The Chronicle of Broadway and me #252(Jane Eyre)

2000年11月@ニューヨーク(その4)

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 『Jane Eyre』(11月9日20:00@Plymouth Theatre)について、「あくまでプレヴュー初日だが…」のタイトルで旧サイトに書いた観劇当時の感想です(<>内)。
 ちょっと長い。おまけに途中から本題を外れていく感じもあります(笑)。

<「いいニュースと悪いニュースがあります」
 開演前、共同演出家であるスコット・シュウォーツと2人で舞台に現れたジョン・ケアードは、客席から起こる拍手を申し訳なさそうに両手で抑えながら、そう言った。

 このセリフ、映画や舞台ではよく聞く。
 例えば、『Crazy For You』の舞台では何度も聞いた。第1幕半ば、デッドロックの古い劇場でダンスのリハーサルをしている時に、わけあってブロードウェイの大プロデューサーに化けている主人公のボビーが、いくら練習しても踊れない地元の若者ムースを呼びつけて言うのだ。
 「いいニュースと悪いニュースがある」
 続く会話は、こうだ。
 ムース「悪いニュースは何だ」
 ボビー「君はこのナンバーで踊らなくていい」
 ムース「じゃあ、いいニュースは?」
 ボビー「君はこのナンバーで踊らなくていい」

 しかし、ケアードの話には、こんなオチはない。
 いいニュースとは、“みなさんがご覧になるのがブロードウェイで最初の上演”だということ。そして、悪いニュースとは、「装置がまだ完璧ではないので、ガタガタ音がしたりすると思いますが、どうかご了承ください」だった。

 そんな、ある種の混乱状態の中で、当初の予定より2日遅れて幕を開けたプレヴュー初日。装置に関しては、大道具の人たちが観客から見えるところまで出てきて移動させるような、正に“試演”状態だったが、演技の方はかなり仕上がっていた。そこからの推測だが、装置が完璧になったとして、素晴らしい舞台になるかどうかは大いに疑問。
 シャーロット・ブロンテが1847年にイギリスで発表した同名の長編小説の舞台ミュージカル化『Jane Eyre』(作曲・作詞/ポール・ゴードン、補作詞・脚本/ジョン・ケアード)は、スタイルとしては、同じくケアードが(トレヴァー・ナンと共同で)演出を手がけた、やはり長編小説の舞台化作品『Les Miserables』に代表されるロンドン産のオペラ的ミュージカルを踏襲しながら、題材としては、『Les Miserables』のようには効果的なダイジェストがしにくいという性格を持っている。その、スタイルと題材との齟齬が、この作品の“失敗”(と断定してしまう)の原因だろう。
 そして、そこに、’80年代後半から大きな流れを作ってきたロンドン産オペラ的ミュージカルの行き詰まりを見た。

 『Jane Eyre』とはどんな話か。
 [孤児として満たされない日々をおくった家庭教師ジェーンの、主人ロチェスターへの愛のめばえの中に、当時の抑圧された女性の独立と自由への訴えを描出する。] (国語大辞典/小学館)なんていう、80字以内でまとめよ的ダイジェストもあるが(笑)、もう少していねいにストーリーを追うと次のようになる(小説とは、多少時間的に入れ替わっている部分もあり、登場人物も少なくなっているが、一応、舞台の流れに沿って書く)。

 1840年代のイングランド北部。厳しい自然が人々を待ち受ける土地。
 孤児であるジェイン・エアは、意地の悪い伯母のリード夫人やその息子ジョンにいじめぬかれたあげく、ローウッドという、規律が厳しく設備も整わない、孤児のための寄宿学校に入れられてしまう。いっそう心を閉ざすジェインに救いの手を差しのべたのが、ヘレンという生徒。ジェインに寛容の心を教えたヘレンは、しかし、病に倒れ帰らぬ人となる。
 成長し、教養を身につけたジェインは、住み込みの家庭教師として、ロチェスターという貴族の屋敷に出向く。ところが、教えるべき少女や使用人たちはいるものの、少女の後見人である主人ロチェスターの姿はない。いぶかしく思うジェインだったが、ある日、近隣の村へ行く途中で見知らぬ男が落馬するのに遭遇、助けようとして言葉を交わし、強い印象を受ける。帰宅してみると、驚いたことに、その男が屋敷にいる。実は、彼こそがロチェスターだったのだ。
 ロチェスターの風変わりな言動の陰に誠実さを見たジェインは、彼に恋心を抱き始める。一方、屋敷内では、得体の知れない幽霊のような存在による不可思議な事件が度々起こる。が、そうしたことや、身分の違い、ロチェスターとの結婚を目論む貴族の娘の存在などを乗り越えて、ジェインの率直な態度はロチェスターの心を動かし、ついにはプロポーズに到る。
 そして、結婚式。ところが、教会で 2人が誓いの言葉を交わそうとした時、列席していたロチェスターの友人から異議が唱えられる。ロチェスターには妻がいるからジェインと結婚することはできない、と言うのだ。
 式の中止を宣言したロチェスターは、ジェインらを屋敷に連れ戻って、幽閉状態だった妻の姿を見せ、告白する。ロチェスターに財産を与えたくなかった、今は亡き父と兄の策謀により、若き日のロチェスターが1人ジャマイカに行かされて、持参金付きの“妻”と強引に結婚させられたこと。ほどなく“妻”が精神に異常をきたしたこと。そうなることを父や兄は知っていたこと。父や兄が亡くなった後、事情を知る者のないイギリスに帰り、“妻”の存在を隠したまま、半ば隠者のように暮らし始めたこと。その間の孤独。そしてジェインとの出会いにより救われた心……。
 しかしジェインは、衝撃の大きさに耐えきれず、ロチェスターの元を去る。あてもなく、荒野へと……。そして、さまよった末に持ち金も尽き、あわや行き倒れになりかけたジェインは、とある牧師の家にたどり着き、救われる。
 その地で暮らし始めたジェインの元に、リード夫人からの知らせが来る。すでに亡くなっている息子のジョンの放蕩によって財産も失い、心身共に疲れ果てたリード夫人は、死の床に就いていた。かつては憎しみを覚えた伯母を赦す気持ちになったジェインに、死ぬ間際の夫人は、隠していた事実を伝える。ジェインには、彼女のゆくえを捜している裕福な叔父がいることを。
 その後、平穏な暮らしを取り戻したかに見えたジェインだったが、牧師から、自分の妻となって宣教活動を支えてくれないかと請われ、再び心に波が立つ。親しみを感じながらも牧師を愛することはできないジェインは、重ねて牧師に決意を迫られた時、ロチェスターが自分の名を呼ぶ声を闇の中に聞く。その声に導かれるように、ロチェスターの屋敷へと戻っていくジェイン。が、たどり着いた彼女が見たのは、“妻”の放火が原因で焼け落ちた屋敷の残骸だった。
 しかし、幸いにもロチェスターは生き残り、火災時に人々を救おうとした時の事故で視力を失ってはいたものの、付近の小屋で暮らしていた。ジェインは、そんなロチェスターに結婚を申し出、彼を支えて生きていくことを誓うのだった。

 『Les Miserables』のミュージカル版は、極端に言うと、物語のおいしいところだけを舞台上で再現した“超”ダイジェスト作品だ。しかし、その物語には、TVシリーズとして人気を得、後に映画化もされた『The Fugitive』(逃亡者)のネタ元になったとも言われている、ジャン・ヴァルジャンとジャベールとの追跡劇というわかりやすいドラマが、全編を貫く背骨としてガッチリとある。幕開きでヴァルジャン/ジャベールの因縁を提示された観客は、その2人が登場する限りにおいてストーリーは理解できるし、気持ちをそらされることがない。だから、その背骨に肉付けされたメロドラマ、ファンティーヌとエポニーヌという2人の女の悲劇も、冷静に観れば唐突な印象を受けるにもかかわらず、余分な説明なしで押し通すことができてしまう。
 では、『Jane Eyre』を貫くドラマは何か。“ロチェスターへの愛”か、“抑圧された女性の独立と自由を求める生き方”か。まあ、文学的に言えば後者だろうし、通俗的な興味で言えば前者と言うことも可能だろう。舞台では、後者を意識しつつ、それだけでは抽象的すぎるので前者の色合いを強く出していた。しかし、その“ロチェスターへの愛”にしたところで、例えば『West Side Story』のように2人の間に大きな障害があって、それを乗り越えていこうとする、というようなわかりやすい構造ではない。要するに、『Jane Eyre』には、観客があまり考えないでも飲み込めるような明快なドラマがないのだ。
 問題は、それにもかかわらず、『Les Miserables』風のオペラ的ミュージカルを目指したところにある。

 考えてみてほしい。商業的に成功を収めたロンドン産オペラ的ミュージカル作品は、どれも、“観客があまり考えないでも飲み込める明快なドラマ”を持っているのだ。
 『The Phamtom Of The Opera』は「怪人の乙女への偏愛」、『Miss Saigon』は「“蝶々夫人”的悲恋」、アメリカ産ながらロンドン産オペラ的ミュージカルの模倣である『Jekyll & Hyde』でさえ「二重人格者の惨劇」という、ひと言でくくられて、しかも具体的なイメージのドラマがストーリーの核になっている(『Sunset Boulevard』? 失敗作でしょ)。
 なぜか? 現代の大衆的オペラとして、楽曲の魅力、特にアリア的楽曲の魅力を発揮させるためには、枠組みは通俗的と言っていいほどわかりやすく、メロドラマ的色彩が強い方がいいからだ。ストーリーが複雑になれば多くのレチタティーヴォ(叙事的歌唱)が必要になってくるし、心理的に難しいドラマになると楽曲もスティーヴン・ソンドハイム的に難解になる可能性がある。それでは多くの観客に支持される舞台にはなり得ない。
 その意味で、『Jane Eyre』は、『Les Miserables』的なスタイルのミュージカルには向かない題材なのだ。

 ところで、ここに、『Marie Christine』という作品がある。スタイルが“オペラ的”である、若い女性の半生を描いている、という点が『Jane Eyre』と共通している。そして、この作品もまた、“観客があまり考えないでも飲み込める明快なドラマ”を持っていない。しかし、商業的成功は得られなかったが、『Marie Christine』は、芸術的には非常に優れた充実した作品となった。
 なぜなら、『Marie Christine』の“オペラ的”は、ロンドン産の“オペラ的”とは発想が違うからだ。ロンドン産の“オペラ的”がヨーロッパ・オペラの手法を現代的演劇作法の中で再生させようとしているのに対して、『Marie Christine』の作者たちは、物語の内容をより深く表現するために“オペラ的”手法を選び採っているのだ。その証拠に、主人公の人格に織り込まれている血の歴史を反映して、楽曲は、クラシカルに聞こえるその奥に、ゴスペル→カリブ→アフリカという幾重にも重なった響きを抱え込んでいる。一見“オペラ的”ではあるが、アメリカの黒人社会を描くのにブルーズやゴスペル的な要素を取り込んでいった『Porgy And Bess』が独創的であったのと同じ意味で、『Marie Christine』の音楽は、ヨーロッパ・オペラの手法の再生とは全く違う独創性を持っているのだ。
 逆に言うと、そうした内容に即した独創的な音楽性なしには、『Marie Christine』という複雑な作品は成立させられなかった。
 ここに1つのヒントがある。
 ジョン・ケアードが『Jane Eyre』の、どこにこだわってミュージカル化を押し進めたのか、ちょっとわからないが、『Les Miserables』的なスタイルをなぞっては成功しないのであれば(という説が正しいとして)、ケアード自身が物語の核だと考える部分に立ち戻って、その本質に沿った音楽作りから始めれば、少なくとも目指す作品の姿はくっきりと現れてきたのではないだろうか。

 わかりやすい内容と魅力的な楽曲によるオペラ的ミュージカルも悪いものではないが、ロンドンで上演中の『Notre Dame De Paris』『La Cava』などを観ていると、オペラ的ミュージカルを作るという目的だけが独り歩きして、内容の掘り下げがあまりにもなおざりにされているという印象を受け、少しばかりうんざりしてくる。
 『Jane Eyre』には、もう少し志があるような気もするが、ともあれ、プレヴュー初日に関して言えば、ねらいを絞りきれず中途半端な舞台になっていたことは間違いない。これは根本的な問題なので、仮に吊り下げたパネルを駆使した華麗な装置(ジョン・ネイピエ)が見事に稼働したとしても解決できないと思うのだが。

 出演者では、主演のマーラ・シャーフェルがとにかく熱演。出づっぱりで舞台を支える。もちろん歌はうまいし、少し頑ななジェインに似つかわしい外見だが、原作を知っているとやや老けて見える。まあ、それで問題はないのだが。
 ロチェスター役のジェイムズ・バーバーは、柄は合っているが、演技が類型的。
 もうけ役は、作品中唯一のユーモラスな人物、ロチェスター家の家政婦フェアファックス夫人で、演じたのはメアリー・スタウト。ブロードウェイをはじめTVの人気シリーズまで幅広く活躍する人のようで、こういう人材には事欠かないのがうらやましい。
 しかし、全員で21人というカンパニーでは同じ役者の兼任が多すぎ。特にリード夫人とその息子ジョンなど、初めの方で強い印象を残すので、後から別の役で出てきた時に、さすがに違和感がある。>

 途中、ミュージカル化を押し進めたのはジョン・ケアードだと決めつけて話を進めてますが、今思えば、楽曲作者のポール・ゴードンである可能性の方が高いのかな、と。
 ゴードン(楽曲)✕ケアード(脚本・演出)のコンビは、後に『Daddy Long Legs』を作ることになりますね。こちらは作品としては成功。って話は、またいずれ。

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