The Chronicle of Broadway and me #239(Jesus Christ Superstar)

2000年5月@ニューヨーク(その2)

IMG_2264

 『Jesus Christ Superstar』(5月7日15:00@Ford Center For Performing Arts)について、「現代的装いも空疎な的外れの演出」というタイトルで旧サイトに書いた感想です。

<1996年の12月に観て、それなりに感銘を受けたロンドン版リヴァイヴァルと同じ演出家(ゲイル・エドワーズ)でありながら、なぜこれほどまでにひどい舞台になったのか。その原因は、やはり、プロデューサー(リアリー・ユースフル・スーパースター・カンバニー≒アンドリュー・ロイド・ウェバー)の“あざとい”戦略にあるのではないか。
 とにかく、世紀末のブロードウェイに降臨した『Jesus Christ Superstar』は、無意味に金のかかった装置ばかりが目立つ愚作で、ロイド・ウェバーは、『Sunset Boulevard』『Whistle Down The Wind』で犯したあやまちを、また繰り返したと言うしかない(詳細はこちらを参照)。

 問題の装置(ピーター・J・デイヴィソン)は、次のようなもの。
 横並びに4本、天まで届く巨大な柱が立つ。コンクリート打ちっ放し的質感のその柱を、地上3メートルぐらいの高さで、鉄製(に見える)の手すりのついた通路が横に貫く。この通路の中央、内側の2本の柱の間にあたる部分は、床から天井まで上下動が可能。この他に、電飾の巨大な十字架や、鉄の檻に入った大量のTVモニターやミサイル、株式の電光掲示板、これまた巨大なキャバレーの看板などが随時加わる。そして、舞台奥の壁部分には広い範囲にわたってスプレーによる落書きがある。
 こうした装置と、ジーザスの支持者たちが着ているゲリラ的戦闘服(衣装ロジャー・カーク)や手にした銃によって、舞台は否応なく、荒廃した近未来的イメージに包まれる。
 その意図が、全くわからない。ジーザスが磔刑になるまでの7日間の物語に今日性を見出すべく施した演出なのだろうが、安っぽいB級SFアクション映画の世界にしか見えない。
 ロンドン版のコロシアムの装置には、ジーザスの受難を見物する観客に対しての挑戦的な演出意図がハッキリ見えて、スリリングだったのだが……。

 もとより個人的に、初演以来この作品が持つと言われてきている“斬新な聖書解釈”について、疑問を持っている。だから、今回のように、ことさら意味ありげになされた舞台演出を観ると、その底の浅さにうんざりしてしまう。

 “斬新な聖書解釈”とは、例えばこういうことだ。
 [時代、衣装でキリストの時代を表現してはいるものの、人間としてのキリスト、人間としてのユダの心の動きを追った人間中心のドラマとなっており、原作を新約聖書と考えれば、その解釈はかなり斬新なものである](芝邦夫「ブロードウェイ・ミュージカル事典」)
 しかし、はたしてそうなのだろうか。あの時代にあって、それほど斬新だったのだろうか。

 ヴェトナム戦争が泥沼化していく1969年、変革を求める空気の中から出てきた若い世代による新たなキリスト像の提出及び崇拝の運動と、エルヴィス・プレスリーのメンフィス・セッションを1つの大きな成果とする南部音楽をベースにしたロック・サウンドとが、アメリカで盛り上がりつつあることを敏感に捉えて、イギリス人青年コンビ、ロイド・ウェバー(作曲)とティム・ライス(作詞)は楽曲「Superstar」を書いた。クラシカルな聖歌とソウルフルなスタイルのビート・ナンバーとをうまく融合させて、そこにジーザスに対する問いかけの歌詞を載せるというアイディアは見事に当たり、マレイ・ヘッドの歌った1970年1月リリースのシングルは全米ポップ・チャートに31週エントリーされるヒットとなる(最高位14位)。
 これが発端だ。
 続けて70年11月に出した2枚組のアルバムが翌年全米ナンバー1のヒットを記録。そのアルバムを再現するコンサート・ツアーが合衆国内を回った後、1971年10月、ブロードウェイで舞台ミュージカルとして上演が開始される。ブロードウェイでの舞台化にあたって、脚本クレジットのないこの作品の構成者として起用されたのは、1968年に“革命的ミュージカル”『Hair』がブロードウェイの劇場に移る際に新演出を施したトム・オホーガン。
 こうした流れから見えてくるのは、もっぱらビジネス戦略であり、作家的な制作動機よりもマーケティングが優先している印象を受ける。“斬新な聖書解釈”は、そうした戦略の結果ではなかったか。
 [賛否両論] (スタンリー・グリーン「ブロードウェイ・ミュージカル from 1866 to 1985」)、 [まったく愛想のないものから、狼狽を隠さないものまでさまざま] (アラン・ジェイ・ラーナー「ミュージカル物語」)という評価が出ることが予想できた作者たちが、むしろ話題作りのために、既存の宗教団体から抗議が来るような内容にしようと考えたとしても、変革の気分に揺れる当時の風潮の中では、不思議はない。
 極端に言えば、『Jesus Christ Superstar』の“斬新な聖書解釈”は、手持ちのマイクロフォンやむき出しのアンプ同様、作品をヒップに見せるための手段だった。若い(あるいは若ぶりたい)観客に向けての“おもねり”だった、と言っては言い過ぎかもしれないが、ともあれ、実績を持たない若い作者たちが、楽曲の印象は強いが、あまり緊密なドラマ構成を持たない作品でブロードウェイに殴り込みをかけるにあたっては、そうした“飛び道具”が必要だったのではないか。

 オリジナル版の舞台を観ていないにも関わらず、そういう想像をしてしまうのは、その後の様々に印象の違う演出が施された同作品を観てきて、そのいずれもに、ジーザス受難劇のわかりやすい再現という以上のドラマを見出せなかったからで、それは、いい印象を持った1996年のロンドン・リヴァイヴァル版でも同じ。だからこそ逆に、この作品は、成否を問わず大胆な演出を許容してしまう。歌舞伎もどきのジャポネスク・ヴァージョンであろうが、B級SF近未来仕様であろうが、元々特別な歴史観や緻密なドラマ構成がない以上、作品としては一応成立してしまうわけだ。
 要するに、この作品の本質は、“聖書に題材を得た歌中心のレヴュー”というところにあって、それ以上でも以下でもない。したがって実際には、演出のポイントは、歌の魅力・勢いを削ぐことなく、いかにテンポよく舞台を運ぶか、に尽きる。
 しかし時代の変化と共に、それだけでは魅力的に見えない作品に、すでになっている。そこで観客の興味を惹くべく、いろいろと演出にアイディアを盛り込んで、意味ありげに見せようとする。そして底の浅さが割れる。
 これ、どう考えても悪循環だ。
 そんな中で、前回のロンドン版が成功したのは、ドラマとして余計な意味づけをせず、ただ観客の集中力を高めるために新たな演出をしたことにあったと思う。

 今回の『Jesus Christ Superstar』、観たのは日曜のマティネーで、観客の大半は団体か家族連れだった。早い話、ことさら観劇に熱心な層ではない。
 そんな彼ら(子供を除く)には、この舞台、大ウケだったのだが、幕間の会話や上演中の歓声から察するに、ウケた理由は、ド派手な装置と大音量に対する直接的な興奮と、記憶に刷り込まれた楽曲の出てくる有名ミュージカルを目の当たりにした喜び。ほとんどがキリスト教徒だと思われる彼らがドラマの部分に反応したのは、磔(はりつけ)のシーンだけと言っていい。
 つまりは、そういう舞台なのだ。

 ジーザス役のグレン・カーターは、巷で言われているほど高音が出ないというわけでもなく、悪くなかったが、演出のせいかカリスマ的魅力を持つ人物に見えなかった。
 ユダ役のトニー・ヴィンセントは、プレイビルによればブロードウェイ及びツアーの『Rent』の出演者だったらしい。確認していないが、ロジャー役だったのではないか。少なくとも演技や外見はロジャーそのものだった。
 この役作り及び服装・メイクは、明らかに『Rent』ファンを意識してのものだろう。そのねらいは、新世代ミュージカルのイメージの借用と『Rent』ファンの取り込み。そのあたりにも、今回の演出のあざとさと浅さが見える。
 マグダラのマリア役はマヤ・デイズ。これまた『Rent』組だが、この役に欠かせない慈しみのイメージが足りない。
 為す術なしの役者陣にあって1人気を吐いていたのが、ヘロデ王役のポール・カンデル。元々この役はおいしいのだが、『The Who’s Tommy』のアーニー叔父役で見せたのと同じノスタルジックなショウマンシップを発揮して、強い印象を残した。>

 なかなか手厳しいが(笑)、読み返すと、先日、YouTubeのThe Show Must Go On!チャンネルで配信されたヴァージョンに印象が近い。あのヴァージョンにもうんざりしたから、感じ方は20年前と変わっていないということか(笑)。

 ユダ役トニー・ヴィンセントの『Rent』での役は、基本マークで、ロジャーのアンダースタディでもあったようだ。
 ちなみにマヤ・デイズはミミ役。

The Chronicle of Broadway and me #238★(2000/May)

★2000年5月@ニューヨーク(その1)

IMG_2260

 34度目のブロードウェイ(44歳)。

 旧サイトには、当時、こう書いています。

<1999/2000シーズンのブロードウェイ・オープン作品の残り、『Aida』『The Music Man』『Jesus Christ Superstar』と、劇場を移ってロングランに入った『Contact』を観てトニー賞の予想に備えようというのが、今回のニューヨーク訪問の最重要目的。
 というのは半分で、もちろんそれらの作品を観には来たのだけれど、むしろ期待度が高かったのは、コンサート形式の特別公演『Sweeney Todd』『Wonderful Town』の方。その期待が裏切られなかったのが、なによりうれしい。
 『The Lion King』で名を売ったジュリー・テイモアの、ミュージカル風味のプレイ『The Green Bird』も予想以上に面白かった。どうかお観逃しなく。>

 というわけで、トニー賞直前のニューヨーク。今からちょうど20年前です。

5月5日20:00 Sweeney Todd@Avery Fisher Hall/Lincoln Center
5月6日14:00 Blood On The Dining Room Floor@Peter Norton Space 555 W. 42nd St.
5月6日20:00 The Wild Party@Virginia Theatre 245 W. 52nd St.
5月7日15:00 Jesus Christ Superstar@Ford Center For Performing Arts 213 W. 42nd St.
5月7日18:30 Wonderful Town@City Center 131 W. 55th St,
5月8日15:00 Monday Night Magic@Sullivan Street Playhouse 181 Sullivan St.
5月9日19:00 Aida@Palace Theatre 1564 Broadway
5月10日14:00 The Green Bird@Cort Theatre 138 W. 48th St.
5月10日20:00 The Music Man@Neil Simon Theatre 250 W. 52nd St.
5月11日20:00 Contact@Vivian Beaumont Theatre/Lincoln Center

IMG_2262

 各作品の感想は、例によって別稿で。

 このページの2枚の写真は、『Jekyll & Hyde』上演中のプリマス劇場に消防車が駆け付けたところ。旧サイトには、「プリマス劇場に消防車!(ハイド氏の火消しか?)」というキャプションを付けて載せました。舞台上で炎が上がる、という同作の内容をごぞんじの向きにウケるのでは、と思って撮った写真です(上の写真の右端参照)。周りの人たちの様子でわかると思いますが、実際には事故というほどの案件ではなかったようで、のんびりムードでした。ホントの事故だと、シャレになりませんから(笑)。

The Chronicle of Broadway and me #237(Carnival Knowledge/Saturday Night/Taking A Chance On Love/The Big Bang)

2000年3月@ニューヨーク(その4)

 この渡米時に観て、当時、旧サイトに感想を書いていないオフの4作品について、データ的なことを中心に、まとめて。

IMG_2247

 『Carnival Knowledge』(3月16日20:00@Flea Theatre)は、この舞台で使われる多数のユニークなマスク(仮面)の制作者でもあるロブ・ファウストと、前衛的なダンサーのパオラ・スタイロンによる、ユーモラスでちょっと怖い、不思議なパフォーマンス・ショウ。クレジットには、監修者として、映画・舞台の脚本家ジェイ・プレッソン・アレンの名前がある。
 記録には「フレッド・アステア・トリビュートを含む」と書いてあるが、残念ながら記憶は定かでない。

IMG_2252

 『Saturday Night』(3月17日20:00@Second Stage Theatre)は、スティーヴン・ソンドハイム(作曲・作詞)のブロードウェイ・デビュー作になるはずだった“幻の”ミュージカル。
 調べると……。1954/1955年シーズンに開幕の予定だったが、メインのプロデューサーが亡くなって、資金難で立ち消えになる。その後、紆余曲折を経て、イギリスのバーミンガム大学での学生による初上演→1997年暮れから翌1998年初頭にロンドンの小劇場公演→1999年5月から7月にシカゴのトルーマン大学内の劇場で公演、と来て、このオフ・ブロードウェイ公演が実現するわけだが、いずれも異なるプロダクションで、途中、ソンドハイムによる新曲の追加や脚本の編集も行なわれたらしい。

 上記「紆余曲折」の部分に、『Gypsy』初演(1959年)でソンドハイム(作詞)と仕事をしたジューリー・スタイン(作曲)が1960年に本作のブロードウェイ上演を再び実現させようとした、という案件がある。しかし、最終的にはソンドハイム自身が、その時点での自分の作曲能力と比較して発表に値しないと判断して、中止にしたという。
 確かに、楽曲は“若書き”の印象ではある。’50年代半ばならではの“のほほん”とした気分もあるし、ソンドハイム作品だと思って観ていると、少し肩透かしな感じ。それが当時の正直な感想。
 が、今そのキャスト盤を聴くと、『Company』を思わせるところがあることに気づく。まあ、誕生日の歌が入っているから、という側面もあるかもしれませんが(笑)。

 内容は、ブルックリンに住む若者がマンハッタンで一旗揚げようとする、という、ある意味『Saturday Night Fever』に通じなくもない内容。土曜の夜にたむろする同世代の仲間たちが出てくるし。ただ、時代は大恐慌直前の1929年。主人公は証券会社に勤めているので、ダンスではなく、まっすぐカネの話。それも少し危ない話。最後はハッピー・エンドだが。
 脚本は、映画『Casablanca』で知られるジュリアス・Jとフィリップ・Gのエプスタイン兄弟で、彼ら自身の書いた『Front Porch In Flatbush』というストレート・プレイが元になっているようだ。
 演出・振付キャスリーン・マーシャル。
 ヒロインは、1994年版『Carousel』、1997年版『1776』に出ていて、この翌年の2001年リヴァイヴァル版『Follies』でヤング・サリーを、2013年に『Matilda The Musical』でミス・ハニーを演じるローレン・ワード。あと、『In The Heights』『On Your Feet!』『Smart Blonde』で主役級になるアンドレア・バーンズが出ていたことに、キャスト盤のライナーを見ていて気づいた。

IMG_2254

 『Taking A Chance On Love』(3月19日15:00@Theatre At ST. PETER’S)は、作詞家/脚本家ジョン・ラトゥーシュ (1914年~1956年)へのトリビュート・ショウ。
 タイトル曲「Taking A Chance On Love」は1940年のブロードウェイ・ミュージカル『Cabin in the Sky』のために書かれたナンバーで、ラトゥーシュがテッド・フェッターと詞を共作、作曲はヴァーノン・デューク。その他、関わった『The Golden Apple』『Beggar’s Holiday』といったミュージカルの楽曲を中心に、ラトゥーシュの書いたナンバーを歌い継ぎながら、彼の仕事と人生を描き出していく。詳細は省きますが、なかなか複雑な人だったらしい。
 出演は、テリー・バレル(『And The World Goes ‘Round』『Swinging On A Star』)、ジェリー・ディクソン(Once On This Island『Five Guys Named Moe』)、ドナ・イングリッシュ(『Ruthless!』)、エディ・コービッチ(『Carousel』)の4人。演出ジャネット・ワトソン。

IMG_2255

 『The Big Bang』(3月19日19:00@Douglas Fairbanks Theatre)は、ジェド・ファウアー(作曲)とボイド・グレアム(作詞・脚本)の作家コンビが自ら演じる“地球の歴史”ミュージカル。
 文字通りのビッグ・バン(宇宙の起源)から始まって上演されている2000年までに起こった地球上の出来事を2人だけ(+ピアノ伴奏者)で表わしていくという、特大スケールの超小規模ショウ。バカバカしくもおかしかったに違いないが、残念ながらよく覚えていない。以上(苦笑)。

 [追記]
 “超大型ミュージカル”『The Big Bang』のバッカーズ・オーディション(資金集めのための試演)という設定だったようで(『Gutenberg!: The Musical!』と同じだ)、プレイビルに出資を募るチラシが挟んであった(笑)。

The Chronicle of Broadway and me #236(The Bomb-Itty Of Errors)

2000年3月@ニューヨーク(その3)

IMG_2251

 『The Bomb-Itty Of Errors』(3月18日17:00@45 Bleecker)について、「ス“ラップ”スティック・ミュージカル」というタイトルで旧サイトに書いた感想です。

<オフで上演されている(知る限り世界初の)本格的ラップ・ミュージカル『The Bomb-Itty Of Errors』が楽しい。
 内容は、シェイクスピア『The Comedy Of Errors』(翻題:間違いの喜劇)の現代版で、元々詩的だと言われるシェイクスピアの作品が、現代的ポエトリー・リーディングとも言えるラップによってスピーディによみがえった。

 『The Comedy Of Errors』とは。
 昔々、同じ両親から生まれた2組の双子がいた。彼ら4人は、幼い頃に離ればなれになったために、お互いのことを全く知らない。でもって、なぜか、双子でない方の2人ずつがシラキュースとエフィサスという街に、それぞれ主従関係で暮らしている。そのシラキュースに住む2人が、母親と兄弟を探して旅する内にエフィサスにやって来ることから起こる、勘違いによる大混乱。

 というわけで、これ、ごぞんじロジャーズ&ハートが1938年に発表したミュージカル『The Boys From Syracuse』(邦題:シラキュースから来た男たち)の元ネタだ。でもって、シェイクスピアが参考にした、さらなる元ネタは、『A Funny Thing Happened On The Way To The Forum』『Scapin』の元ネタ同様、紀元前の作家タイタス・マキウス・プラウトゥスの作品らしい。
 確かに設定がよく似ていて、ラップという目新しい意匠を取り払って観れば、伝統にのっとったスラップスティック・コメディであることがわかる。舞台上にいくつかある出入口を使って絶妙のタイミングで役者が登退場、件の双子たちが出会いそうで出会わないという作りなど、まさに定石。
 しかし、上記2作品よりはるかに安上がりな舞台である『The Bomb-Itty Of Errors』が、イキのいい笑いという点でそれらより上を行っている理由の1つは、2組の双子はもちろん、その妻や義妹、父、召使いなどの全役を4人の出演者で演じてしまっていることにある。すれ違いのおかしさに、早替わりの面白さが加わっているわけだ。

 時代を移し替えて新しい脚本を書き、かつ演じているのは、ジョーダン・アレン=ダットン、ジェイソン・カタラーノ、GQ(ジーキュー)、エリック・ワイナー。いずれも若いが、コメディ演技も確かで、スラップスティックの動き・呼吸が、ラップ同様血肉化されている印象。単なる思いつきだけで作り上げた舞台でないことがわかる。
 それを支えるのが、作曲&DJ担当のJ.A.Q.(ジャック)。舞台左上方のDJブースで演技を見ながら、演奏及びMCで舞台にグルーヴを与え、会場を煽り、時には演技に参加する。その臨機応変な1人オーケストラは、舞台ミュージカルになくてはならない自在なノリを見事に生み出している。

 ラップという手法で古典的コメディに新たなリズムを与え、現代的スピード感を持ったミュージカルとしてよみがえらせた『The Bomb-Itty Of Errors』。こうして本場で鍛えられた作者=役者たちによってイキイキと演じられているのを観ると、新奇さを超えた新時代ミュージカルの可能性をはらんでいるのがわかる。『Noise/Funk』のような歴史観はないが、画期的なミュージカルであることは間違いない。
 日本のミュージカル関係者が安易に模倣しないことを祈る。>

The Chronicle of Broadway and me #235(The Wild Party[PT]/The Wild Party[MTC])

2000年3月@ニューヨーク(その2)

 パブリック・シアター版『The Wild Party』(3月18日14:00@Virginia Theatre)とマンハッタン・シアター・クラブ版『The Wild Party』(3月18日20:00@Manhattan Theatre Club Stage 1)について、「宴の後に恐慌の予感?」のタイトルで観劇後に旧サイトに書いた感想。5月6日に再見したパブリック・シアター版の感想も込みになっています。
 あ、長いです(笑)。

<同時期に、同じ街で、同じ題材を、2つのプロダクションが全く別の楽曲・脚本・演出でミュージカル舞台化するなんてことは、かなり珍しいんじゃないだろうか。
 元になったのは、1928年にニューヨーカー誌の編集者ジョゼフ・モンキュア・マーチによって書かれた同名の詩だという。舞台は同年のニューヨーク。ローリング・トゥエンティーズが最後の輝きを放った時代。大恐慌前夜の漠然とした不安感に包まれながら繰り広げられる、虚飾に満ちたパーティの内幕が描かれる。
 バブル崩壊前夜という予感が呼び寄せたシンクロニシティなのだろうか。
 ともあれ、そんな『The Wild Party』のミュージカル化2つを同じ日に観てしまったものだから、比較論になるのは避けられないのだが、結論としては、一長一短。頽廃の気分ではパブリック・シアター版、まとまり具合ではマンハッタン・シアター・クラブ版、という、なんだか煮えきらないことになってしまった。

 マンハッタンの高級アパートメント。バーレスクの人気ダンサー、クイニーと、ミンストレル・ショウの歌手バーズのカップルがホーム・パーティを開く。
 集まってくるのは、芸人仲間や舞台関係者、有閑階級、そうした連中の取り巻き等々。とりつくろった顔で始まったパーティも、それぞれの欲望と苦悩が酒やクスリで増幅されて、しだいにワイルドさを増していき、次々に事件が起こっていく。
 というのが大まかな展開で、中心になるのは、クイニーと、彼女に疎まれ始めているバーズと、クイニーの仲間ケイトをエスコートしてきたブラックという若い男の三角関係。
 その夜初めて出会ったクイニーとブラックが惹かれ合い、最終的には、嫉妬深いバーズが拳銃を持ち出し、もみ合いの中でブラックに撃たれてバーズが死ぬ。クイニーはブラックを逃がしてやり、寒々とした都会で再び独りぼっちになる。
 なお、ここに書いた以外の登場人物やその設定は、 2つのヴァージョンで微妙に異なる。

IMG_2248

 オンの劇場での公演となったパブリック・シアター版は、作曲・作詞マイケル・ジョン・ラキウザ(ラチウザではなくラキウザと読むらしい)、脚本マイケル・ジョン・ラキウザ&ジョージ・C・ウルフ、演出ジョージ・C・ウルフ。
 ラキウザは、グラシエラ・ダニエルと組んで、『Hello Again』(作曲・作詞・脚本)、『Chronicle Of A Death Foretold』(楽曲と脚本の補作)、『Marie Christine』(作曲・作詞)などの野心的ミュージカルを発表してきた人。そのラキウザとは初顔合わせになるウルフは、『Jelly’s Last Jam』『Noise/Funk』でブラック・ミュージッカルの新たな地平を切り拓いてみせたが、その後の『On The Town』は(セントラル・パークでの無料公演はともかく、ブロードウェイでは)、内容的にも興行的にも失敗に終わっている。

 前述したように、パブリック・シアター版のよさは、頽廃の気分が色濃く出ていたところで、その理由は2つある。
 1つは装置(ロビン・ワグナー)と照明(ジュールズ・フィッシャー&ペギー・アイゼンハウワー)。
 大きな劇場の、特に垂直方向に広い空間を生かして、天窓まである、高さを強調した、古いが高級なアパートメントをイメージさせる装置を背景に配置。回り舞台になっている中央部分には、枠付きのドアやソファやテーブルやベッドやバスタブなどが、それぞれ単独でも動かせる状態で盆(回り舞台部分)に載っていて、回転することでいくつかある部屋を移っていくイメージが出るようになっている。その余裕を持たせた空間の取り方が、青みがかった薄暗い照明と相まって寒々しい空気を生み出し、豪華だが空虚という雰囲気を漂わせる(背景奥に置かれた縦長の巨大な鏡が象徴的)。
 頽廃の気分を醸し出している、もう 1つの要素は、ラキウザの書いた楽曲。
 設定された時代を反映して、スタイルは当時のジャズ。ブギ・ウギ、チャールストン、ブルーズ、等々。スウィング以前のワイルドさの残るジャズ・スタイルの中に、ラキウザは、現代的なグルーヴと同時に、どこか神経症的な不安感や倦怠感を紛れ込ませる。それが登場人物たちの喧噪の裏側に頽廃の影を与えるのだ。

 しかし、そうした気分を持ちながら、演出が舞台をまとめ上げきれていない。
 上述の高級アパートメントの場面に到る以前の、幕開きの、派手なダンス・ナンバーからクイニー&バーズのベッドルームでのやりとりまでは、ヴォードヴィルの舞台を模したスタイルで快調に飛ばす。ことに、クイニー&バーズのベッドルーム場面は2人のぎくしゃくした関係とパーティ開催の動機とを説明するためにあるのだが、極端にデフォルメされた装置の中でヴォードヴィルの一景のように演じられるので、スピーディであると同時に現実感がなく、それが不気味で、導入部として効果的。
 ところが、客たちが訪れてきてパーティ・シーンに移ると、とたんにテンポが悪くなる。なぜなら、描写に導入部のような大胆なアイディアがなくなって一本調子になるから。ここからは、小振りの回転舞台が回っての場面転換ばかりで、視覚的にも変化に乏しい。
 さらに、クイニー、バーズ、ブラックの三角関係だけでなく、その他の客たちのことも同じぐらいの比重で描かれていく、言ってみれば群像劇になっていることも、話の芯を見えにくくしてマイナス要素になっている。なにしろ、ブラックがケイトに連れられて登場するのは全体の3分の1を過ぎてからで、それまでは、観客は誰に感情移入していいのかすらわからない。
 幕間なしで2時間強、という構成も、観客が集中力を維持するには厳しい条件となる(2幕に割ることも、構成上は可能だったと思うのだが……)。
 ただ、人物描写はスキャンダラスで面白い。登場人物たちの華やかな仮面の背後に病んだ表情があることを徹底的に暴き出す。
 例えば、黒人兄弟のヴォードヴィル・コンビが「A Little Mmm」という可愛らしい小唄を作ったような笑顔で歌う何気ないシーンにすら、近親同性愛の気分が潜んでいる。また、クイニーとブラックの前に拳銃を持って現れるバーズが、黒塗り化粧のミンストレルのスタイルをしているところに到っては、完全な狂気を感じさせて背筋が寒くなるほど。等々、人々のねじれが容赦なく描かれる。
 そんなわけで、見どころも少ないわけではないのだが、残念ながら全体としては散漫な印象の作品となった。

 ではあるが、ラキウザの楽曲は充実していて、さらに、その使われ方も見事なので、その一例を書き留めておく。
 「The Lights of Broadway」。ジャズっぽさのない明るいニューヨーク讃歌(クイニーの持ち歌という設定か?)。
 これをまず、アパートメントを訪れた田舎出の少女ネイディーンが、クイニーの前で、私もスターになれるかしら、という風に張り切ってワンフレーズだけ歌う。その場違いな感じにクイニーは顔をしかめるのだが、舞台半ばではクイニー自身が、私も昔はあの娘みたいだったと言って、抑えた調子でやや感傷的にワンフレーズ歌う。その対比の妙。
 さらに、後半になって、この曲はもう1度ネイディーンによって最初の時以上に明るく、今度はフルコーラス歌われる。初めて味わったコカインによる躁状態の中で。その直後に彼女は性的暴力の対象となる。わずか数時間後の劇的変化。
 ところで、ネイディーンの最初の「The Lights Of Broadway」は、「Welcome To My Party」という、テーマ曲とも言える狂騒的な歌の途中に挿入される。クイニーがパーティの始まりに、自分の気持ちを盛り立てるように激しく踊りながら歌っているところに、突然出てくる。そのことで、ネイディーンの危ういまでにイノセントな感じが強調されている(「Welcome To My Party」という歌自体も、最初はクイニーが歌ってパーティの始まりの宣言になるが、終盤にはバーズが皮肉な調子で歌って物語の終わりを暗示する)。
 そして、クイニーによる「The Lights Of Broadway」は、パーティを抜け出して2人きりになったクイニーとブラックが心を通わせ合う、最もロマンティックなナンバー「People Like Us」の導入として歌われる。クイニーがブラックの中に自分と同じものを見つけて心を開く瞬間を、鮮やかに表しているのだ。
 楽曲それぞれのよさもさることながら、こんな具合に重層的に使われることで、楽曲に様々な表情が生まれ、厚みが増す。これこそがミュージカルだ。

 出演者では、バーズ役のマンディ・パティンキンがやはり素晴らしい。
 実は、パティンキンはプレヴュー中は出演しておらず、3月に観た時には代役(デイヴィッド・メイゼンハイマー)が立っていた。そのメイゼンハイマーも、ブロードウェイ作品で本役を演じてきている人なので力がないわけではないのだが、5月に観たパティンキンは、明らかにワンランク上。繊細な高音から凄みのある低音まで自在に使い分け、独特の色気を発散しつつ、病的なまでに感情の起伏の激しい人物を演じて、拡散しがちな舞台の求心的存在になっていた。
 映画畑で活躍するトニ・コレットは歌もうまく、純真さを秘めたセクシャルなスター、クイニーをよく演じていたが、惜しいかなダンスでの体のキレがイマイチ。
 ブラック役ヤンシー・エイリアスは、プレイビルによれば生粋のニューヨーカーらしいが、ナマった英語で陰影のあるイタリア移民(たぶん)を“らしく”演じる。張りのある高音が魅力的。
 盛りを過ぎた大女優役で登場するアーサ・キットは実にアクが強い。アクが強過ぎてちょっと引き気味になるが、それでも、その存在感は舞台を引き締める。
 そうした個性的な役者陣の中にあって一際強い印象を残すのが、ネイディーン役のブルック・サニー・モリバー。『Parade』『James Joyce’s The Dead』と、脇役ながら野心的な作品に立て続けに起用されていることから考えて、ミュージカル界ではかなり期待されているのではないか。それが納得できる活躍ぶりを今回は示した。
 マンハッタン・シアター・クラブ版にはないサリー役を演じるサリー・マーフィの使われ方も印象的。1994年にロンドンからやって来た『Carousel』のブロードウェイ版でヒロインのジュリーを演じた女優なのだが、今回のサリーは全く無反応な若い女で、体の動きはおろか表情の変化さえない役柄。それが、ただ1回、みんなが寝静まって誰も動いていない真夜中過ぎに、「After Midnight Dies」という短い歌を歌う。その震えるようなソプラノが、悲劇的な、事実上の第2幕の幕開けとなる。役者の層の厚いブロードウェイならではの贅沢な配役だ。

IMG_2250

 シティ・センター地下の小さな劇場、マンハッタン・シアター・クラブで上演された『The Wild Party』は、アンドリュー・リッパ (作曲・作詞・脚本)とガブリエル・バリ(演出)によるヴァージョン。
 リッパは、1999年リヴァイヴァル版『You’re A Good Man, Charlie Brown』で編曲を手がけると共に、クリスティン・チェノウェスにトニー賞を獲らせた新曲「My New Philosophy」を書いた人。作曲と共同脚本を担当した1995年のオフ作品『John & Jen』は、2人の出演者だけでアメリカの現代史を描く優れたミュージカルだったが、その時の演出家がバリだった。
 バリは、最初に役者として観たが(1993年『Jacques Brel Is Alive And Well And Living In Paris』)、演出作品は、『John & Jen』の翌年にコネティカットのグッドスピードオペラハウスで、『Sweeney Todd』のリヴァイヴァルを観ている。劇場の小ささを逆手に取って、傍観者に見立てたアンサンブルの存在を生かした舞台だった。

 バリは、今回も、やはりアンサンブルを生かす演出をしている。ドラマを、クイニー&バーズとケイト&ブラックの2カップルに絞って、その他の役はアンサンブル的な扱い。それがパブリック・シアター版との最大の違いで、その分、こちらの舞台にはまとまりが出た(幕間のある2幕構成)。
 が、そのアンサンブルの生かし方(絶えず舞台上に彼らがいて、主演クラスのドラマを見守っているようなところ)を含めて、全体の印象が、1998年リヴァイヴァル版の『Cabaret』に似たものになってしまっている。黒を基調にした、下着もあらわなファッションや、目の周りを黒くしたドイツ表現主義的なメイクアップが類似しているからでもあるが、演出も多分に1998年の『Cabaret』を意識しているのではないか。と言うとバリに失礼かもしれない。が、そう思えてしまうところに、この舞台の弱点がある。
 ことに、オープニング(1曲目の歌詞はパブリック・シアター版と共通で、マーチの詩「Queenie Was A Blonde」をそのまま使っているが、当然のことながら全く印象が違う)。役者たちがうごめくようなダンス(振付マーク・デンディ)で登場するのが、『Cabaret』のバンド連中の動きとダブる。
 まあ、1998年版『Cabaret』も小劇場的な演出なので似ていても無理はないのだが、どこかに独自性が感じられないと、型を崩したような演出そのものが1つの型に見えてしまうのも事実だ。結果、(実際のステージのサイズとは別に)スケールが小さく感じられる舞台になった。
 もちろん、こぢんまりとまとまって、いい結果を生む作品もある。が、大恐慌前夜の金満アメリカの破滅的な狂騒を描きたい作品にあっては、まとまりがあることはともかく、こぢんまりとした印象はうまくない。パブリック・シアター版同様ベッドやバスタブやドアを載せた舞台が、どうしてもマンハッタンの高級アパートメントに見えてこないし、つかの間の栄華を極めた人間たちのパーティだと思えないからだ。
 その分、パブリック・シアター版にあった頽廃の空気が薄らいで、凄みがなくなっている。

 しかし、装置(デイヴィッド・ギャロ)には、限られた空間に広がりを与える工夫が施してある。
 まず、正方形の板状のステージが5つに割れて、それぞれが移動できるのが最大のアイディア。割れ方は、元の正方形の4つの角を1つずつ所有する大きな4つの部分と中心にある1つの小さい部分の5分割だが、これは最終的にわかること。初めは割れることすら予想できない。それが、まず、左右に2つに割れ、元に戻り、次には1つだけが離れ、4つに割れ、最後に中央に小さな島のような部分が残る、と(だいたい、こう)いう具合に意外性を秘めながら自在に動いていく。その動きの意味は、離れたところが別の空間(部屋)だということなのだが、時として、それが登場人物の心の断絶を象徴しているようにも見える。視覚的にも面白い機構だ。
 背景は、客席との位置関係でステージの後ろと右に“く”の字型にある壁を覆う形で配置されるのだが、そのデザインは斜めに傾いだビルの壁と窓。その傾きが、ステージに不思議な浮遊感を与える。
 その背景の窓の1つが開いて、隣人が顔を出して苦情を言うという演出もあり、これも確かに空間的広がりを感じさせるし、ドラマの上でもアクセントになるのだが、どうなのだろう。安アパートのような印象を与えて、かえってマイナスなのではないだろうか。それとも、このヴァージョンでは安アパートという設定なのか。

 実は、設定に関する疑問が1つあって、マンハッタン・シアター・クラブ版のプレイビルには、“Time: 1929”という記述がある。パブリック・シアター版とは1年ズレているのだ。
 もっとも、大恐慌の始まりは1929年の“秋”だから、それでも問題はないのだが、ここで気になるのは、オープニング曲「Queenie Was A Blonde」の“was”という時制だ。ジョゼフ・モンキュア・マーチの詩の中で、クイニーは、死んでいないまでも過去の人という設定だったのか。あるいは、マーチが詩を発表したのが 28年だという事実を前提に、マンハッタン・シアター・クラブ版は、その 28年を過去とする 29年を現在として設定して時制を合わせたということか。あのアパートメントでうごめいていたのは、大恐慌前には生きていた亡霊たちということなのか。
 というのは、まあ、考えすぎだとは思う。どちらにしても、マンハッタン・シアター・クラブ版がパブリック・シアター版に比べて凄みに欠けるという事実は動かないのだし。

 アンドリュー・リッパの楽曲は悪くない。個々の楽曲の完成度も高く、バラエティにも富んでいる。アンサンブルのコーラスの生かし方もうまい。ただ、ラキウザほど当時のジャズのスタイルにこだわっていないので(リズム&ブルーズ的な曲があったり、エレクトリック・ギターの単音弾きのフレーズが鳴り響く曲があったりする)、時代性が曖昧になることがあるのは、気になる。
 もし、それが、大恐慌直前と現代とを重ね合わせるためにあえてしたことであるなら、方法が中途半端。どちらかにねらいを定めて徹底すべきだったのではないか。
 それにしても、「An Old-fashoned Love Story」という曲のイントロが『Chicago』の序曲のイントロと酷似しているのは偶然か。どちらもミュート付きのトランペット演奏なのだが。『Chicago』『Cabaret』と同じ楽曲作者の作品だけに、この類似もマイナスに思えた。

 主役級4人を演じたのは以下の通り。
 クイニー=ジュリア・マーニー。バーズ=ブライアン・ダーシー・ジェイムズ。ケイト=イディナ・メンゼル。ブラック=テイ・ディグズ。
 中では、『Titanic』でも印象の強かったブライアン・ダーシー・ジェイムズの存在感が光った。こちらのバーズはクラウン(道化)という設定なので、最終場面での彼の扮装は丸い赤鼻。これも、不気味さでは黒塗りに劣らない。
 ジュリア・マーニーは、まだブロードウェイ経験がないようだが、力は充分。次の舞台に期待したい。
 メンゼル(モリーン)、ディグズ(ベニー)は『Rent』オリジナル・キャスト組。メンゼルはモリーン役の印象が鮮烈だっただけに、それを知る者にとっては今回の役は、見せ場はあるもののもの足りなさが残るが、本人の演技は悪くない。一方、ブラック役のディグズは、クイニー役、バーズ役に次いで見せ場が多く、中でも、クイニーと心を通わせるシーンで歌う「I’ll Be Here」が佳曲なので、面目躍如の感。
 その他のキャストでは、メイ役のジェニファー・コディが、独特の小娘キャラクターで記憶に残った。

 しかし……、やはり恐慌は来るのか?>

 恐慌は来るのか? コロナ禍で? って感じの昨今ですが、それはそれとして、マンハッタン・シアター・クラブ版は観直してみたいな、と、ときどき思います。

The Chronicle of Broadway and me #234★(2000/Mar.)

★2000年3月@ニューヨーク(その1)

IMG_2245

 33度目のブロードウェイ(44歳)。

 旧サイトに当時書いた観劇旅行全体についての感想です。

<そもそもは、期間限定公演の『Saturday Night』(Feverじゃなくて)と『The Wild Party』(マンハッタン・シアター・クラブ版)のチケットが取れたので、2泊で行こうと考えていた今回のニューヨーク。飛行機の値段が16日までちょっと安いのをいいことに2泊も増やしてしまったが、それでも観たいものを観きれない。

 結果、もう1つの『The Wild Party』(パブリック・シアター版)を除いてはオフばかりを観ることになった今回。前回も思ったことだが、出来不出来はあっても、今はオンよりオフの方が、作り手のアイディアや思いが直に伝わってきて面白い。
 中でもユニークだった、マスク・ショウの『Carnival Knowledge』や、初の本格的ラップ・ミュージカルと言っていい『The Bomb-Itty Of Errors』を観ながら感じたのは、こうした一見新しく見える作品の背景にある脈々たる伝統の力だ。おそらく、『The Bomb-Itty Of Errors』などは話題になって、その表層は例によって日本でマネされたりするのだろうが、むしろ、古くからあるものを血肉化して再生させる方法論と精神こそを学びたい。

 と、まあ、当たり前のことをまたまた考えさせられた旅だった。>

3月16日20:00 Carnival Knowledge@Flea Theatre 41 White Street
3月17日20:00 Saturday Night@Second Stage Theatre 307 W. 43rd St.
3月18日14:00 The Wild Party@Virginia Theatre 245 W. 52nd St.
3月18日17:00 The Bomb-Itty Of Errors@45 Bleecker 45 Bleecker St.
3月18日20:00 The Wild Party@Manhattan Theatre Club Stage 1/City Center
3月19日15:00 Taking A Chance On Love@Theatre At St. Peter’s 619 Lexington Ave.
3月19日19:00 The Big Bang@Douglas Fairbanks Theater 432 W. 42nd St.

 各作品の感想は別稿で。

 上掲写真は、『Aida』プレヴュー公演中のパレス劇場。次回渡米の5月に観ることになります。最近の観劇パターンだと、このプレヴュー時に観てるはず。まだまだ、のんびりしてました。

The Chronicle of Broadway and me #233(Inappropriate/Tango Algentino/The Great Gatsby/James Joyce’s The Dead[2]/Our Sinatra/Marie Christine[2])

2000年1月@ニューヨーク(その5)

 この渡米時に観て、当時、旧サイトに感想を書いていない分を、データ的なことを中心に、まとめて。

IMG_2231

 『Inappropriate』(1月2日19:00@Theatre Row)については、「アフター『Rent』世代のミュージカルが生まれつつあることを感じさせる、表現意欲にあふれた舞台だった。」という一文を当時書き残している。
 製作者のひとり、マイケル・デシストは、トラブルを抱えた子供たちのためのセラピー寄宿学校を設立、運営した人。その学校での活動から生まれたのがこのミュージカルで、脚本には生徒たちの声が反映されているという。出演していたのも、そうした生徒たち。2006年に登場するミュージカル版『Spring Awakening』の先駆け的ドキュメンタリー版と言えなくもない。このニューヨーク公演の後、3月からロスアンジェルス公演を行なっている。
 デシストは、2003年に腎臓移植の手術後に脳出血を起こして亡くなり、学校もその翌年になくなっているが、この作品は、その後も上演されているようだ。こちらに最近の舞台のダイジェスト映像が上がっている。
 楽曲マイケル・ソッティーリ、脚本ロニー・マクニール&マイケル・ソッティーリ、演出レイ・リーパー&マイケル・ソッティーリ、振付レイ・リーパー。デジスト没後の2004年にソッティーリが、受け取るべき支払金の問題で提訴している。そのことと関係があるのかどうかは不明だが、上記リンクにある近年の映像のクレジットにはマイケル・デシストの名前は載っていない。

IMG_2230

 『Tango Argentino』(1月3日20:00@Gershwin Theatre)は、1985年にブロードウェイに登場したタンゴ・パフォーマンスのリヴァイヴァル。
 プロデューサーは違っているが、作・演出は初演と同じクラウディオ・セゴビアとエクトル・オレソリ。1989年『Black And Blue』のコンビでもある(ちなみに、1985年版『Tango Argentino』『Black And Blue』のプロデューサーは、いずれもメル・ハワードとドナルド・K・ドナルド)。

IMG_2232

 『The Great Gatsby』(1月4日20:00@Metropolitan Opera House)は、ジョン・ハービソンの新作オペラ。ジェームズ・レヴァインの音楽監督就任25周年記念作品だったらしい(彼が指揮している)。もちろん原作はスコット・フィッツジェラルドの同名小説。
 ロングアイランドとマンハッタンの間の、物語の鍵となる車の修理工場のある薄汚れた街の場面が強く印象に残っている。
 METオンデマンドで、3日前(2000年1月1日)の公演の音源を聴くことができる。

IMG_2229

 『James Joyce’s The Dead』(1月5日20:00@Belasco Theatre)のブロードウェイ移行後の公演。オフ公演と内容的には変わりなし。
 あえて書き加えるとすれば、入場後に通路でアッシャーが来るのを待っていたら、そんな私を押しのけて、アッシャーを待たずに席に向かう日本人がいたことかな。俗にオザケンと呼ばれる人ですが、さる日本の若手女優と一緒だったので張り切っていたのでしょう(笑)。

IMG_2233

 『Our Sinatra』(1月7日20:00@Blue Angel Theate)は、フランク・シナトラのレパートリーによるコンサート形式のシナトラ・トリビュート・レヴュー。
 前年(1999年)の8月にアルゴンキン・ホテルのオーク・ルームでオープンしたらしい。それが同年12月に、このブルー・エンジェル劇場(ま、クラブですが)に移って、結局2002年7月までのロングランとなる。その後も2組のツアーが生まれるなど、断続的にニューヨークも含む全米各地で上演されているようだ。すごく優れてるわけじゃないけど、ちょっと楽しむには悪くない、って作品。
 出演もしていた、エリック・カムストック、ヒラリー・コール、クリストファー・ジャインの3人が自ら構成。3人ともジャズ系の独立した歌手であり、カムストックはピアノも弾く。演出はカート・スタン。
 ブルー・エンジェル劇場って、今もあるのかな? 44丁目の8番街と9番街の間はよく通るけど、見かけない気がするが。
 

 なお、2度目の『Marie Christine』(1月6日20:00@Vivian Beaumont Theatre)については、1度目の感想とまとめて、こちらにアップしてあります。One of my Best Musicals I ever saw です。