The Chronicle of Broadway and me #309(Movin’ Out)

2002年11月@ニューヨーク(その2)

『Movin’ Out』(11月23日14:00@Richard Rodgers Theatre)について、「反戦の色濃い野心作」のタイトルで旧サイトに書いた感想です。

<モダン・バレエの演出・振付で名高く、自らの名前を冠するダンス・カンパニーも主宰しているトワイラ・サープが、ビリー・ジョエルの既存の楽曲を使って作り上げたのが、ダンス・パフォーマンス『Movin’ Out』
演技者が歌わない、という意味では、マシュー・ボーンの『Swan Lake』(1998年)やスーザン・ストロマンの『Contact』(1999年)と同種の作品。演技者が歌わない上に演奏が録音音源だった『Contact』については、 1999/2000年シーズンのトニー賞を前に、はたしてミュージカルと呼んでいいのかという議論があったが、『Movin’ Out』の場合は、演技者とは別ではあるものの歌い手はいるし、演奏は可動式のブリッジ上にいるバンドがライヴで行なうし、そういう問題は起こるまい(なんてことを書いてる内に、新作ミュージカルとしてトニー賞の対象となることが発表されちゃいました)。とはいえ、いわゆるミュージカルとは印象の違う舞台。
形態で言えば、ロック・バンドをバックにした“モダン・バレエ”・パフォーマンス。そして、内容的には、反戦の色が濃い、アメリカの若者たちの喪失と再生の物語。
ブロードウェイにしては異色の、野心作だ。

5人の若者たちを中心に展開する物語の「あらすじ」がプレイビルに載っているので訳してみる。

●第1幕
1960年代のニューヨーク州ロング・アイランド。
ダンス・パーティの花形カップル、ブレンダとエディに別れが訪れているのと対照的に、熱々のジェイムズとジュディは結婚することになっていた。愛を求めているトニーは、ブレンダに惹かれ、2人はつきあい始める。
やがて、戦争が男たちを故郷から引き離す。恋人たちを残したまま。
そして、ジェイムズは戦闘で命を落とし、トニーとエディは打ちひしがれて帰郷する。ジュディが悲しみにくれる故郷に。

●第2幕
在郷軍人は青年たちの人生をなんとか繕おうとする。しかし、トニーはブレンダとやり直す道を道を見つけられず、エディは誰とも心を通わせることができなくなっていた。
ドラッグと自己嫌悪の孤独な世界へ落ち込んでいきながら、エディは、ジュディを道案内に仕立てて過去の悪夢の中をさまよう。そんな時、公園をジョギングしているジュディに偶然出会ったエディは、彼女の寛容さに触れ、再び人生をやり直すことを自分に許す。
ブレンダとトニーも、互いの心の痛手を癒すのは愛だということを悟る。
友人たちは再び集い、みんながかつての心に戻ったのを確認するのだった。

“戦争”というのはヴェトナム戦争。年代的に考えて、サープにとってもジョエルにとっても切実な体験となった戦争であるに違いない。戦地に赴くのはその国の若者たちであり、それがたとえ自分でなかったとしても自分の家族だったり友人だったりするわけで、戦争に対する感情が、観念的な賛成反対とは別の次元で存在するのだと思う。
そして今、再び大きな戦争の気配。様々な条件が避けがたくアメリカを戦争へと向かわせる今、マスメディアが喧伝する“世論”や“分析”とは別のところで、サーブたちは、戦争が始まると自分たちに何が起こり、どんな感情を抱くことになるのかを、具体的な形で提示したかったのではないだろうか。

そういう思いは、セリフのないパフォーマンスではあるけれども充分に伝わってくる。
逆に、こういう言い方もできる。セリフのないダンス・パフォーマンスだからこそエンタテインメントとして成り立った、と。
それは、『Contact』と比較するとよくわかる。
3つの異なる話から成る『Contact』の場合、それぞれの話からは直接は強い主張は感じられず、むしろストーリー上の“オチ”に目が行く。そして、3つの話が出そろった時に、初めて全体のテーマ(“コンタクト”)が浮かび上がってくる。もちろん、そこで展開されるダンス表現はテーマと有機的に結びついているし、振付自体も魅力的なのだが、そのこととは別に、個々のストーリーのヒネリや全体の構成のアイディアが面白さを生み出している割合も大きい。
それに比べて、『Movin’ Out』の場合、ストーリーは、戦争が生み出す人生の痛みを、際立った伏線もなく誰の目にも明らかな形でストレートに描き出していて、その展開だけで観客の興味を惹きつけられるとは言いがたい。そんな普通のミュージカルに仕立てたら失敗しそうなヒネリのない物語がブロードウェイの舞台にかかる作品に仕上がったのは、ダンス・パフォーマンスの魅力ゆえだ。それも、演出や振付の力以上に、個々のダンサーの力量がものを言っているように思うのだが……。これは後述。

そして、もちろん、ダンス・パフォーマンスの力と同時に、よく知られたビリー・ジョエルの楽曲が全面的に使われていることも、この作品が成立するための大きな力になっている。物言わぬダンサーたちに代わって、ダンスだけでは表現しきれない情感や場の気分を表現するのがジョエルの楽曲だ(演奏はほぼオリジナルに忠実だが、なぞったという印象はほとんどない)。
その楽曲の使われ方が、これまた『Contact』と対照的。
『Contact』(ことに第1景、第2景)では、場の設定と楽曲の曲想や内容とが必ずしも直接的には寄り添っていない。例えば、18世紀のフランスの貴族の話なのにジャズ・ヴァイオリン奏者によるロジャーズ&ハート・ナンバーが流れたり、1954年のクイーンズのイタリアン・レストランに来たギャングっぽい客の話なのにチャイコフスキーやグリークやビゼーが流れたり。ここでも、ある種のヒネリが見られる。そして、そのヒネリがパフォーマンスにシャレの感覚を加え、ふくらみを与えている。
一方、『Movin’ Out』の場合は、かなり直接的。歌詞の内容、曲想とも、ほぼそのまま、その場面にハマっている(楽曲の書かれた時期と物語の時代設定とは一致しないが)。典型的な例で言えば、「素顔のままで」という邦題で知られるラヴ・ソング「Just the Way You Are」がジェイムズとジュディの愛を表現するシーンで歌われる、といった具合。そんな中で、第ニ次大戦後のアメリカの歴史を人名や地名や小説やミュージカルのタイトルなどの羅列で綴る「We Didn’t Start the Fire」がヴェトナムの戦場シーンのバックで歌われるのに、ややヒネリが感じられるが、それも意外と言うほどではない。そのハマり具合があまりにも予想通りで興が削がれる瞬間があるのも確か(通りを行くブレンダに男たちが声をかける場面での「Uptown Girl」とか)。ではあるが、ジョエルの物語性の強い楽曲にはそれを上回る訴求力があり、結果的には場面を盛り上げる。ことに終盤は感動的。

こうして、優れたシンガー・ソングライターの視線で母国アメリカを見据えて書かれた楽曲と、深い情感をたたえた力強いダンスとの融合によって、直裁な主張を抱えたストーリーが一級のエンタテインメント作品に仕上がったわけだが、前述したように、この舞台、演出や振付の力以上に個々のダンサーの力量がものを言う。
と言うのは――、ハードなダンス・パフォーマンスだから考えてみれば当然なのだが、プレイビルによれば1日2回公演の日は、昼公演は主要キャスト(エディ、トニー、ブレンダ、ジュディ)が2番手に代わることになっている(ちなみにピアニスト兼シンガーも代わるがこちらは2番手という印象は受けなかった)。で、観た回が土曜のマティネー。もちろんプレイビルには、その4役の代役を告げるプリントアウトの紙が1枚挟まっている。その告知通り全員代役の舞台を観ていれば、ダンサーの力量うんぬんについては何も考えなかったかもしれないのだが、事実上の主役であるエディ役が、なぜか表に書かれていたのと違って、トップ・ダンサーのジョン・セリヤだったため、彼だけが抜きん出て表現力が高いのがはっきりとわかったのだ。
そして、間違いなく、作品自体よりも彼のダンスそのものに強く心を動かされた。
この作品を“モダン・バレエ”・パフォーマンスと呼ぶのは、そういうわけだ。そこに是非の判断はないが、この回に限って言えば、いくぶん物足りなさを感じたのは事実。次の機会があったらベスト・メンバーで観てみたい。

最後に、いち早くオリジナル・キャスト盤を入手して聴いている人が抱くだろう疑問に解答を出しておきます。
なぜ代表曲「New York State Of Mind」が収録されていないのか。カーテンコールで演奏されるからです。盛り上がります。地元ですから。>

残念ながら、ベスト・メンバーでの舞台を観る「次の機会」はなかった。
それより残念だったのは、トワイラ・サープのボブ・ディラン楽曲を使った次回作『The Times They Are A-Changin’』(2006年)が短命に終わって観られなかったこと。先の話だが。