The Chronicle of Broadway and me #339(Gypsy[2])

2003年7月~8月@ニューヨーク(その2)

 『Gypsy』(8月4日20:00@Shubert Theatre)をバーナデット・ピータースで観直して旧サイトに書いた感想です。
 実は、途中まで書いて忘れていて、しばらく経ってから後半を書き足しています。ご注意ください(笑)。

前回の観劇では悪い予感が当たって代役で、観逃してしまったバーナデット・ピータース。8月に無事に再会を果たした。
 そして、スターとしての魅力と実力に心を動かされた。

 ところで、前回の感想の中で、「今後ピータースで観る機会があるかどうかわからないが、作品に対する上記の評価は変わらないと思う。」と書いたが、その「上記の評価」というやつを要約して繰り返すと、次のようになる。

 演出家サム・メンデスは、ジプシー・ローズ・リーの母親ローズの、舞台に対する執念の背景に潜む精神的病理を強調することによって、舞台に対する愛情にあふれたブロードウェイ・ミュージカルの傑作と言われる『Gypsy』を、アメリカの抱える闇が生み出すドラマとして描き直そうとした。
 が、そのメンデスの思惑は、オリジナル・スタッフがこの作品に込めた芸能世界に対する愛の深さに飲み込まれ、最終的に舞台は、これまでの『Gypsy』同様、肯定的なテイストの仕上がりになった。

 そして今回。
 やはり、ピータースで観ても、メンデス演出の今回の『Gypsy』に対する評価は変わらなかった……と書こうとして、ふと考えた。
 ピータース版での、この心の動かされ方は何なのだろう。スターの魅力、と言ってしまえばそれまでだが、それだけではない。華やかさの裏に何かゴリッとしたものを感じた気がするのだが……。

 バーナデット・ピータースと代役モーリーン・ムーアとの違いは、女優としての華やかさにある。闇を強調するサム・メンデス版にあっても、ピータースは華やかだったのだ。そして、逆に、その華やかさ故に、よりローズの闇を感じさせた。そんな気がする。「ゴリッとしたものを感じた」のは、そういうことなのではなかったのか。つまり、バーナデット・ピータースによってメンデスの意図は“ある程度”実現できていたのではないか。
 ピータースに動かされた心の中身を考えている内に、そんな気がしてきた。>

 ここまで書いて中断。以下は、しばらく経ってからの書き足しです。

<――というところまで書いて、すっかり忘れてしまっていました。失礼しました。
 以下、続きですが、時間が経っているので、その時に書こうとしたことと同じかどうか……。

 ピータース=ママ・ローズを観て思ったこと。それは、役者になる人たちの業の深さ。
 と言ってしまうと、ひと言で片がつく感じで実も蓋もないのだが、まあ、そういうことだ。
 スターになりたいという夢(欲望)に突き動かされ、全てを犠牲にしながら、しかも夢は叶わない。そういう人間(ローズ)を、現実のブロードウェイの看板女優(ピータース)が演じる。
 そこに浮かび上がってくるのは、感傷的なフィクションではなく、演じている女優自身がもしかしたら辿ったかもしれない、もう1つの、あり得た人生。彼女は、半ば舞台上の人物と同様の人生を送り、多くのことを犠牲にしてきたに違いない。それが、どこかの時点で幸いにもプラスに振れたが故に、かろうじて今この舞台に立っているのだ。
 そう思わせる舞台と現実の二重写しが、演じる女優が華やかであればあるほど、何か恐ろしいもののように観る者の心に迫ってくる。
 もちろん、そうした要素はエセル・マーマンによる初演時から内包していたのだろうが、メンデス演出はそれを際立たせようとした。そして、それが、ピータースが演じることでより強く表われた、と。
 そう感じたのだと思う。>

 と、まあ、そんな風に結論づけてます。

 前回、今回のいずれでも触れていない役者について書いておきます。
 ローズと結婚寸前まで行くハービー役がジョン・ドセット。
 ジューン役がケイト・ラインダーズ。
 バーレスクの楽屋で「You Gotta Get A Gimmick」を歌ってルイーズを教育する3人は、ヘザー・リー、ケイト・バデック(で読みはいいのかな?)、ジュリー・ハルストン。
 「All I Need Is The Girl」を歌い踊るタルサは、若き日のデイヴィッド・バーカ。
 他に、ブルックス・アシュマンスカス(『The Prom』!)、マイケル・マッコーミックといった“うれしい脇役”が出ていた。