The Chronicle of Broadway and me #202 Oklahoma!@Lyceum Theatre(Wellington Street/London) 1999/03/16 19:30 & Oklahoma!@Gershwin Theatre(222 W. 51st St.) 2002/03/23

1999年3月@ロンドン(その4)/★2002年3月@ニューヨーク(その4)

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 2018/2019年シーズンに登場したリヴァイヴァル『Oklahoma!』は、かなりの衝撃作。それについては追って触れるが、ここでは、20年前にロンドンで観た同作のリヴァイヴァルと、その3年後のブロードウェイ版について、旧サイトの感想を上げておく。今シーズンのリヴァイヴァルと大いに関わりがあると思われるので。
 

 まずは1999年のロンドン版から。文中で役者について書いていないが、カーリー役はヒュー・ジャックマンだった。

<「歌、踊り、物語がみごとにとけあっている。ロジャースのスコアは彼の作品のなかでもベストのひとつであるといえば十分だろう。ハマースタインは本格的でオリジナルな台本と親しみやすい歌詞を書いた。アグネス・デ・ミルはちょっとした奇跡を起こした……アメリカ演劇の傑作である。」

 アラン・ジェイ・ラーナー「ミュージカル物語 The Musical Theatre: A Celebration」(筑摩書房)からの孫引きだが、ヘラルド・トリビューンに載った『Oklahoma!』の初演評だ。『Oklahoma!』は、ミュージカル史上最も画期的な作品のひとつとして、すでに評価が定まっている。
 しかし、いかに名作であっても、古びることもあるのだ。ことに、リチャード・ロジャーズ&オスカー・ハマースタイン二世コンビの作品は、作者たちが(無意識の内にか?)抱えていたイデオロギーから古びる可能性が高いのではないだろうか。

 ロジャーズ&ハマースタインの第1作として知られる『Oklahoma!』の初演は1943年。以降2人は1959年の『The Sound Of Music』まで舞台ミュージカル9作品(他に『Carousel』『Allegro』『South Pacific』『The King And I』『Me And Juiet』『Pipe Dream』『Flower Drum Song』)を共作するが、その17年間は、アメリカが第2次世界大戦に本格参入してから終戦後文字通り世界一の大国になっていく道程とピッタリ一致する。
 それまで、ロレンツ・ハートと組んで、洗練された都会的な作品を書くことの多かったロジャーズが、ハートの精神的・肉体的トラブルという不可避の理由で長年のコンビを解消した後、『Show Boat』の作者の1人であるハマースタインと組んでナショナリズムの気分漂う作品群を作り始めたのは、時代の必然だったのかもしれない(『Allegro』『Me And Juiet』『Pipe Dream』は全く観たことがないので、そういった作品かどうかわからないが)。
 特に4作目の『South Pacific』以降は、物語の舞台が、太平洋戦争下の南太平洋の島(『South Pacific』)、19世紀半ばのタイ(『The King And I』)、サンフランシスコのチャイナタウン(『Flower Drum Song』)、30年代後半のオーストリアのチロルの町(『The Sound Of Music』)と、異国(あるいは国内の異国)に広がっていく。この方向は、反植民地主義国家にして民主主義社会の尖兵を自認していた当時のアメリカの心情と見事にシンクロしている。

 『Oklahoma!』が開幕した1943年は、アメリカがそれまでの孤立主義から、そうした積極外交へと本格的に転換していった時期にあたる。もちろん戦時下でもあり、ナショナリズムの気運が高まっていたに違いない。文献をひもとけば、ブロードウェイでも、大恐慌以降多く見られた政治風刺的な作品が、この頃までにはすっかり影を潜めていたことがわかる。
 そんな時代に登場した『Oklahoma!』の舞台は、今世紀初頭のアメリカ中西部。新たな可能性(利益)を求めて突き進む開拓民たち(白人たち)の世界だ。
 半世紀を隔てた相似形。(白人の)自由世界を守るために海外へ軍隊を送り出す時代にぴったりの題材となった。
 さらに半世紀経った今回、ウェスト・エンドでのリヴァイヴァルを観ながら強く感じたのは、作品の底に流れる“不寛容”の気分だ。

 物語はこうだ。
 オクラホマのある村では毎年、ボックス・ソーシャルと呼ばれるイヴェントが行なわれる。若い娘たちの作ったランチを競売にかけ、競り落とした男はその娘とデートできるという、一種のパーティだ。
 牧童のカーリーはボックス・ソーシャルに、牧場主の姪ローリーを誘って行きたい。ところが、牧童と反目する農夫の1人で乱暴者のジャドもローリーを狙っている。ローリーはカーリーの気を惹くために、ジャドと出かけるなどと言ったりもするのだが、結局はカーリーの申し出を受ける。にもかかわらず、カーリーと出かけるとジャドによって不吉なことが起こる夢を見たローリーは、直前になってジャドの誘いにOKしてしまう。
 ボックス・ソーシャル当日、農夫と牧童が一堂に会するピリピリした空気の中で、ローリーのランチは、ジャドとの激しい競り合いの末、カーリーが落とす。そして、カーリーとローリーの結婚も決まる。
 一件落着かと思いきや、結婚式にジャドが乱入。カーリーを殺そうとし、返り討ちに遭う。カーリーは殺人罪で逮捕されそうになるが、村の判事がそうはさせじと、その場で急遽裁判を開き、正当防衛で無罪にしてしまう。
 これに、判事の娘で惚れっぽいアド・アニーをめぐって2人の男が恋の鞘当てをする別の三角関係も絡んで、そちらはユーモラスに描かれるのだが、あくまでサブの話。

 他愛ない恋物語に勧善懲悪の味つけをしたようにも見えるが、僕には、善意の共同体が、内部の異物を徹底したやり方で排除する話に思えた(急ごしらえの法廷での無罪宣告は、リンチの正当化だとも言える)。しかも、異物であるジャドは、どうしようもない陰鬱な乱暴者として描かれるが、意味なく周りと折り合うことを嫌う個人主義者だという見方もできるのだ。
 アメリカの暗黒面とも言える、そうした部分がクロースアップされる結果となったのは、イギリス人が作ったせいなのか、それともオリジナルからそうだったのか。
 僕には、オリジナルがすでに抱えていた問題だったが、当時は、時代の気分がそこに目を向けさせなかった(あるいは、むしろ歓迎した)のではないかと思えてならない。

 今回の『Oklahoma!』は、1993年の『Carousel』に次いで、キャメロン・マッキントッシュとロイヤル・ナショナル・シアターが組んで製作したロジャーズ&ハマースタイン作品リヴァイヴァル第2弾だが、演出(トレヴァー・ナン)、振付(スーザン・ストロマン)、装置・衣装(アンソニー・ワード)、照明(デイヴィッド・ハーシー)などの主要スタッフは全て替わっている。にもかかわらず、一見くすんだ、しかしその底に華やかさを秘めた、視覚的な仕掛けの多い、“立派”な舞台に仕上がったのは前作同様。
 ことに装置は、『Carousel』とはやや趣が違うが、象徴的で大胆な造形が施されているのは全く同じで、強く印象に残る。凹レンズで覗いた時の地平線のように U字形にえぐれた背景(その向こうにオーケストラがいるのを最初だけ見せ、ふさいだ後は様々な表情の空となる)や、幕の表面にズラリと並んだ立体的なトウモロコシや、骨組みだけの大きな納屋など、アイディアも優れている。
 そうした装置や、鮮やかさを抑えてはいるが美しい衣装の色彩を生かす、落とし気味の照明も、渋い効果を上げる。
 『Carousel』では、亡きケネス・マクミランの振付がウェスト・エンド、ブロードウェイの双方で大きな賞賛を浴びたが、今回登用されたスーザン・ストロマン(『Show Boat』の仕事ぶりを認めてということか)は、得意の小道具を使っての細かい振りを組み合わせたダンス(特に最初のダンス・シーン)などで充分に力を発揮する他、オリジナル舞台でアグネス・デ・ミルが名を挙げた、最大の見せ場である第1幕最後のバレエでも、古典を踏まえた確かな技量を見せる。
 ダンスも含めて、役者のレヴェルも上々だった。
 しかし、そうした視覚的なうまさが物語をリフレッシュさせたかと言うと、そうでもない。むしろ、見た目の“立派”さと物語のテイストとが必ずしも噛み合わず、極端に言えば(極端に言えば、ですよ)、空虚な感じすらした。

 舞台としての完成度だけに目を向けるのならともかく、作品の背後に横たわる思想のようなものを考え合わせると、ロジャーズ&ハマースタイン作品の多くは、古びることから逃れられないのではないだろうか。>

★from WEBsite Misoppa’s Band Wagon (12/31/1999)
 

 続いて、2002年のブロードウェイ版の感想。

<いくぶん陽気になっている気はした。
 同じプロダクション(製作/キャメロン・マッキントッシュ、ロイヤル・ナショナル・シアター)による1999年のロンドン版と比べて、の話だ。
 ヒロインのローリー(ジョゼフィーナ・ガブリエール)と“悪役”ジャド(シュラー・ヘンズリー)はロンドン版からの横滑りではあるものの、大半のキャストが、作品の舞台であり生まれ故郷でもあるアメリカの人間になっているのが大きい。
 ことに、ジャドとローリーを争うカーリー(『The Full Monty』のパトリック・ウィルソン)や二枚目半のウィル(ジャスティン・ボーン)といった牧童役はより開放的になり、その結果、ロンドン版に感じられた収まり返った行儀のよさ(=立派さ)みたいなものが薄らいでいた。キャストの要(かなめ)となるローリーの叔母を演じたのが、軽妙に動ける達者なコメディエンヌ、アンドレア・マーティンだったことも見逃せない。
 おかげで、スーザン・ストロマン振付のダンス・シーンが、よりいきいきして見えたのは事実だ。

 しかし、今回のブロードウェイ版に対する感想は、本質的にロンドン版を観た時と変わらない。要約すると、「見た目は立派だが、内在する排他的なイデオロギーに違和感を覚える」ということだ。
 前述した製作、振付だけでなく、演出(トレヴァー・ナン)、装置・衣装(アンソニー・ワード)、照明(デイヴィッド・ハーシー)などの主要スタッフがロンドン版と同じ、その仕事ぶりも全く変化していないのであれば、それは当然のことではある。

 まあ、そんなわけで、キャメロン・マッキントッシュは、『Carousel』同様、ロンドン版をそのままニューヨークに持ってきたのだが、しかし、この作品、予定していた翌シーズンにはブロードウェイ入りを果たせなかった。それが 3年の後、同時多発テロを経て一部に急激なナショナリズムの高揚が見られるという状況の母国に上陸することになったのは、狙いなのか、偶然なのか。
 ともあれ、この、内輪でない者に対して“不寛容”なドラマを持ったミュージカルが今のアメリカでどう受け取られるか、は興味の1つではあった。しかし、(あくまでも“内輪でない者”の見解だが)必ずしも国威発揚という方向には観客は動かなかったように思う。
 むしろ人々は、ドラマ以前の問題として、楽曲の悠然としたテンポに古臭さを感じていたのではないか。いや、他人のことを推測で語るのはよそう。少なくとも僕の耳には、古典の似合うロンドンでならともかく、生き馬の目を抜くニューヨークで聴くと、ロジャーズ&ハマースタインの楽曲は“のんびりさ”加減が際立ち、初演からの60年という時の流れを否応なく感じてしまった。>

★from WEBsite Misoppa’s Band Wagon (4/12/2002)

The Chronicle of Broadway and me #202 Oklahoma!@Lyceum Theatre(Wellington Street/London) 1999/03/16 19:30 & Oklahoma!@Gershwin Theatre(222 W. 51st St.) 2002/03/23” への12件のフィードバック

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