The Chronicle of Broadway and me #279(Urinetown)

2001年11月@ニューヨーク(その2)

 『Urinetown』(11月11日17:30@Henry Miller’s Thatre)について、「新世紀の『三文オペラ』か」のタイトルで旧サイトに書いた感想です。

<“小便町”――こんなタイトルでお客さん来るの? と、劇中で登場人物(リトル・サリー)も心配する『Urinetown』。しかし、今年の春にオフでオープンし(未見)、好評を得てオンの劇場に移った。今シーズンの、一応のヒット作だ。
 “一応の”と書いたのは、例えば、『Jekyll & Hyde』のような“観光客受け”する作品ではないからで、かと言って、オフオフ→ブロードウェイという似た経緯をたどった『Rent』のように、マニアックなファンを生む作品でもない。
 なぜなら、題材がカッコ悪く、語り口が皮肉で、悪ふざけのごときパロディ・シーンが多いからだ。ひねくれている、と言ってもいい。
 ただ、エンタテインメント精神は旺盛。そのバランスが、オンに移ってもウケている理由か。今、ブロードウェイには骨のある作品が少ないからなあ。

 内容はこうだ。

 深刻な水不足に悩む街がある。その解決策として、私用トイレを禁止し、排便は公共トイレでのみ“有料で”行なっていい、とする法律が施行されている。
 有料トイレを管理するのは、政府から独占的に営業を認可されている、ユーリン・グッド・カンパニーという民間企業。そして、一方に、日々のトイレ代にも事欠く貧しい人たちがいる。物語は、この両者の対立を軸に進む。
 街では、今朝も早くから公共トイレの前に長い行列ができている。
 その中にいる中年男オールドマンは、今朝のトイレ代が捻出できていない。入口で料金を徴収する女性ペニーに頼み込んで、なんとか入れてもらおうとするが、冷たく拒絶される。次に、ペニーの助手ボビーに助けを求めるオールドマン。ボビーはオールドマンの息子なのだ。しかし、法律は法律。ペニーの厳しい監視もあり、ボビーは父を救ってやることができない。
 やけになって路上で放尿するオールドマン。すると、即座に警官が現われ、オールドマンを拘束して連れ去っていく。
 その頃、ユーリン・グッド・カンパニーでは、経営者クラッドウェルが、賄賂を渡して抱き込んでいる政治家と、トイレ料金の値上げについて画策していた。そこに、無垢で、まるで事情がわかっていない、クラッドウェルの愛娘ホープが、大学を卒業して戻ってくる。
 そのホープが、街中で偶然ボビーと知り合うことから、話は急展開を始める。
 ホープの純粋さに感化されたボビーは、急進的になり、トイレ料金値上げによって母親も窮地に陥ったのを機に、ユーリン・グッド・カンパニー(=クラッドウェル)に叛旗を翻す。ペニーに逆らって公衆トイレを無料開放したのだ。
 さらにボビーは、クラッドウェル一族の一員だとわかったホープを拉致。貧しい市民たちと共に、クラッドウェルと対決する意思を固める。(第1幕終わり)
 
 地下に潜むボビーたちのところに、話し合いたいというクラッドウェルのメッセージを携えて、ペニーがやって来る。
 応じてユーリン・グッド・カンパニーに出向いたボビー。ホープの解放と引き換えにトイレ料金の徴収を止めろ、という要求を突きつけるが、クラッドウェルは拒否。逆に、ボビーに札束を渡し、買収しようとする。
 断るボビー。警官たちに、ボビーを処分するように命じるクラッドウェル。それではホープの命が危ない、と止めに入るペニーのことなど気にも留めずに。
 結局ボビーは、ユーリン・グッド・カンパニーの屋上から突き落とされる。ボビーの最期を知らされた市民たちは色めきたってホープに手をかけようとする。それを止めたのはペニー。実は、ホープはペニーがクラッドウェルとの間にもうけた娘だったのだ。
 ホープは、ペニーからクラッドウェルの非情さを聞かされ、加えて、ボビーの最期を看取った少女リトル・サリーからはボビーがホープに残した愛の言葉を聞かされて、市民と共に立ち上がることを決意。彼らを率いてユーリン・グッド・カンパニーに乗り込み、クラッドウェルたちを打ち倒す(クラッドウェルは屋根から落ちる)。
 ユーリン・グッド・カンパニーの実権を握ったホープは、その理想主義に則って、トイレを市民たちに開放する。
 こうして、物語はハッピーエンドで幕を閉じるかのように見えたが、しかし……。

 深刻と言えば深刻な話。
 しかし、初めに書いたように、題材のカッコ悪さ、皮肉な語り口、悪ふざけのごときパロディといった要素が、この作品に一筋縄ではいかない印象を与える。

 題材のカッコ悪さ――は、見ての通り。トイレの話ってのは、どうしたって、下世話な印象から逃れられない。それが人間にとって逃れられないことであるから、余計に。
 皮肉な語り口――とは、もっぱら、狂言回しである2人、警官ロックストックと貧しい少女リトル・サリーとの会話に表れる。冒頭に書いた、タイトルについての批評がその典型だが、この2人、ストーリーの説明をする傍ら、やたらに、この舞台がミュージカルであることを強調し(ロックストック)、ミュージカルなのにこんな風でいいのかという疑問を投げかける(リトル・サリー)。
 悪ふざけのごときパロディ――というのは、ショウ場面で見られる。はっきりとわかるのは、『West Side Story』『Fiddler On The Roof』だが、その他の場面も、どことなくパロディめいて見える。そこには多分に、ロックストックの「これはミュージカルだ」発言が影響しているとも思えるが。

 深刻な話をひねくれた表現で見せる、という意味において、『Urinetown』『The Threepenny Opera(Die Dreigroschenoper)(三文オペラ)に似ている。
 そう言えば、物語としても、組織的な悪のはびこり方(トイレの独占会社と乞食組合)、その背景の腐敗した政治状況、悪の親玉の無垢な娘が敵方のヒーローに惚れるところ、など共通点は多い。楽曲的にも、冒頭のナンバーなど、クルト・ヴァイルの香りがしないでもない。舞台全体のトーンの暗さと、それに反比例した楽曲の不思議な陽気さ加減も、似ている。
 しかし、人物造形という点では、傑作『The Threepenny Opera』と比べてしまうと、底が浅いという印象は免れ得ないのも事実。……なのだが、だからこそロックストックは強調するのかもしれない。「これはミュージカルだ」と。
 「これはミュージカルだ」発言の背後には、深刻な話を深刻な顔をしてしないという諧謔の姿勢があると同時に、「今のニューヨークで興行として成功するためには、こうするしかないでしょ」という、被虐の意識も透けて見える。
 いい楽曲が並び(作曲・作詞マーク・ホールマン、作詞グレッグ・コティス)、ショウ場面も楽しく、テーマにも骨があるにもかかわらず、どうしても、もう1歩踏み込んで評価しきれないのは、そうした“ひるみ”を感じたせいかもしれない。
 結末を観客に投げかけるやり方(内容の最後「しかし……」に続くのは、ロックストックのナレーションで説明される水不足の復活による街の破綻)も、今日的な表現と受け取ることもできるが、もうひとひねりアイディアが欲しい気もする。
 しかし、これが、今のブロードウェイで観るべき作品のトップに位置するのは間違いない。>

 もっと褒めてると思い込んでた。それにしても回りくどい(笑)。
 『Urinetown』は自分の中では評価の高い作品。ここでの厳しめのツッコミは、おそらく、当時のブロードウェイ・ミュージカルの状況に停滞感を覚えていたがゆえなのだという気がする。

 役者のことを書いていないのも不思議。とてもよかったので改めて。
 舞台の空気を決定づける狂言回しのロックストックと貧しい少女リトル・サリーが、ジェフ・マッカーシー(『Side Show』)とスペンサー・ケイデン(トニー賞助演女優賞ノミネート)。クラッドウェル役のジョン・カラム、ペニー役のナンシー・オペル(!)はトニー賞主演男優賞/主演女優賞にノミネート。ボビー役のハンター・フォスターはこの作品でブレイク(サットン・フォスターのお兄さんです)。ホープ役はジェニファー・ローラ・トンプソンだが、観た回はアンダースタディのエリン・ヒルが演じていた。

 演出ジョン・ランドウ。振付ジョン・カラファ。

 8月27日にプレヴューを開始して、当初は9月13日が正式オープンの予定だったが、2日前の事件の影響で1週間遅れてのオープンだったらしい。結局、2004年1月までのロングランになる。

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