The Chronicle of Broadway and me #227(James Joyce’s The Dead)

1999年11月ニューヨーク(その5)

 『James Joyce’s The Dead』(11月21日19:00@Anne G. Wilder Theater)について、「アイルランドの香り、しみじみと」というタイトルで旧サイトに書いた感想です。
 上掲写真は、当時(改築前)のプレイライツ・ホライズンズ劇場。

<オフでの限定公演の好評を受けて、今月、ブロードウェイの劇場での期間限定公演(2月20日まで)を開始した『James Joyce’s The Dead』
 “あざとい”ところのほとんどない渋い作りの作品だが、生まれる空気が滋味豊かで、しみじみと感動する見事な舞台に仕上がっていた。
 物語の舞台は今世紀初頭のアイルランドの首都ダブリン。年老いた音楽教師姉妹ジュリアとケイト、その姪でやはり音楽を教えるメアリー・ジェインの3人が住むモーカン家で、恒例のクリスマス・パーティが開かれている。
 そこに遅れてやって来たのは、老姉妹のお気に入りの甥ゲイブリエルとその妻グレッタのコンロイ夫妻。2人は顔なじみの他の客たちと共に叔母たちの歓待を受け、いつものように和やかな時を過ごすが、ジュリア叔母の衰えもあり、その夜はどこかしら感傷的な気分が漂う。それでも慈しみの言葉を掛け合いながら、温かい気持ちでモーカン家を後にする客たち。
 コンロイ夫妻も取っておいたホテルに戻るが、ゲイブリエルは妻の様子がおかしいことに気づく。理由を尋ねると、お開きになる少し前にパーティに来ていたテノール歌手が歌った歌が、彼女の悲痛な記憶をよみがえらせたと言う。
 10代の頃に思いを寄せ合った青年がよく歌ってくれた歌。そして、身体の弱かったその青年は、彼女が修道院に入るために故郷を離れるのを悲しむあまり、死んでしまった……。
 ベッドで泣き伏す妻を不思議に優しい心で見守りながら、ゲイブリエルは、人の生と死に思いを馳せるのだった。

 ――とまあ、ストーリーの概略を書くとこんな風になる。

 この作品の原作はジェイムズ・ジョイスの短編集「Dubliners」(邦題:ダブリン市民)の最後に収められた同名小説(「The Dead」)だが、個人的には、ジョン・ヒューストン(ミュージカル・ファンには映画版『Annie』の監督として有名?)の遺作となった映画版を先に観た。印象に残っているシーンは、漆黒の闇に包まれた雪の街路と、そこをゴトゴトと走る馬車、それに、思い詰めたアンジェリカ・ヒューストンのクロースアップ。静かで、重く、幻想的な作品だった気がする。
 ともあれ、こうした見かけ上は淡々としている物語を、舞台ミュージカルとしてどう展開させるのだろうか。最大の興味はそこにあった。
 が、観てわかったのだが、ミュージカル化すること自体が、この作品を舞台化するにあたっては不可欠だったのだ。少なくとも今回の舞台では、ミュージカルという手法が、題材にとっての必要十分条件として、過不足のない素晴らしい効果を上げていた。

 “ミュージカル化”と言っても、この作品、前半は“プレイ・ウィズ・ミュージック”と呼ぶ方がふさわしい。
 パーティには、音楽を教えるモーカン家の女性たちの生徒も来ていて、彼らの演奏に合わせて、客や姉妹たちが、歌ったりピアノで共演したり時には踊ったりする。つまり、劇中の歌や踊りは、ミュージカル独特の非現実的表現としてではなく、実際にパーティで歌われたり踊られたりしているものとして出てくるのだ。
 舞台上でチェロとヴァイオリンを弾く2人の生徒役はホンモノのミュージシャン。役者が弾くピアノは、鍵盤は動いているが実際には音は出ていない。残りの楽器(ピアノ、ギター、オーボエ/イングリッシュ・ホルン、パーカッション、シンセサイザー/ハーモニウム)の演奏者は舞台右奥に隠れている。
 しかし、そうした伝承歌や当時のヒット・ソングを模して作られた楽曲の数々は、登場人物の直接的な感情表現ではないものの、熱情と哀愁をない交ぜにしたようなアイルランドの人たちの心情を問わず語りに描き出して、ストーリーとは別の部分で舞台の気分を熟成させていく。
 プレイビルによれば、これらの楽曲の詞は、18~19世紀のアイルランド詩人の詩や作者不明のミュージック・ホールで歌われた歌の改作か、それらにヒントを得て作られたたもの、あるいはジョイスが原作で書いたものに手を加えたもので、さらに一部を、脚本のリチャード・ネルソンと作曲のショーン・デイヴィが新たに書き下ろしている。
 おそらく、こうした楽曲を加えて今世紀初頭のアイルランド人たちの集いを再現しようというアイディアが、今回の舞台化の発端にあったのではないだろうか。

 そうやって熟成してきた舞台の気分は、全4景中第2景の最後に出てくる「Wake the Dead」という歌によって別の次元へと誘(いざな)われる。
 この歌は、それまでの歌と同じように見えて、実は、この作品で初めてのミュージカル独特の感情表現として現れる。
 具体的に言うと、こうだ。
 盛り上がるモーカン家の人たちに対して、階下の住人が苦情の意味で天井(モーカン家にとっては床下)をドンドンと叩く。水をさされて一瞬、一同シンとするが、ナイーヴな酔っぱらいの青年が、これがアイルランド人の喜びなんだ! とばかりに突然床を踏みならしながら叫ぶように歌い始める。それに同調して、全員が歌い、床を蹴って踊りだす。
 歌い始める動機と言い、その後の全員による踊りと言い、注意深く観ていれば明らかにそれまでとは一線を画す表現方法をとったこの1曲以降、作品はミュージカルとしての飛躍(あるいは深まり)を緩やかに見せ始める。時空のスウィッチが切り替わり、舞台上で現実と幻想とが錯綜し始めるのだ。
 ジュリア叔母の死の予感や、やはり死にまつわるグレッタの思い出を導き出し、ドラマをクライマックスへと向かわせる、そうした劇的変化は、しかし、舞台上でこれ見よがしに起こるのではなく、むしろ観客の心の中でジワジワと広がっていく。と言うのは、この作品の音楽は、“プレイ・ウィズ・ミュージック”的な前半はもちろん、ミュージカル的展開を始める後半に到るまで、極めて自然な形でドラマに寄り添い、鬼面人を驚かすようなやり方ではなく、全ての楽曲の積み重ねによって何事かを描きだそうとしているからだ。
 華やかなソロをとって喝采を受けてもおかしくない、ミュージカルの世界で実績を持つキャストを集めていながら、ショウストッパー的場面を全く作っていないのが、その象徴。だからと言って物足りない気持ちにならないところに、この作品の素晴らしさがある。

 もう1つ、構成上のアイディアでうまいと思ったのは、ゲイブリエル役のクリストファ・ウォーケンにナレーションをやらせたこと。
 話がわかりやすくなったことはもちろんだが、適度にユーモラスになり、また適度な距離感も生まれて、感傷的になりすぎるのを抑える効果があった。ビッグ・ネームであるウォーケンが直接客席に語りかけることの魅力も、考慮の上のことだとは思う。

 作品中最も美しいシーンは、死の床についたジュリア叔母の元に若き日のジュリアが現れ、デュオで歌いながら共に去っていくところ。
 楽曲のタイトルは「When Lovely Lady」。初めのパーティで、やはりジュリア叔母が、妹のケイトと2人で昔をしのんで歌った歌で、この作品としては最も“あざとい”演出ではあるが、それが見事に生きていた。

 セットは、ソファ、ピアノ、イス、テーブル、と簡素だが、奥の壁に客たちのコートがオブジェ的に掛けてあるなど、細かい配慮が行き届いていて、安っぽさはない。

 キャストはウォーケンの他に、『Side Show』のヒロイン、アリス・リプリーとエミリー・スキナーのコンビ(と言っても、もちろんここでは双子の姉妹ではない。蛇足ながら、最近デュオ・アルバムの第2弾を出した)や、『The Secret Garden』でトニー賞を獲ったデイジー・イーガンら若手女優陣が目につくが、他も、初演版『The Sound Of Music』『A Funny Thing Happened On The Way To The Forum』のオリジナル・キャストだったというブライアン・デイヴィーズをはじめ実力のある人ばかり。中で驚いたのが、ジュリア叔母を演じたサリー・アン・ハウズ。どこかで聞いた名前だと思っていたら、映画『Chitty Chitty Bang Bang』のヒロインをやった人だった。

 演出はジャック・ホフシスが脚本のリチャード・ネルスンと共同で。振付ショーン・カラン。>

 感想の初めに書いてある通り、この作品は、年が明けてオンに移る。

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