ミュージカル要素を含むプレイ。
作・演出の谷賢一、音楽の志磨遼平(ドレスコーズ)は、昨年暮れの同劇場『マクベス』と同じ(もちろん『マクベス』はシェイクスピアの翻案)。
内容を予想していたわけではない。ただ、『人類史』と言うからには、もっと時代が移り変わっていくのではないかと思ってはいた。なので、幕開けの原始時代が長く続いた時には、『2001年宇宙の旅』的な展開を見せるのか、と半ば冗談で想像したりもした。いきなり未来につながる、とか。
が、そういうわけでもなく、人々が「ことば」を獲得し、宗教心のようなものが現れ始めた後、場面が変わって、エジプト原始王朝らしき時代の支配層と被支配層の葛藤が描かれることになる。
で、第1幕終わり。
第2幕では、ローマで異端審問を受けた直後のガリレオ・ガリレイが登場。とある村に滞在中にペスト騒ぎが起こり……というドラマが、ほぼ全編を占める。
『2001年宇宙の旅』とは趣向が違うが、ユニークで大胆な構成ではある。
観終わって思ったのは、上からの物言いで恐縮だが、次のようなこと。
「今」に対する示唆や提言を含んでいて、その志は伝ってくる。こうした舞台を作る人々がいることをありがたいと感じ、支持したくなる。が、残念ながら表現として“すごく面白い”というレヴェルには到っていない。
『マクベス』の時と同じ。ワクワクはしなかった。
以下、やや長くなるが、細かく書いてみる。
第1幕は、正直、退屈。
原始時代の前半、人類が「ことば」を獲得する以前は、エラ・ホチルド振付による集団のダンス的動きで表現されていくのだが、生き延びるために集団を形成し、有機的に組織化していくところを描いている意図は伝わるものの、なんらかの感銘を受けるほどには役者の身体的な表現力が達していない。
と同時に、そうした人類の進化(変化?)の経緯については観客の側に知識としてあるから、説明的な表現ならいらないのではないか、という疑問が頭をよぎる。
それに続く、直立から発声、「ことば」の獲得のシーンも同様に、プラスアルファのない説明的な場面なら、そうまでして表わさなくても、という気がしてしまう(加えて言えば、獲得する「ことば」が日本語なのには史実として違和感があった)。
いずれにしても、ここまでは、もっと圧縮してもよかったのではないか、と凡人は考える。が、ここを執拗に描いた理由は後で(たぶん)わかってくる。
「ことば」を獲得した後、族長的立場の人間が存在する集団が成立したあたりで、死生観/宗教観を視野に入れた会話が主要登場人物によって交わされ、原始時代が終わるのだが、作品の基調がそうした論理的会話劇にあることが、続くエジプト王朝らしき時代で明らかになる。
前述したように、エジプト王朝らしき時代では「支配層と被支配層の葛藤」が描かれる。と言っても、被支配層(農民)の1人の青年が、年貢の取り立てについて異議を唱える、という話なのだが。
農耕が発達し、富の蓄積から格差が生まれ、王侯一族とその臣下という力関係が成立している社会。そこに紛れ込んだ(出稼ぎに来た)のが、王の支配が及んでいない農耕に不向きな(自給自足の生活をしている)地域に住む青年。当初の取り決めを超えて年貢を取り立てるのはおかしい、と役人に異議を唱え、役人の声は王の声、王の声は神の声、それに逆らう者はこうだ、と舌を切られそうになる。
それを助けるのが王の娘。舌を切るのはいい。が、私の前で血を流すのは許さない、と『ヴェニスの商人』的な論理。
ところが、そこに王が現れ、青年と、宗教や政治についての問答のようなことになる。その結果、王は青年の舌を切ることを命じる。支配層にとっての被支配層の言論の自由の危険性を指摘して。
なるほど、そう落とすか、と思ったところで幕。
第2幕は、第1幕に比べると、ドラマとしてはまとまっている。
ガリレオ・ガリレイ。同行の助手。ガリレオを尊敬する、連絡は取り合っているが会ったことのない若い学者2人。当時としては先進的な科学的論理を理解する4人が、イタリアの小さな村にある宿屋兼酒場に集う。
そこに、村人の1人がペストで亡くなったという報が入る。カソリック信者である村人たちは、神に背いた者がいるせいだ、とヒステリックになり、“魔女狩り”が始まる。初めは売春婦が矢面に立たされるが、次いで矛先は、異端審問を受けたガリレオに向く。
……という展開は、コロナ禍の閉塞感と自己中心的で偏狭な価値観とが相乗的に生み出している、暴力的な排他性が蔓延する今の世界とシンクロする。
なるほど、と、ここでまた思う。
ただ、この話、ペスト患者発覚以降は、サスペンスフルではあるが、それはもっぱら、“魔女狩り”を先導する巫女めいた女性の狂信的なキャラクターと、それに巻き込まれて興奮していく村人たちの精神状態の怖さによるもので、ドラマの構造がサスペンスを生んでいるわけではない。そこには、排他的な地元民とよそ者という二元的な対立があるだけで、それを超える謎はない。
なので、この後、その方向では盛り上がらない。
ガリレオたちは追い立てられて村を出ていくことになるのだが、彼らの去り際に話がガラッと変わる。この幕の初めに出てきてガリレオと言葉を交わした好奇心旺盛な村の少年の再登場をきっかけに、宇宙を理解するための科学的論理/理論について、前述の先進的な4人が掛け合いのようにして事例を挙げながら、少年に説明する体で風呂敷を広げていく。それに応じて舞台上では装置が転換し、大きな星座の立体模型が出てきたりする。
それまでの村人たちの非科学的な言動を否定するように、科学に基づいた論理的会話劇になっていくわけだ。
そして、その流れで、(『Pacific Overtures』のラスト・ナンバー「Next」のように)科学的発見/発明の歴史が時代設定である17世紀を超えて次々に列挙されていき、ついには現代も超えて未来へ。それは必ずしも輝かしいことばかりではなく……というあたりに来て、悲しげな表情のガリレオからストップがかかる。そのぐらいにしておこう、と。
そんな第2幕を観ながら思い浮かべていたのは、1989年発表のSF小説『ハイペリオン』(ダン・シモンズ著)のこと。28世紀を生きる“人類”の物語。同作とこの舞台を比較して、2つのことを考えた。そもそも、大部の小説の総合的な表現と2時間半の舞台での表現とを比較すること自体に無理があるのだが、ちょうど小説の方を(今さらながら)シリーズで読み進んでいたこともあって、類似点のある2作が妙にシンクロしてしまい……。ま、考えたことを、とりあえず挙げてみる。
1つは、『ハイペリオン』に描かれる「科学の発展の果てに、すでに人類は地球を失い、宇宙に分散して生きている」という未来に到る人類の“過去”に起こったらしいことが、50年前の作品にもかかわらず、この『人類史』終盤の予言をはるかに(しかも現実感を伴って)超えているなあ、ということ。これについては、前述したように長篇小説と舞台終盤に出てくる予言めいたナレーション的セリフの比較だから、比べるのに無理があるのだが。
ただ、舞台の方は、若い学者たちの未来の予測にストップをかけるガリレオの悲しげな表情に、描き切れない未来への含みを持たせたと考えられなくもない。
もう1つは、小説『ハイペリオン』にも重要な要素として出てくる宗教について、この舞台では扱いが軽すぎると感じた。
『ハイペリオン』の世界では、現行の宗教は多くが影響力を失い、それらを複合させた宗教や新興宗教が人々の間に広まっているが、旧来の宗教も含め、その中のいくつかは、主要登場人物の何人かにとって行動規範の重要な要素となってくることもあり、丁寧に描かれる。それも、複数の登場人物の、多様な観点、価値観、心情を通じて。科学が飛躍的に発展した未来においても、程度の差こそあれ、宗教は人々になんらかの影響を与えている。それを前提にした描かれ方だ。
一方、『人類史』で描かれる宗教は、なんと言うか……記号的な感じ。筋の通った論理を嫌う勢力に利用されがちな要素として平面的に扱われている感じ。確かに、宗教にはそうした側面もあるけれども、“人類史”というコンセプトの中で描くにあたっては、その扱いはやはり一面的すぎるだろう。
ここで初めに立ち戻って考える。第1幕で人類が「ことば」を獲得するまでを執拗に描いた理由は何か。
それは、作品のテーマを、論理的会話/思考による相互理解こそが人類を前進させてきた、と設定したからではないか。だからこその、論理的会話劇というスタイル。その中で、宗教は、論理的会話/思考に抗する(抗しがちな)、あるいは対立する(対立しがちな)ものとして(とりあえず)提示されている。そういうことなのではないか。
そう考えると、切れ切れに見せられた3つの時代の物語に1本筋が通って見える気がする。様々な要素が渦巻く『人類史』というタイトルの下、2020年秋の日本で表現すべきはそのこと(論理的会話/思考による相互理解こそが人類を前進させる)だと割り切っての劇化。
少なくとも観客としては、その方向に救いを見出したい、と観終わってから思った。世界の現実を考えると。
いろいろと疑問はあるが、“生もの”である舞台の“生もの”としての価値は、そうした感慨を抱かせてくれた時点で評価するに足ると思う。ワクワクはしなかったが。そう言えば、『マクベス』を観た後にも、そんなことを考えたな。
役者では、部族長、王、ガリレオ・ガリレイを演じた山路和弘の存在感、うまさが、とにもかくにも舞台を支える。
それに次いで重きを担う東出昌大と昆夏美は、時代を超えて運命的につながっている2人として描かれるのだが(原始時代は部族的なものを超えて結びつく男女、エジプト王朝らしき時代は王に異議を唱える青年と彼を救おうとする王女、17世紀のイタリアではガリレオを尊敬する若い学者同士)、物語全体をうまく転がすべく設定されたと思われるこのカップルが、仕掛けとしてあまりうまく機能していなかったので、やや気の毒。第2幕では溌剌としていたが。
その第2幕の昆夏美は、男に扮して出てくる。それは、女だと論理的会話の相手にされない、という理由からだと後でわかる。なるほど、と三たび思った。
いずれにしても、同じ作者の新作が上演されたら、また観に来るだろう。楽しみに待ちたい。
(追記)
作者の谷賢一は、その後、人類史以前に自分史を真摯に振り返る必要に迫られているようだ。