砂の女@シアタートラム 2021/08/31 13:00

 『湊横濱荒狗挽歌〜新粧、三人吉三。』と同じように、この作品もオンライン配信があるようなので感想を上げておきます。
 配信は2021年9月30日10時から。詳細はこちらで(アーカイヴあり)。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチと緒川たまきによる演劇ユニット「ケムリ研究室」の第2回公演。第1回の『ベイジルタウンの女神』@世田谷パブリックシアターはケラリーノ・サンドロヴィッチのオリジナルだったが、今回は安倍公房の代表作の舞台化。

 架空の街のスラム再開発をめぐる(イメージとしては森ビル的な)二大不動産業者の駆け引き×スラム住民たちの戦い、というのが『ベイジルタウンの女神』の概略で、一方の不動産業者のトップである緒川たまきが競争相手の提案する取り引きに応じてスラムに潜入するのが発端。そこから先には、プレストン・スタージェス監督の傑作映画『Sullivan’s Travels』(サリヴァンの旅)を思わせる、ユーモラスな感触でありながらもシリアスでスリリングな展開が待っていて……。
 今日的なテーマを孕みつつ個性豊かなキャラクターたちのエピソードが交錯するミステリアスな構成、ダンスのように昇華される動き(振付/小野寺修二)、往年のハリウッド映画風のロマンティックな音楽(鈴木光介)、華麗なプロジェクションマッピング(上田大樹)+60年代アメリカTV風アニメーション等々、あの手この手を駆使した、演劇の楽しさが横溢する作品だった。

 今回の『砂の女』は、一転、同じ世田谷パブリックシアター施設内のひと回りもふた回りも小さいシアタートラムでの上演で、空間的にも物語としても閉じられた世界。役者も6人と少なく、色彩感も抑え気味で視覚的にも渋い。
 ではあるのだが、演劇的な面白さは『ベイジルタウンの女神』と同質だなあ、と思いながら観た。
 根本にあるのは、舞台と客席との“想像力”の交感(交歓)。見えないものを想像させようとする描きすぎない表現。それを受けとめて見えないものを想像する喜びを享受する観客。その反応を得て、さらに見えない何かを次の展開に加えていく舞台。そんなゲームに興じているようにも感じられるワクワクする空間。
 演劇という行為は一般にそういうものかもしれないが、ケムリ研究室の舞台には、その楽しさがより多く詰まっている気がする。

 有名な原作なので物語の中身には触れませんが、ごぞんじない方には、『Schmigadoon!』に少し似ている、とだけ言っておきます(笑)。

 出演は、緒川たまきと仲村トオル、オクイシュージ、武谷公雄、吉増裕士、廣川三憲、声とシルエットで町田マリー。
 前作同様、振付は小野寺修二。映像には上田大樹に加えて大鹿奈穂の名前もある。美術の加藤ちか、照明の関口裕二はじめスタッフの仕事ぶりも充実。即興性のあるユニークな音楽を舞台上で奏でる上野洋子が素晴らしい。

湊横濱荒狗挽歌〜新粧、三人吉三。@KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ 2021/09/07 13:30

 なんでも、明後日(2021年9月12日)から千穐楽公演のライヴ配信があるらしく(アーカイヴあり)、ならば遅まきながら紹介させていただこうか、と(配信の詳細はこちら)。
 と言いつつ、全く知らずに観た方が間違いなく面白いので(脚本上の仕かけはいろいろあるので)、周辺のことしか書きませんが。

 事前に配られていたチラシには、「時代は現代、どこかの湊街。荒ぶる狗たちのさけびが響く。」という惹句があって、「歌舞伎の『三人吉三』をモチーフに現代に置き換え、アウトローが運命に翻弄される黙阿弥の世界。野木萌葱(作)とシライケイタ(演出)初顔合わせの待望の新作。」という説明が書いてある。ちなみに、タイトルは「みなとよこはまあらぶるいぬのさけび/しんそう、さんにんきちさ。」と読む。
 現代版『三人吉三』。演劇関係者なら一度は作ってみたいと夢想するのではないか、と観客の側から夢想してしまう魅力的な設定。
 それに誘われて観に行ったのだが、犬が吠えているのと、三人の若い悪党が妙ななりゆきでつるむことになることぐらいか、『三人吉三』と似ているのは。お宝探しも似てるっちゃあ似ているが、ちょっと筋が違うし、中の2人が(3人か?)実は〇〇なのも元ネタとは設定が違っている。
 なので、『三人吉三』から離れて、全くの別作品として観た方がいいと思う。魅力の在り所が違うと言うか。現代版『三人吉三』を期待しすぎると、肩透かしになりかねない。

 むしろ何も考えず、腐敗が激しく進んでいるらしい横濱という街の現在?/近未来?/近過去?/パラレルワールド?に存在する(『霧笛が俺を呼んでいる』に出てくるような)妙にレトロなホテルで、行き場をなくした小悪党たちがキレ気味にもがきまくる様を、こちらにとばっちりが来ないようにとヒヤヒヤしながら眺めるのが正しい観方かも。とにかく、役者たちの切迫感とアクションがハンパない。
 愛憎半ばの人間ドラマ、などと言ってしまうと、こぼれ落ちる何かがたくさんある。そんな不思議な魅力のある舞台。

 配信のアタマには、「三人の若い悪党」を演じる、玉城裕規、岡本玲、森優作の対談が付くらしい。
 出演者は他に、渡辺哲、山本亨、ラサール石井、村岡希美、大久保鷹、筑波竜一、伊藤公一、那須凜、若杉宏二。

 『王将』三部作で始まった今シーズンのKAATは、この先も楽しみ。

The Chronicle of Broadway and me #374(夏祭浪花鑑)

2004年7月@ニューヨーク(その2)

 『夏祭浪花鑑』(7月18日19:00@平成中村座)の仮設小屋は、リンカーン・センター敷地内の、ホリデイ・シーズンに『Big Apple Circus』のテントが建つ場所(ダムロッシュ・パーク)に建てられた。
 以下、<>内は、観劇当時、旧サイトに書いた感想。

『夏祭浪花鑑』は、前半を大胆な編集感覚で短縮。その短縮版の芝居に英語のナレーションをかぶせるという日本では考えられない方法で、これまた普通の歌舞伎ではありえない“主要人物紹介”をサクサク済ませて、中盤から後半をじっくり見せる構成。休憩時間が短いこともあるが、 1回の幕間を挟んで約2時間での上演は、演目史上最短では?
 そのアイディアには納得したし、ツボは押さえてあって面白くもあったが、やはり日本での上演の方が“濃い”と思った。
 ま、アメリカ人に見せる公演を頼まれもしないのに日本からわざわざ観に来て、とやかく言うのが野暮なんですが(笑)。>

 この時、十八代目勘三郎襲名を翌年に控えて、まだ勘九郎だった時代。
 共演は、扇雀、橋之助(現・芝翫)、彌十郎、(片岡)亀蔵、七之助、笹野高史、宗生(現・福之助)。
 演出は串田和美。
 理由は忘れたが、勘太郎(現・勘九郎)は同行してなかったんだな。

 そう言えば、今年(2021年)5月25日に観たコクーンでの『夏祭浪花鑑』も、前口上による説明付きの短めの上演だった。しかも、幕間なし。こちらが短かったのは(おそらく)コロナ禍のせいだが。

Jazzyなさくらは裏切りのハーモニー~日米爆笑保障条約~@新橋演舞場 2021/06/16 13:30

 コロナ禍で延期になっていた熱海五郎一座公演。紅ゆずる、宝塚歌劇退団後初の本格的舞台出演がようやく実現した。

 舞台は意外にも第二次大戦中のアメリカ西海岸サンフランシスコ。そして、意外にもアメリカ敗戦の大統領声明がラジオから流れる。アメリカは東西に分割され、西を日本が、東をドイツが統治することになるという。
 三宅裕司をはじめとする登場人物たちは、日系アメリカ人のジャズ・メンという設定。彼らは日本兵の戦意喪失を目的としたラジオ番組で演奏していた経緯があり、戦勝国として上陸してくる日本の対応に不安を抱いている。ことに、その番組でアナウンサーを務めた、「東京ローズ」ならぬ「ニューヨークのさくら」と名乗る謎の日系女性に対する追及は厳しいものになるだろう。
 そこにやって来るのが、占領軍司令官・マツカサ(渡辺正行)と強面の海軍中佐・モトホシクミ(紅ゆずる)。日本文化を押し付ける一方で、「さくら」の正体を探ろうとする彼らと、日系ジャズ・メンとの駆け引きが始まる。人々の命運やいかに?

 この「意外にも」が重なる、ある意味シリアスな設定は野心的。正直、脚本のツメは甘いのだが(もうひとひねり欲しいところ)、今の時代に重なる空気感も敏感に取り込んでいて、全体としては面白い。
 が、熱海五郎一座の面々の動きが弱い、と感じて少し物足りなかった。
 元々、動きで見せるタイプのメンバーはいないのだが、それでも立ってセリフを言うだけの場面が多い。例外が渡辺正行。たいして動くわけじゃないが、いつものわざとらしい動きが際立って見える。そのぐらい周りが動かない。
 そんな中、ひとり気を吐くのが紅ゆずる。SET(スーパー・エキセントリック・シアター)のメンバーを従えて、ダンスにアクションに、そして歌にと大活躍。逆に言うと、レギュラー陣が動かないのは、もう「そこは紅さんよろしく!」ということだったのかもしれない。

 それにしても、紅ゆずるは真面目。いや、もちろんファンの期待に応えて、おちゃらけてみせはする。けど、設定に無理の多いキャラクターを、その場その場を面白く見せつつ着実に演じて、ツメの甘い脚本に筋を通していく。考え抜いた上での演技だと思われる。もっとも、宝塚歌劇時代に、異次元ファンタジーから菊田一夫の古臭い愁嘆劇までを幅広くこなしてきた紅ゆずるであってみれば、当然の成果とも言えるが。
 今回の作品の、ストーリー上の、と言うよりは舞台の展開上(演技上?)のクライマックスのひとつが、レギュラー陣による生バンド演奏にあったのだが、彼らがそれに集中できたのも、一方に紅ゆずるの活躍があったればこそだったと思う。

 紅ゆずるの次回作は明治座の『エニシング・ゴーズ』(Anything Goes)。リノ・スウィーニーは難役なので期待しすぎないように気をつけるが(笑)、それでも楽しみに待ちたい。

四月大歌舞伎 第三部『桜姫東文章』上の巻@歌舞伎座 2021/04/18 17:45

 昨年3月から5か月間の中断の後、8月に再開した歌舞伎座の歌舞伎公演。
 当初は1部1演目場面転換なしの四部制でスタートし、今年に入って1部2演目の三部制に移行。各回、観客のみならず出演者も完全入れ替えという万全の感染対策の下、上演を行なってきた。限られた上演時間の中で、どうすれば観客に楽しんでもらえるか、試行錯誤の連続だったと思うが、ここに来て、ひとつの解答が出た気がする。

 それが、上演中の「四月大歌舞伎」第三部『桜姫東文章』。昭和60年以来36年ぶりの、孝夫/仁左衛門×玉三郎の顔合わせで、かつては“通し”でやった演目を半分に割り、今回は「上の巻」。次回「下の巻」は「六月大歌舞伎」で上演される予定になっている。
 「お互いの体力的なことを思い、そうさせていただきました。」という玉三郎の言葉が筋書きに載っているが、確かに主演者2人のエネルギー消費量はかなりのもの。南北の濃厚な世界を理屈を超えて成立させていくのは紛れもなく仁左衛門と玉三郎の力で、これを1回の “通し” で上演するのは、さすがにきつそう。
 だからと言って細切れの名場面上演にせず、半分ずつにして間を置いて、あくまで “通し” で上演する、というアイディアは、瓢箪から駒というか、禍転じて福となすというか、コロナ禍のこんな時だからこそ出てきた妙案だと思う。
 再開後も歌舞伎座の演目はそれなりに楽しんできたが、今回この演目で、久しぶりに歌舞伎らしい歌舞伎を観た気がした。なにしろ、南北の “通し” だし、往年の大人気コンビによる当たり狂言の復活ですから(と言っても当然ながら現役感バリバリですから)。
 早くも6月が待ち遠しくなっている。

 上演期日も残り少ないが、御用とお急ぎでない方は、ご覧になった方がよろしいかと。

日本人のへそ@紀伊國屋サザンシアター 2021/03/25 17:00

 『日本人のへそ』を観るのは初めて。
 井上ひさしが、TV『ひょっこりひょうたん島』で交流のあった熊倉一雄の依頼により劇団テアトル・エコーに書き下ろした作品で、初演は1969年。井上の本格的な戯曲家活動の第1作だとか。今回は、栗山民也演出による、こまつ座公演。
 これまでに観たことのある井上戯曲は、いずれも中身のたっぷり詰まった濃いものばかりだったが、この作品にはひと際ぎっしりと詰め込まれている。それまで貯めこんできたものを一気に吐き出した感が強く、面白い面白い。
 音楽は『ひょっこりひょうたん島』『ネコジャラ市の11人』の盟友、宇野誠一郎。紛れもないミュージカル。

 吃音矯正のために患者たちが歌入りの芝居をする、というところから話は始まる。自分の考えを話そうとする時に吃音になり、自分と関係のない話(例えば他人の書いたセリフ)の場合は吃音になりにくい、また歌う時にも吃音にならない、という理論に則って……と指導の研究者らしき男(山西惇)が説明する。
 演じられる劇中劇は、東北の寒村から集団就職で上京して花形ストリッパーになった女の半生記。ストリッパー役を演じるのは、患者の1人で他ならぬ花形ストリッパー、ヘレン天津(小池栄子)その人。

 この当初の設定部分だけで、すでに作者は、吃音症、東北出身、ストリップ小屋、という自身が深く関わった素材を惜しみなく繰り出してきている。ことに、浅草のストリップ小屋の件は、劇中劇中コントが出現するところまで含めて、抽斗全開な感じで楽しい。

 具体的な話としては、上京前はもちろん、上京してからストリッパーになるまでにもいろいろあって、浅くはない描写だが、さほど意外性はない。転換点は、ストリップ小屋の連中が待遇改善を要求してストライキに入るところ。そこに、組合潰しの暴力団が介入してくる。その暴力団の若頭(井上芳雄)が、 ヘレン天津 が上京直後に上野で一目惚れした偽学生だったことから意外な方向に進み始め、殺人事件が起こり……。
 並の劇作家だと、このあたりまでの材料で、それも吃音矯正うんぬん抜きの劇中劇部分だけで、一丁上がりにしてしまいそうだが、本作ではまだ序の口。ここから、“本当に意外な”展開を見せていく。ことに第2幕が始まった時には、何がどうなってる? と思うこと必至。まあ、そこから先はさらに二転三転、“意外”の連続なのだが。

 以降は言わぬが花。
 あ、ひとつ。後の作品ほど論争場面がないのも特徴か、と思った。

 役者陣は、どんどん変化していく設定の中、それぞれが多様な役柄を個性的にこなす熱演を見せる。
 朝海ひかるも出ていて、一応、プログラムでは上記の3人(山西・小池・井上)と並ぶ扱いだが、完全にアンサンブルとして八面六臂の活躍。宝塚歌劇時代の印象が(観てるけど)薄いのだが、柔軟な人なんだなと(失礼ながら)感心。

 歌の伴奏はピアノ1台で、演奏者(朴勝哲)は舞台上にいる。一応、役者の一員で(と言っておきます)、緊張すると演奏が吃音的になるという設定。調べてみたら、過去にピアニストを小曽根真が演じた公演もあったようで、その時は小曽根が新たなメロディを付けたしたらしい 。
 振付は新海絵理子。けっこう、みんなで踊る。ミュージカルですから。
 妹尾河童の装置のアイディアが効果的(なのが第2幕でわかる)。

 評価の定まっていると思われる名作について、何を今さら、なのですが、逆に言うと、ご覧になっていない方がいらしたら、ぜひ、という気持ちで書きました。

人類史@KAAT神奈川芸術劇場 2020/10/27 14:00

 ミュージカル要素を含むプレイ。
 作・演出の谷賢一、音楽の志磨遼平(ドレスコーズ)は、昨年暮れの同劇場『マクベス』と同じ(もちろん『マクベス』はシェイクスピアの翻案)。

 内容を予想していたわけではない。ただ、『人類史』と言うからには、もっと時代が移り変わっていくのではないかと思ってはいた。なので、幕開けの原始時代が長く続いた時には、『2001年宇宙の旅』的な展開を見せるのか、と半ば冗談で想像したりもした。いきなり未来につながる、とか。
 が、そういうわけでもなく、人々が「ことば」を獲得し、宗教心のようなものが現れ始めた後、場面が変わって、エジプト原始王朝らしき時代の支配層と被支配層の葛藤が描かれることになる。
 で、第1幕終わり。
 第2幕では、ローマで異端審問を受けた直後のガリレオ・ガリレイが登場。とある村に滞在中にペスト騒ぎが起こり……というドラマが、ほぼ全編を占める。
 『2001年宇宙の旅』とは趣向が違うが、ユニークで大胆な構成ではある。

 観終わって思ったのは、上からの物言いで恐縮だが、次のようなこと。
 「今」に対する示唆や提言を含んでいて、その志は伝ってくる。こうした舞台を作る人々がいることをありがたいと感じ、支持したくなる。が、残念ながら表現として“すごく面白い”というレヴェルには到っていない。
 『マクベス』の時と同じ。ワクワクはしなかった。
 以下、やや長くなるが、細かく書いてみる。

 第1幕は、正直、退屈。

 原始時代の前半、人類が「ことば」を獲得する以前は、エラ・ホチルド振付による集団のダンス的動きで表現されていくのだが、生き延びるために集団を形成し、有機的に組織化していくところを描いている意図は伝わるものの、なんらかの感銘を受けるほどには役者の身体的な表現力が達していない。
 と同時に、そうした人類の進化(変化?)の経緯については観客の側に知識としてあるから、説明的な表現ならいらないのではないか、という疑問が頭をよぎる。
 それに続く、直立から発声、「ことば」の獲得のシーンも同様に、プラスアルファのない説明的な場面なら、そうまでして表わさなくても、という気がしてしまう(加えて言えば、獲得する「ことば」が日本語なのには史実として違和感があった)。
 いずれにしても、ここまでは、もっと圧縮してもよかったのではないか、と凡人は考える。が、ここを執拗に描いた理由は後で(たぶん)わかってくる。
 「ことば」を獲得した後、族長的立場の人間が存在する集団が成立したあたりで、死生観/宗教観を視野に入れた会話が主要登場人物によって交わされ、原始時代が終わるのだが、作品の基調がそうした論理的会話劇にあることが、続くエジプト王朝らしき時代で明らかになる。

 前述したように、エジプト王朝らしき時代では「支配層と被支配層の葛藤」が描かれる。と言っても、被支配層(農民)の1人の青年が、年貢の取り立てについて異議を唱える、という話なのだが。
 農耕が発達し、富の蓄積から格差が生まれ、王侯一族とその臣下という力関係が成立している社会。そこに紛れ込んだ(出稼ぎに来た)のが、王の支配が及んでいない農耕に不向きな(自給自足の生活をしている)地域に住む青年。当初の取り決めを超えて年貢を取り立てるのはおかしい、と役人に異議を唱え、役人の声は王の声、王の声は神の声、それに逆らう者はこうだ、と舌を切られそうになる。
 それを助けるのが王の娘。舌を切るのはいい。が、私の前で血を流すのは許さない、と『ヴェニスの商人』的な論理。
 ところが、そこに王が現れ、青年と、宗教や政治についての問答のようなことになる。その結果、王は青年の舌を切ることを命じる。支配層にとっての被支配層の言論の自由の危険性を指摘して。
 なるほど、そう落とすか、と思ったところで幕。

 第2幕は、第1幕に比べると、ドラマとしてはまとまっている。

 ガリレオ・ガリレイ。同行の助手。ガリレオを尊敬する、連絡は取り合っているが会ったことのない若い学者2人。当時としては先進的な科学的論理を理解する4人が、イタリアの小さな村にある宿屋兼酒場に集う。
 そこに、村人の1人がペストで亡くなったという報が入る。カソリック信者である村人たちは、神に背いた者がいるせいだ、とヒステリックになり、“魔女狩り”が始まる。初めは売春婦が矢面に立たされるが、次いで矛先は、異端審問を受けたガリレオに向く。
 ……という展開は、コロナ禍の閉塞感と自己中心的で偏狭な価値観とが相乗的に生み出している、暴力的な排他性が蔓延する今の世界とシンクロする。
 なるほど、と、ここでまた思う。
 ただ、この話、ペスト患者発覚以降は、サスペンスフルではあるが、それはもっぱら、“魔女狩り”を先導する巫女めいた女性の狂信的なキャラクターと、それに巻き込まれて興奮していく村人たちの精神状態の怖さによるもので、ドラマの構造がサスペンスを生んでいるわけではない。そこには、排他的な地元民とよそ者という二元的な対立があるだけで、それを超える謎はない。
 なので、この後、その方向では盛り上がらない。
 ガリレオたちは追い立てられて村を出ていくことになるのだが、彼らの去り際に話がガラッと変わる。この幕の初めに出てきてガリレオと言葉を交わした好奇心旺盛な村の少年の再登場をきっかけに、宇宙を理解するための科学的論理/理論について、前述の先進的な4人が掛け合いのようにして事例を挙げながら、少年に説明する体で風呂敷を広げていく。それに応じて舞台上では装置が転換し、大きな星座の立体模型が出てきたりする。
 それまでの村人たちの非科学的な言動を否定するように、科学に基づいた論理的会話劇になっていくわけだ。
 そして、その流れで、(『Pacific Overtures』のラスト・ナンバー「Next」のように)科学的発見/発明の歴史が時代設定である17世紀を超えて次々に列挙されていき、ついには現代も超えて未来へ。それは必ずしも輝かしいことばかりではなく……というあたりに来て、悲しげな表情のガリレオからストップがかかる。そのぐらいにしておこう、と。

 そんな第2幕を観ながら思い浮かべていたのは、1989年発表のSF小説『ハイペリオン』(ダン・シモンズ著)のこと。28世紀を生きる“人類”の物語。同作とこの舞台を比較して、2つのことを考えた。そもそも、大部の小説の総合的な表現と2時間半の舞台での表現とを比較すること自体に無理があるのだが、ちょうど小説の方を(今さらながら)シリーズで読み進んでいたこともあって、類似点のある2作が妙にシンクロしてしまい……。ま、考えたことを、とりあえず挙げてみる。

 1つは、『ハイペリオン』に描かれる「科学の発展の果てに、すでに人類は地球を失い、宇宙に分散して生きている」という未来に到る人類の“過去”に起こったらしいことが、50年前の作品にもかかわらず、この『人類史』終盤の予言をはるかに(しかも現実感を伴って)超えているなあ、ということ。これについては、前述したように長篇小説と舞台終盤に出てくる予言めいたナレーション的セリフの比較だから、比べるのに無理があるのだが。
 ただ、舞台の方は、若い学者たちの未来の予測にストップをかけるガリレオの悲しげな表情に、描き切れない未来への含みを持たせたと考えられなくもない。

 もう1つは、小説『ハイペリオン』にも重要な要素として出てくる宗教について、この舞台では扱いが軽すぎると感じた。
 『ハイペリオン』の世界では、現行の宗教は多くが影響力を失い、それらを複合させた宗教や新興宗教が人々の間に広まっているが、旧来の宗教も含め、その中のいくつかは、主要登場人物の何人かにとって行動規範の重要な要素となってくることもあり、丁寧に描かれる。それも、複数の登場人物の、多様な観点、価値観、心情を通じて。科学が飛躍的に発展した未来においても、程度の差こそあれ、宗教は人々になんらかの影響を与えている。それを前提にした描かれ方だ。
 一方、『人類史』で描かれる宗教は、なんと言うか……記号的な感じ。筋の通った論理を嫌う勢力に利用されがちな要素として平面的に扱われている感じ。確かに、宗教にはそうした側面もあるけれども、“人類史”というコンセプトの中で描くにあたっては、その扱いはやはり一面的すぎるだろう。

 ここで初めに立ち戻って考える。第1幕で人類が「ことば」を獲得するまでを執拗に描いた理由は何か。
 それは、作品のテーマを、論理的会話/思考による相互理解こそが人類を前進させてきた、と設定したからではないか。だからこその、論理的会話劇というスタイル。その中で、宗教は、論理的会話/思考に抗する(抗しがちな)、あるいは対立する(対立しがちな)ものとして(とりあえず)提示されている。そういうことなのではないか。
 そう考えると、切れ切れに見せられた3つの時代の物語に1本筋が通って見える気がする。様々な要素が渦巻く『人類史』というタイトルの下、2020年秋の日本で表現すべきはそのこと(論理的会話/思考による相互理解こそが人類を前進させる)だと割り切っての劇化。

 少なくとも観客としては、その方向に救いを見出したい、と観終わってから思った。世界の現実を考えると。
 いろいろと疑問はあるが、“生もの”である舞台の“生もの”としての価値は、そうした感慨を抱かせてくれた時点で評価するに足ると思う。ワクワクはしなかったが。そう言えば、『マクベス』を観た後にも、そんなことを考えたな。

 役者では、部族長、王、ガリレオ・ガリレイを演じた山路和弘の存在感、うまさが、とにもかくにも舞台を支える。
 それに次いで重きを担う東出昌大と昆夏美は、時代を超えて運命的につながっている2人として描かれるのだが(原始時代は部族的なものを超えて結びつく男女、エジプト王朝らしき時代は王に異議を唱える青年と彼を救おうとする王女、17世紀のイタリアではガリレオを尊敬する若い学者同士)、物語全体をうまく転がすべく設定されたと思われるこのカップルが、仕掛けとしてあまりうまく機能していなかったので、やや気の毒。第2幕では溌剌としていたが。
 その第2幕の昆夏美は、男に扮して出てくる。それは、女だと論理的会話の相手にされない、という理由からだと後でわかる。なるほど、と三たび思った。

 いずれにしても、同じ作者の新作が上演されたら、また観に来るだろう。楽しみに待ちたい。

(追記)
 作者の谷賢一は、その後、人類史以前に自分史を真摯に振り返る必要に迫られているようだ。

かぐやひめ@古民家asagoro 2018/07/26 13:30

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 Pal’s Sharer(パルズ・シェアー)公演。出演者は9人の女性(白井美香、佐藤里真、秋田まどか、杏泉しのぶ、猪又麻由、尾方佑三子、米倉あや、木村理恵、篠原久美子)。上演脚本・演出/森さゆ里。

 鷺ノ宮にある古民家の十畳程度の二間を、ふすまを取り払ってつなげ、舞台として使用。縁側に当たる方に観客を入れ、舞台を挟んで反対側にあるはずの何間かが楽屋。舞台と楽屋との間は複数箇所の引き戸で隔てられていて、そこが開け閉めされて役者が自在に出入りすることで想像上の空間が広がる。それが通常の場面転換を超えた遊戯感覚を生んで面白い。
 遊戯感覚と言えば、そもそもが、台本を持ってのリーディング上演であることを逆手にとった、「竹取物語のお話をみんなで演じてみよう」的な構造になっていて、日本最古と言われる物語の素朴な空気感と演劇空間とが、なだらかに溶け合っている。
 小道具はほとんど使わず、各自が手にした台本が、様々な「物」として象徴的に代用される。唯一出てくるのが、蛇腹状に折りたたまれた幅30センチほどの長い長い巻物のような紙三本(という数え方でいいのか?)。それぞれに「金」だの「銀」だのという筆文字ぽい漢字がデザイン的に書いてあり、伸ばした時に「金」や「銀」の川を表す。結局、小道具は全て「紙」。物語の内容や上演舞台の雰囲気に合わせてのことと思われる。いずれにしても観客の想像力を柔らかく刺激する演出だ。

 「物語の内容」と書いたが、『竹取物語』は実に不思議な物語。様々な解釈がなされているのだろうが、不思議さを不思議なまま受け取ることができる、そんな舞台になっていた。それは、原作の持つ「物語ることの喜び」と、演者たちの「演じることの喜び」とが生む化学反応のせいだと思う。
 楽しませてもらった。