランを乗り切っていくのかに興味が湧く。そういうことだ。

 このところの『Chicago』観劇は、その線に沿っての定点観測……というわけでは全くない(笑)。
 「次回は、そのジエンバ=ロキシーの見納め。それ以降も観続けるかどうかは、新たなキャストしだいかもしれない。」と書いたのが1999年1月公演。その言葉通り、カレン・ジエンバ降板前の1999年5月に観て以降の1年9か月間、すなわちビビ・ニューワースの復帰までは、『Chicago』を観る積極的な理由が見つからなかった。
 同様に、ビビを観た2001年2月以降、今回のメラニー・グリフィス出演までの2年半も、やはり特に『Chicago』を観なければという理由はなかった。要するに、たまたまなのだ。目的のはっきりした2度の観劇の間に、たまたま2度観る機会があって、それが結果的に、9~10か月おきの4回連続定点観測となった、と。
 例えば、2001年11月12日の観劇は、帰国予定日に起こったJFK離陸直後のアメリカン航空機墜落事故による空港閉鎖(ツイン・タワー・クラッシュの2か月後だったし)のため帰国不能になり実現した偶発的なもの。夕方5時頃に欠航が決定するや、すぐさま空港からマンハッタンに戻り、月曜のtktsの数少ない掲示板表示作品の中から選んだのが『Chicago』だったわけで、2002年9月22日の観劇も、日曜夜という選択肢の少ない時間帯で『Forbidden Broadway』とどちらにしようかと迷った上で選んだ、という消極的な理由による。
 ただ、キャストは観るたびに変わっていて、キャスティングに苦労している様子は見てとれたのだが、改めて内容の感想を書かないできたのは、そのキャストの変動ほどには舞台の印象が変わっていなかったからだ。しかし、今回のメラニー・グリフィス=ロキシーを観るに及んで、その実態を記録しないではいられなくなった。
 メラニー・グリフィスをロキシーに据えたことで、『Chicago』の舞台が大きく変わってしまったからだ。

 ともあれ、恒例なので、各回の主要キャストを挙げて、その変動についての感想を簡単に書いておく。

 まずは参考までに、前回も書いた2001年2月10日の主要キャストから。
 ロキシー/ベル・キャラウェイ、ヴェルマ/ビビ・ニューワース、ビリー・フリン/クラーク・ピーターズ、エイモス・ハート/P・J・ベンジャミン、ママ・モートン/マーシャ・ルウィス、メアリー・サンシャイン/R・ビーン。

 2001年11月の主要キャスト。
 ロキシー/ペトラ・ニールセン、ヴェルマ/ドナ・メアリー・アズベリー、ビリー・フリン/チャック・クーパー、エイモス・ハート/P・J・ベンジャミン、ママ・モートン/ベル・キャラウェイ、メアリー・サンシャイン/R・ビーン。
 この内、ヴェルマのメアリー・アズベリーはディードゥレ・グッドウィンの、ママ・モートンのキャラウェイはマーシャ・ルウィス・ブライアン(結婚したのでしょうか、この回はブライアン付き)の代役。
 なのだが、どうやらメアリー・アズベリーは、この公演の前後から常時ヴェルマを演じることになった節がある。と言うのは、彼女、元々は女囚の1人を演じていてプレイビルにも印刷されているのだが、それとは別に代役を知らせる紙がプレイビルに挟んであって、そのサイズが大きく、写真入りで改めて経歴が紹介されているからだ。翌年9月に観た時には正規にヴェルマ役になっていたことから考えても、この頃がグッドウィンとの入れ替わりの時期だったのだろう。それを裏づけるように、メアリー・アズベリーの代わりに女囚を演じたロクサーヌ・キャラスコも、この時はプレイビルには印刷されず挟み込みの紙で紹介されていただけだったが、その紙には写真が印刷されていて、これまた翌年9月の時点では正規に(この時とは別の役だが)女囚役を演じていた。
 ちなみに、キャラウェイは、最初の日本公演を行なったツアー・カンパニーで、この日出なかったグッドウィン=ヴェルマとコンビを組んでロキシーを演じた人で、そのままブロードウェイ入りしてロキシーを演じ、その後ロキシーのアンダースタディとして今日に到っている。おそらく、同時にママ・モートンのアンダースタディもこなしているのだろう。

 続く2002年9月の主要キャストはこう。
 ロキシー/シャーロット・ダンボワーズ、ヴェルマ/ドナ・メアリー・アズベリー、(ビリー・フリン/デスタン・オウェンズ)、エイモス・ハート/P・J・ベンジャミン、ママ・モートン/ロズ・ライアン、メアリー・サンシャイン/J・ローフェルホルツ。
 この回も、代役あり。
 メアリー・サンシャインのローフェルホルツが R・ビーンの代役。ローフェルホルツは、以前からこの役のアンダースタディとしてクレジットされている人。
 で、問題はカッコで囲んだビリー・フリン役。演じるデスタン・オウェンズの写真入り紹介を兼ねた、代役を告げる紙がプレイビルに挟んであったのだが、そのプレイビル自体には、なんと、ビリー・フリン役のクレジットが入っていないのだ。トニー賞で主演男優賞扱いされる役のクレジットがないってのは、ちょっと珍しい。察するに、次のビリー役が決まるまで“つなぎ”でオウェンズ(と誰か?)が短期間演じていたのではないだろうか。

 そして今回、2003年7月の主要キャストはこうだ。
 ロキシー/メラニー・グリフィス、ヴェルマ/ディードリ・グッドウィン、ビリー・フリン/ブレント・バレット、エイモス・ハート/P・J・ベンジャミン、ママ・モートン/カミール・サヴィオラ、メアリー・サンシャイン/D・サベラ。
 この回は、主要キャストの代役はなし。ただし、1つだけ付け加えておくと、前回ヴェルマを正式に演じていたメアリー・アズベリーが、ここでは女囚役に戻って出演している。

 ちなみに、その他のキャストを見てみると、マイケル・クバラ、ジョン・ミネオ、デイヴィッド・ウォーレン=ギブソンというオリジナル・キャスト 3人男を中心に、かなり固定された顔ぶれで推移している。

 さて、観たのは9~10か月おきなので、キャストはここに書いた以上に変わっている可能性もあるが、とりあえず上記のデータに沿って話を進めると、まず、役によって変動の仕方に違いがあるのがわかる。
 大雑把に言うと、動きの激しいのが主役のロキシーとヴェルマ、そして弁護士ビリー・フリン役。逆に動きの少ないのが、エイモス・ハート、メアリー・サンシャイン、ママ・モートンの3役。

 まず、全く変わっていないのがエイモス役のP・J・ベンジャミン。知る限り、1999年以来ずっと彼だ。今や、すっかりエイモスになりきっている。
 メアリー・サンシャイン役も入れ替わっているように見えるが、今回登場したD・サベラは長く出演していたオリジナル・キャストで、実質上の2代目がR・ビーン。J・ローフェルホルツは、ずっとこの役のアンダースタディ。要するに、この3人で回っているわけ。そういう意味では最もキャスティングの安定した役と言えるだろう(どうでもいいことだが、2001年11月のプレイビルに載っている写真の名前が、R・ビーンもJ・ローフェルホルツもファースト・ネームがアルファベットではなく正式な綴りの表記になっている。ネタを割っているわけだ。なぜだろう)。
 ママ・モートン役はどうかと言えば、これは、途中休んだりしながらもオリジナル・キャストのマーシャ・ルウィス(・ブライアン)がずっとやってきたわけで、現在、後釜調整中ということではないだろうか。で、ロズ・ライアンもカミール・サヴィオラも同様に力があったが、サヴィオラの方が体型的にもマーシャ・ルウィス・ブライアンに似ていて、ハマり役。このまま彼女がママ・モートンを続けるのではないかという気がしたが、どうだろう。

 動きの激しい3役の内、ビリー・フリン役の変動の理由はわかるような気がする。この役、インチキな『Chicago』世界の元締めのようなキャラクターなので、ジェイムズ・ノートン、ヒントン・バトルとは言わないまでも、実力と同時に、ある程度の貫禄がある役者でないと舞台が締まらない。でも、そのクラスの男優は数も少ないし、ギャラも高そう。その辺でキャスティングに苦労しているのではないか。
 最近3回の役者について言えば、見かけ的にはヒントン・バトルに近く、トニー賞受賞経験もあるチャック・クーパー(『The Life』)と、(観る限り)1999年以来2度めの登場で、主役級の役をいくつかこなしてきたせいかスケールが大きくなった印象を受けたブレント・バレットは、問題なし。が、代役扱いのデスタン・オウェンズはツアー・カンパニーでのビリー・フリン経験者だが、やはり重量感不足。

 さて、ロキシーとヴェルマ。主役であるにもかかわらず、どちらも同じように頻繁に役者が入れ替わっているが、キャスティングの考え方が微妙に違うように見える。
 ロキシー役は、もっぱらツアーや海外カンパニーから招聘して小刻みに変えてきている。
 2001年2月のベル・キャラウェイは前述の通りツアー・カンパニーからブロードウェイ入りで、その後ずっと同役のアンダースタディを務めている。2001年11月のペトラ・ニールセンは、プレイビルによれば、スウェーデン公演版ロキシーからウェスト・エンド版を経ての、ブロードウェイでの起用。2002年9月のシャーロット・ダンボワーズは、ロキシー役はツアー・カンパニーで経験済みのようだが、プレイビルには、ブロードウェイ版へは『Contact』の主演(黄色いドレスの女か)からの転入と書いてある。
 一方、このところのヴェルマ役は、基本的にはディードリ・グッドウィンをメインに据えて、彼女が抜ける時に(例えば『Nine』出演時)カンパニーの中から抜擢してこなしている。要するに、内部でのやりくりだ。
 ポイントはキャラウェイとグッドウィンの扱いの違いだろう。同じようにツアー・カンパニーからブロードウェイ入りしたものの、ロキシー役ベル・キャラウェイは本役を務めた後アンダースタディに回ったが、ヴェルマ役ディードリ・グッドウィンは他の舞台にも出演しながら断続的に本役に留まっている。ロキシーとヴェルマとして共に日本にやって来たこの2人の実力や魅力をみなさんがどう評価しているかわからないが(当時はキャラウェイの方が達者に、グッドウィンがやや生硬に見えたのではないか)、まあ、現時点での格の差はそれほどないというのが個人的実感。そして、キャラウェイと、キャラウェイの後からロキシーになった女優たちとの間にも力や格の差は見出せない。
 とすれば、プロデューサーがロキシーのキャスティングに求めているのは、おそらく話題性だ。比較的短期間での役者交代はそのためだ、ということは考えられる。
 では、ヴェルマはどうか。ここでのグッドウィンの長期起用には、映画版の影響があるとは考えられないだろうか。グッドウィンは、女囚役ではあったが映画版に出たことでプロデューサーにとって付加価値のある存在になったはずだ。映画を先に観た観客にとって、映画で観た役者が舞台にも出ているというのはうれしいことだろう。とすれば、これは全くの想像だが、映画出演決定後、グッドウィンは、場合によっては他の仕事を期間限定で選んでもいいというオプション付きでヴェルマ役の新たな契約を交わしたのではないだろうか。

 では、メラニー・グリフィスの起用はどうか。これまでの流れと関係があるのか、ないのか。
 最近のロキシー短期交代起用の理由が話題性獲得にあるとすれば、グリフィスはピカイチの存在だ。映画女優として高い知名度を持つ上に、この夏は、『Nine』に出ているアントニオ・バンデラスと、通りを挟んでの夫婦競演というオマケまで付く。
 しかし、そうした話題性だけでは、昨年までの『Chicago』なら、彼女を起用しなかったのではないか。そこには、グッドウィンの場合とは別の形で、映画版の成功が影を落としているのではないか。

 昨年終盤、映画版公開にタイミングを合わせるようにしてシューバート劇場から引っ越したアンバサダー劇場での『Chicago』初観劇。それは違う意味でも初めての体験だった。
 なにしろ、10年に1度出会えるかどうかの傑作、と思っていたこのリヴァイヴァル版を、悪い意味でハラハラしながら観ることになったのだから。

 ごぞんじの通り、ロキシーは、ヴェルマに率いられたダンサーたちが「All That Jazz」を歌い踊っている途中で舞台に登場する。で、情事の後、愛人と言い争って彼を撃ち殺す。そして、「I got a pee.(もらしちゃった)」と言って舞台奥に消える。
 登場してすぐの殺人という文字通り殺伐とした行為を笑いにすり替えるためのオチのセリフが「I got a pee.」なのだが、グリフィスの発したそのひと言が笑えないことに、まず驚いた。『Chicago』世界の基本であるヴォードヴィル的ニュアンスが全く感じられず、妙にリアルなのだ。
 それに、グリフィスの動きが何かぎこちない。
 ダンスは大丈夫なのか? 歌は? 最初から頭の中は心配でいっぱい。
 そして、その期待(?)は裏切られることはなかった。メラニー・グリフィスは、最後まで、過去に登場した映画の中同様、甘くつぶやくようにしゃべり、決して派手に歌ったり踊ったりしない、あのメラニー・グリフィスであり続けたのだ。

 グリフィスが歌えないのは、すぐにわかった。「All That Jazz」の次のナンバー「Funny Honey」はロキシーがソロで歌うナンバーだから。
 歌えないというのは、具体的には声が出ないということ。歌う時もつぶやくよう。さらに、音程も怪しい。
 が、歌はいい。本当はよくないけど、でも、まあ、いい。『Chicago』は、極端に言えばダンサーのためのミュージカルだから。
 じゃあ、そのダンスはどうなんだ、と言えば、彼女は見事なまでに踊らなかった、ということになる。踊れないのではなく、踊らない。
 踊れない、というのは、踊る努力はしたけれども実力がついていかなかった場合の表現。舞台でのグリフィスは踊れない素振りは見せない。なぜなら、グリフィスでも踊れるように――いや、正確には、踊っているように見えるように――、ロキシーのダンスの振付が変わっていたからだ。

 具体的に言うと――。
 ロキシーのダンス面での見せ場は都合4か所ある。第1幕も後半に入ってからの「We Both Reached For The Gun」と、続く「Roxy」、そして、第2幕が始まってすぐの「Me And My Baby」と、フィナーレ間際の「Nowadays」~「Hot Honey Rag」のメドレー。
 かつての感想で、「サイレント・コメディを思わせる誇張された動きと表情の巧みさ。」と称えたのが、(リヴァイヴァル版の)初代ロキシー、アン・ラインキングの「We Both Reached For The Gun」での操り人形的振り。ビリー・フリンの膝の上での一種のダンスだが、さすがにここは振付までは変わっていない。が、グリフィスの動きはメリハリがなく緩慢。
 ロキシー最大の見せ場である2つのナンバー、「Roxy」と、映画版では削られた「Me And My Baby」は明らかに振付が変わっている。
 やはり、かつて、「客席に語りかけるように始まり、しだいに動きが付いてゆき、最後は男性ダンサーを従えてのダンスになるのだが、その盛り上がり方が時間をかけてジワジワジワジワ。低温やけどをする時のようで、気がついたら取り返しがつかないような痕が心に残っているという感じ。」と書いたのが、「Roxy」でのラインキングのダンス。しかし、グリフィスの場合は、まあ独自の甘え声での語りかけは百歩譲って“それもあり”ということにしたとしても、従来よりシンプルにしたとおぼしい振付をいかにも思い出しながらといった風情でクネクネとなぞる動きは、とてもダンスと呼べる代物ではなく、後半に参加する男性ダンサー陣にしても、本来はエロティックな印象でロキシーに絡むところを、腫れ物に触るように慎重に遠巻きにしながら自分たちだけで踊っている形に終始する。
 「Me And My Baby」は「Roxy」よりテンポの速いダンス・ナンバーで、2人の男性ダンサーを左右に従えたロキシーが舞台上を軽やかに移動しながら、コミカルな味つけの振付を、動きがピッタリの3人のシンクロ状態で見せていく。元々はそういう場面だが、グリフィス版では、移動距離も振付の動きも省エネ向きに改変。それでも男性ダンサーとの息が合わず、グリフィスはワンテンポ遅れ気味。
 そして最後の、ヴェルマと組んだ「Nowadays」から「Hot Honey Rag」へと続くメドレーは、動きは小さいけれども実は鍛錬と洗練とが要求される渋いダンス・ナンバーなのだが、グリフィスがかろうじて振付をたどっているだけなのは明らか。合わせて踊らなければならないディードリ・グッドウィンの苦労が手に取るようにわかる。

 なぜメラニー・グリフィスをロキシー役に起用し、なぜ結果的に振付まで変えることになったのか、本当のところはわからない。けれども、こんな想像はできる。
 まず、なんらかの理由でグリフィスがブロードウェイの舞台に立つ可能性が打診される(例えば、バンデラスがブロードウェイに出演している間、グリフィスも一緒にニューヨークに滞在することになるので、舞台出演のオファーはないだろうか、とか)。しかし、舞台経験のないグリフィスを(おそらく)高いギャラで使おうとするプロダクションは現れない。そんな中で、『Chicago』のプロデューサーは考えた。
「いいじゃん、歌えなくて踊れなくても。映画版ヒットのおかげで客足は完全に戻っているし、グリフィスは映画版ロキシー役レネー・ゼルウィガーと雰囲気が似てるし、今や観客の大半は映画版のイメージに惹かれて劇場に来ているんだし、それにゼルウィガーだって歌えなくて踊れなかったんだし」と。
 あくまで映画版の成功にのっとった起用と改変。そう考えれば、とりあえずは納得がいくと思うのだが、どうだろう。逆に、『Chicago』ファンとしては、そうとでも考えなければまるで納得がいかない。観終わった後の周りの観客たちの表情が少しも不満そうではなかったのも、こうした想像が的外れでないことを裏づけているような気がするのだが。

 ともあれグリフィスは10月5日まで出演する予定だ。>

 皮肉なことに、いつか受け取りたいものだ、と思っていた、最後にロキシーとヴェルマが客席前方に投げ入れるバラ(造花)を、この時に限ってロキシーから受け取った。
 まあ、映画女優としてのメラニー・グリフィスは好きなので、いいんですが(笑)。

 『Chicago』の過去の感想はこちらに→[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]

The Chronicle of Broadway and me #341(Chicago[13])” への13件のフィードバック

コメントを残す