The Chronicle of Broadway and me #288(Golden Boy)

2002年3月@ニューヨーク(その6)

 Golden Boy(3月22日20:00@City Center)は、ニューヨーク・シティ・センター恒例の“近年リヴァイヴァル上演されていないミュージカル”掘り起こし企画「アンコールズ!」シリーズの1つ。

 初演は1964年。サミー・デイヴィス・ジュニアが主演したボクサーが主人公のミュージカルだということを、彼の自伝「ミスター・ワンダフル」(原題:Why Me?)を読んでいたので知っていた(だから観たかったんだと思う)。
 楽曲は、チャールズ・ストロース(作曲)とリー・アダムズ(作詞)。『Bye Bye Birdie』『All American』に続くコンビ3作目。
 初演の演出は映画『Bonnie And Clyde』(邦題:俺たちに明日はない)で知られるアーサー・ペン(1967年の同映画でストラウスが音楽を担当しているのは、この舞台でのつながりがきっかけか)。ペンが今日までブロードウェイで演出した15作品中唯一のミュージカル。振付は後に『Sophisticated Ladies』を手がけるドナルド・マッケイル。
 元は1937年にブロードウェイに登場した同名のストレート・プレイで、このミュージカル版にも脚本で関わっているクリフォード・オデッツの作品。1939年の映画化は、ウィリアム・ホールデンの出世作として知られている。
 そのオデッツがミュージカル版でも脚本を書いたが、ブロードウェイ入りの前、デトロイトでの試演が終わった後に亡くなったため、『Miracle Worker』(奇跡の人)で知られるウィリアム・ギブソンに共同脚本という形でお鉢が回ったらしい(『Miracle Worker』の演出がアーサー・ペンというつながり)。
 いずれにしても、プレイとミュージカルでは、ボクシングをやる主人公の設定が、ヴァイオリニストを目指す白人から、一旗揚げようとするハーレムの黒人へと変わっている。
 加えて、このシティ・センター版では、初演版とは曲の並びが変わっている。おそらく、「Concert Adaptation」の名目で参加しているスーザン=ロリ・パークスによって脚本が再構成されたためだと思われる。
 シティ・センター版演出はウォルター・ボビー(『Chicago』)、振付はウェイン・シレント(『The Who’s Tommy』)。

 というのが作品成立のアウトライン。

 この、なかなかに興味深い舞台のことを、残念ながら、あまりよく覚えていない。ウェイン・シレントの振付がシャープだったことはかろうじて……って感じですか(苦笑)。あと、ノーム・ルウィスが出ていたこと(主役ではない)。

 以下、この公演についての(大半想像を元にした)分析を書いてみます。あくまでオマケ(あるいは覚えていない言い訳)として読んでいただければ幸いです。

 ゲットー出身のアフリカン・アメリカンの青年がボクシングで現世的な成功を図ろうとして、いろいろあって破滅する、というのがミュージカル版の「あらすじ」。
 初演の1964年は、客死したケネディの後を受けたジョンソン政権下で、人種差別解消のための公民権法が制定された年。原作ストレート・プレイとの主人公の設定変えは、そんな状況を考慮に入れた上だと考えて間違いないだろう。演じるサミー・デイヴィス・ジュニアは、前年のワシントン大行進に参加してもいる。
 加えて言うと、上記「あらすじ」の「いろいろあって」の部分に、主人公と白人女性との恋愛模様が含まれるのだが、サミー・デイヴィス・ジュニアは、映画女優キム・ノヴァクとの交際をコロンビア映画のボス、ハリー・コーンに止められた上に、48時間以内に黒人女性と結婚しろと脅される(命の危険があったので実際に結婚した)という事件を経た上で、(便宜上結婚した相手と離婚の後)1960年に白人女性と結婚している。
 物議を醸してきた現実と、それをなぞるような虚構との、ない交ぜ。しかも、かなりな切迫感に包まれての。

 そうした切迫感が、21世紀初頭のリヴァイヴァルにあっては、ぼんやりしてしまっていた可能性はある。
 一つは、時代(2002年)のせい。バブルによる国内の表層的な繁栄が過ぎ去った後に訪れた、9.11の衝撃。それに伴う強迫的とも言える国家的一体感の表出から半年。そんな特殊な時期だったことと無関係ではない気がする。ことに観客の側の意識が。
 もう一つは、サミー・デイヴィス・ジュニア的存在の不在。前述したように、時代の象徴としての虚実皮膜のスターがいたからこその切迫感だったとしたら、そこは並大抵の役者では肩代わりできないだろう。この時の主演は、1983年の『The Tap Dance Kid』の主演アルフォンソ・リベイロ。TVでも人気があったようだ。タップ・ダンスが必要な役なので、その意味では適任だが、当然のように、それ以上ではなかった。

 では、と、ここで考える。上記の二つの理由の内の「時代」の方が「今」だったらどうだろうか。逼迫した現実の下、“Black Lives Matter”運動が盛り上がらざるを得ない「今」、このリヴァイヴァルは「主張を持ったエンタテインメント」として受け入れられるだろうか。
 こうした議論は、COVID-19以降の舞台(に限らず全ての表現)が避けて通れないものとなるのだろう。
 そう言えば、来シーズンの「アンコールズ!」シリーズで上演されることになった『The Life』は、演出をする(『Kinky Boots』の)ビリー・ポーターが手を加えた“改変”版になるらしい。当然、「今」のアメリカを反映したものになるに違いない。
 この「アンコールズ!」の『Golden Boy』におけるスーザン=ロリ・パークスの手がけた改変も、2002年なりに、そのあたりの意識の変化を反映したものだったのかどうか。そこを覚えていないのが残念。

 とりあえず、観たけれども覚えていない「アンコールズ!」版『Golden Boy』はおいといて(苦笑)、“Black Lives Matter”の観点で、初演のオリジナル・キャスト盤を聴きながら『Golden Boy』の音楽についてだけ私見を述べておくと。
 チャールズ・ストロース×リー・アダムズの楽曲は、当時としては、音楽的にも内容的にも、斬新だったと思われるものが多い。
 例えば、「Colorful」という曲は、’60年代に始まり’70年前後に顕著になる「Black is beautiful」運動にいち早く反応した内容を持っている。音楽的にも、ボクシングが背景にあるからだろう、ヒップホップ的な感覚が見てとれる曲もあるし、ジャズやゴスペルの新たな展開を試みたような曲もある。
 が、一方で、この楽曲作家チームが本質的に持つ’60年代特有の楽天的な感覚も随所に表れて、それが「今」の耳には「甘く」聴こえてしまう。
 なので、もし「今」リヴァイヴァルさせるとしたら、その点は改善すべきかもしれない。楽曲作者チームは現時点(2020年9月)ではご存命。相談しておくなら今だが。
 この原稿を書きながら、とても観たくなってしまった、“Black Lives Matter”版『Golden Boy』。誰か動かないかな。