The Chronicle of Broadway and me #396(All Shook Up)

2005年4月@ニューヨーク(その2)

 『All Shook Up』(4月13日20:00@Palace Theatre)は、エルヴィス・プレスリーのレパートリーだった楽曲を使った“ジュークボックス・ミュージカル”。
 別途アップしてある「2006年の“ジュークボックス・ミュージカル”の状況」という論考の対象作品の1つ。そこでの分類に従うと、“ジュークボックス・ミュージカル”としての“型”はB=使われる楽曲の原アーティストと関係のないストーリーが展開される『Mamma Mia!』型。でもって、“オリジナル演奏との距離感”は、①アレンジ=オリジナルとは別のアレンジを加える“独自”派、②楽曲の内容表現=オリジナル演奏の表現を“ヒネる”派になっている(分類の詳細は上記論考をご覧ください)。

 以下、観劇当時の感想(<>内)。

<1955年の夏のある日、名前を聞いたこともないようなアメリカ中西部の田舎町に(とプレイビルに書いてある)、地平線の向こうからギターを抱えた革ジャンパーの男が鉄の馬(モーターサイクル)に乗ってやって来る。
 こうして話は、 60年代のエルヴィス映画というよりも、なんだか小林旭の日活アクション映画風に始まるが(注)、その実体は、どうやらシェイクスピア『A Midsummer Night’s Dream』(真夏の夜の夢)のようだ。

 キリスト教原理主義者のように聖書の教えを振りかざす女性市長の下で禁欲的な生活を強いられて、退屈そうに暮らしていた町の人々が、モーターサイクルの男が登場すると、そのセックスアピールに当てられたように、いきなり恋に目覚め始める。それも、どこかねじれた、唐突で熱い恋に。
 その結果、町は大騒ぎになり、市長はやっきになって“健全な”秩序を取り戻そうとする。が、手塩にかけた息子までもが自分に反抗して駆け落ちしようとするに及び、市長もついに心を開き、忠実な部下として遇していた保安官からの愛の告白を受け入れる。

 要するに、モーターサイクルの男=惚れ薬をふりまく妖精パック、なわけだが、では、なぜ、モーターサイクルの男を妖精パック的存在として設定したのかと言えば、モーターサイクルの男=エルヴィス・プレスリー登場の衝撃の象徴、という発想が大元にあるからだろう。つまり、モーターサイクルの男は、1950年代半ばに登場して若者たちを熱狂の渦に巻き込み、少なからずその人生観を変えさせたエルヴィス・プレスリーという“現象”の化身として描かれている。そんなわけで、この話全体が、エルヴィスは『真夏の夜の夢』の妖精のごとく一夜にしてアメリカの人々の人生を変えた、という認識の比喩的表現になっているのだ。
 そうした批評性(禁欲的キリスト教社会に対するアンチテーゼとしてエルヴィス・プレスリーを評価する、といったこと)を内包していることが、この、ある種“能天気”なミュージカル・コメディに、それなりの厚みを与えているのは間違いない。

 もっとも、この作品、単なる“能天気”なミュージカル・コメディとしても、けっこうよくできていて、つい、『Crazy For You』を思い浮かべてしまった。
 まあ、詳細に比較すれば『Crazy For You』の緻密なギャグにはかなわないのだが、退屈な田舎町に突然よそ者がやって来て騒ぎを巻き起こし、町は活気づき、みんながハッピーになる、という筋立てや、主要登場人物のあからさまな変装に誰も気づかず、それがさらなる混乱の元になる、というあたりは、かなり似ている。
 ことに変装にまつわるドタバタ。
 『Crazy For You』の方は、主人公ボビーが、嫌われたポリーに近づくためにブロードウェイの大プロデューサー、ザングラーに化けてポリーの心を射止める。ところが、そこにホンモノのザングラーが登場して……。この『All Shook Up』では、主要登場人物の1人であるガソリン・スタンドの娘ナタリーが、好きになったエルヴィスの“化身”チャドに相手にされないので、少しでも彼に近づくために、エドという荒っぽい男になりすまし、狙い通りチャドに“ダチ”扱いしてもらう。ところが、そのエドに、ミス・サンドラという、チャドが心を奪われた“いい女”が一目惚れして……。しかも、ここが肝心なのだが、どちらの変装も観客には一目瞭然なのに、舞台上ではバレない。だから、笑える。
 コメディの定石だと思われる、こうした手法を使った『All Shook Up』は、そこそこ楽しい舞台に仕上がっていた(脚本ジョー・ディピエトロ)。

 ではあるのだが、その楽しさが“そこそこ”の段階で留まったのも事実。その理由は、もっぱら“オリジナル演奏との距離感”にある。
 なぜ、この作品の“オリジナル演奏との距離感”が“独自”派で“ヒネる”派だったか。
 その理由は、おそらく、“オリジナル演奏”の表現が深すぎるせいだろう。なにしろ、エルヴィスなのだ。アバ(『Mamma Mia!』)と違って安易に“倣う”と寒いモノマネにしかならない(なにしろアメリカ人はエルヴィスのモノマネをうんざりするほど観てきている)。そして、“近い感触”でシリアスに表現するには、歌詞の意味は(ここで使われているものは特に)表面的には概ね他愛ない。他愛ない歌詞でも深く聴かせてしまうのは、唯一無二のエルヴィスの歌の力なのだ。そうした諸々のことを考えると、やはり、アレンジはモノマネにならないように“独自”派、内容表現は“ヒネる”派にせざるをえない。
 しかしながら、そうした、敬して遠ざける、とでも言うような“オリジナル演奏との距離感”は、全米を震撼させた“現象”としてのエルヴィスを描こうという、この作品の裏テーマの視点からすると、楽曲の存在感を中途半端なものにしてしまったと言わざるをえない。“そこそこ”の作品にしかならなかったのは、そんな理由からだろう。>

 (注)エルヴィス映画としては『Roustabout』(邦題:青春カーニバル)で拘置所から出てきた後のイメージか。……て言うか、チャドは同映画のタイトル曲で町に登場していた(笑)。

 演出クリストファー・アシュレイ。

 役者について書くのを忘れていたので追記。
 チャド役の(スーパーマン的な?)笑顔が印象的なシャイアン・ジャクソンは、これがブロードウェイ初主演。この後、『Xanadu』『Finian’s Rainbow』等で活躍する。
 ナタリー役のジェン・ギャンバティーズもブロードウェイでの主演級はこれが初で、この後『Tarzan』でジェインを演じる。
 ミス・サンドラ役リア・ホッキングはやはりジョー・ディピエトロ脚本の『The Thing About Men』に出ていた人。その前が短命に終わった『Dance Of The Vampires』で、この後がロンドンから来たヒット作『Billy Elliot: The Musical』
 裏の主役とも言うべきナタリーの父親役が、タイン・デイリー版『Gypsy』でハービーを演じたジョナサン・ハダリィ。

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